大杉栄とその時代年表(339) 1901(明治34)年5月25日~31日 「余は漱石と二人田圃を散歩して早稲田から関口の方へ往たが大方六月頃の事であつたらう、そこらの水田に植ゑられたばかりの苗がそよいで居るのは誠に善い心持であつた。この時余が驚いた事は、漱石は、我々が平生喰ふ所の米はこの苗の実である事を知らなかつたといふ事である。都人士の菽麦を弁ぜざる事は往々この類である。もし都の人が一匹の人間にならうといふのはどうしても一度は鄙住居をせねばならぬ。」(子規「墨汁一滴」)
1901(明治34)年
6月
横田永之助、兄の万寿之助と京都で横田兄弟商会を創立(のち「横田商会」と改称)。同月、新京極の芝居小屋「夷谷座」でフランスから輸入したドキュメンタリーフィルムを公開。
6月
官設鉄道、学生定期券新設。
6月
大阪教育所設立。
6月
漱石の妻、鏡子の父、中根重一の生活逼迫する。
5月2日、第4次伊藤内閣が総辞職。6月2日、第1次桂内閣成立。
伊藤の女婿、内相兼松謙澄の政治生命も大打撃を受け、この打撃は配下の内務省地方局長中根重一にも及ぶ。加えて、北清事変の戦後恐慌は、熊本第九銀行から始まり全国的な取付けさわざに発展した。元老内閣から少壮官僚内聞に交替した一大転換期に巻き込まれ、中根は地位も財産もなくしていた。
「それからといふもの運が向いてまゐりません。職はなし、前の相場の穴はあり、それを何とかして埋めなければといふので、手を出せば出すほどよくない。さうなればいよいよあせるといつたわけで、その頃の父の懐加減は、最初のうちはわからなかったのですか、もう私にも大体わかってゐて、たとへ零細な金でも借りられないほど気の毒な状態になってをりました。・・・・・
・・・・・そこで私もその気になつて日蔭者のやうな暮らしをいたしました。第一着物などはこしらへるどころか、普段着なんぞはいつの間にやら着破つてしまひ、あとでは自分の着物ばかりでは迫ひつかなくなつて、要目の無けなしの大島なんぞを仕立てなはして、いかな普段着でも新らしいものを買って、金を出すよりはと思ひまして、一寸見はいいやうですが、その実大変なやりくりでそれを着ました。着たら最後代りがないのですから、惜しいとは知りながらみすみす着破つたものです。夜具なんぞもそのとほりで、縫ひなはさうにも代りもなければ綿打ちの代も惜しいといふわけで、何もかもそのままで大やぷけ。・・・・・子供二人には元々お古からが何もないのですから、季節季節には何か買つてやらなければならないので、本当に弱りました」(『漱石の思ひ出』一五「留守中の生活」)
6月
英領ソマリランド、国境問題でエチオピアと敵対し保護寮内では英支配に抵抗していた「マッド・ムラー」派の勢力、英派遣軍に一掃される。
6月1日
「 ガラス玉に十二匹の金魚を入れて置いたら或る同じ朝に八匹一所に死んでしまつた。無惨。
(六月一日)」(子規「墨汁一滴」)
6月2日
第1次桂太郎内閣成立。元老は1人も入閣せず。閣僚大半は山県派に属す。重要事項は元老院・午前会議で決定とする申し合わせ。
「緞帳内閣」(緞帳の背後の指示下にある)・「二流内閣」と呼ばれる。「政綱」で韓国保護国化政策を初めて掲げる。外務大臣に曾禰荒助任命(蔵相の臨時兼任)。9月21日小村寿太郎、外相就任。
内閣総理大臣:桂太郎、外務大臣:曾禰荒助(臨時兼任)、内務大臣:内海忠勝、大蔵大臣:曾禰荒助、陸軍大臣:兒玉源太郎(兼任)、海軍大臣:山本權兵衞、司法大臣:清浦奎吾、文部大臣:菊池大麓、農商務大臣:平田東助、逓信大臣:芳川顯正、内閣書記官長:柴田家門、法制局長官:奥田義人。
6月3日
清国に経済特科開設。
6月3日
社会民主党の安部・片山ら、組織を改め社会平民党として結社届。即日禁止。
6月3日
6月3日~4日 ロンドンの漱石
