1901(明治34)年
6月29日
「 不折君と為山氏は同じ小山門下の人で互に相識る仲なるが、いづれも一家の見識を具(そな)へ立派なる腕を持ちたる事とて、自(おのずか)ら競争者の地位にあるが如く思はる。よし当人は競争するつもりに非(あらざ)るも傍にある余ら常に両者を比較して評する傾向あり。しかも二人の画も性質も挙動も容貌も一々正反対を示したるは殊に比較上興味を感ずる所以(ゆえん)なり。二人の優劣は固より容易に言ふべからざるも互に一長一短ありて甲越(こうえつ)対陣的の好敵手たるは疑ふべきにあらず。先づその容貌をいはんに為山氏は丈高く面おも長く全体にすやりとしたるに反し、不折君は丈低く面鬼の如く髯(ひげ)ぼうぼうとして全体に強き方なり。為山氏は善き衣善き駒下駄を著(つ)け金が儲(もう)かれば直(ただち)に費しはたすに反して不折君は粗衣粗食の極端にも耐へなるべく質素を旨として少しにても臨時の収入あればこれを貯蓄し置くなり。君が赤貧(せきひん)洗ふが如き中より身を起して独力を以て住屋と画室とを建築し、それより後二年ならずして洋行を思ひ立ちしかも他人の力を借らざるに至ては君が勤倹の結果に驚かざるを得ず。為山氏は余り議論を好まず普通の談話すら声低くして聞き取りがたきほどなるに反して不折君は議論は勿論、普通の談話も声高く明瞭なり。為山氏は感情の人にして不折君は理窟の人なり。為山氏は無精なる方にて不折君は勉強家の随一なり。為山氏は酒も飲み煙草も飲む、不折君は酒も飲まず煙草も飲まず。凡(およ)そこれらの性質嗜好の相違はさる事ながらその相異が尽ことごとく画の上にあらはるるに至つて益々興味を感ずるなり。
為山氏の画は巧緻(こうち)精微(せいび