「六月三日(月)、 Elephant & Castle (エレファント・エンド・カスル)に行き、古本を二ギニー(四十二シリング)ほど買う。 Prof. Hales (ヘールズ教授)から手紙で、第五高等学校に就職を望む候補者に通知したことを伝えてくる。煙草二箱買う。
六月四日(火)、 Dr. Craig の許に行く。帰途、 George Winter (ジョージ・ウィンター)(不詳)で古本(九円)を買う。 Prof. Hales (ヘールズ教授)から葉書で第五高等学校に関する印刷物を送るようにと伝えて来る。」(荒正人、前掲書)
6月4日
黒岩周六「理想団について」。
6月4日
川上音二郎、英着。ロンドン~パリ~ベルリン。
6月5日
6月5日~6日 ロンドンの漱石
「六月五日(水)、 Darby Day (ダービー競馬の日)で、下宿付近(Tooting に近い Epsom (エプサム)街道)は大騒ぎである。
六月六日(木)、午前、 Prof. Hales (ヘールズ教授)から、候補者が直接会いたいとのことで、午後三時二十分、 King's College (キングス・カレッジ)に来て欲しいと手紙を貰い、出掛けたけれど、三十分遅刻したため会えない。」(荒正人、前掲書)
6月6日
鳳晶子(23)、堺出奔。上京。
16日午前、新詩社の小集(茶話会)に初めて出席。この会で初めて東京在住同人たちと対面。
単身上京、東京府豊多摩郡渋谷村字中渋谷272番地の鉄幹宅に身を寄せる(6日説、正富汪洋「明治の青春」、10日説、晶子「短歌三百講」、14日説、6月16日付滝野宛鉄幹書簡)。
6月6日
「 この頃の短夜(みじかよ)とはいへど病ある身の寐られねば行燈(あんどん)の下の時計のみ眺めていと永きここちす。
午前一時、隣の赤児(あかご)泣く。
午前二時、遠くに鷄聞ゆ。
午前三時、単行の汽缶車(きかんしゃ)通る。
午前四時、紙を貼(は)りたる壁の穴僅(わずか)にしらみて窓外の追込籠(おいこみかご)に鳥ちちと鳴く、やがて雀(すずめ)やがて鴉(からす)。
午前五時、戸をあける音水汲む音世の中はやうやうに音がちになる。
午前六時、靴の音茶碗(ちゃわん)の音子を叱る声拍手の声善の声悪の声千声(せんせい)万響(ばんきょう)遂に余の苦痛の声を埋うずめ終る。
(六月六日)」(子規「墨汁一滴」)
6月6日
インドネシア独立運動家・大統領スカルノ、誕生。
6月7日
6月7日~8日 ロンドンの漱石
「六月七日(金)、 Prof. Hales (ヘールズ教授)から手紙で、候補者 Mr. Sweet (スウィート)に明日会うように云ってくる。
六月八日(土)、午後三時、 London University (ロンドン大学)の King's College に行き、 Prof. Hales (ヘールズ教授)の紹介で、 Mr. Sweet に会う。 King's College が閉門になるので、 Regent's Park に赴く。」(荒正人、前掲書)
6月8日
インド、パンジャーブ土地譲渡規制法施行。
6月9日
英、ベルファストで宗教暴動。数日間続く。
6月10日
京都西陣織物同業組合、金融恐慌の影響で機数の半減を決議。
6月10日
鹿児島線鹿児島~国分間開通。
6月10日
6月10日~11日 ロンドンの漱石
「六月十日(月)、 King's College に行き、 Prof. Hales (ヘールズ教授)に面会する。
六月十一日(火)、 Dr. Craig の許に行く。 Hyde Park (ハイド・パーク)・ St. James's Park (聖ジェームズ公園)を経て帰る。日本領事館・ Miss Nott から手紙来る。洋服屋に百円払う。」(荒正人、前掲書)
つづく
0 件のコメント:
コメントを投稿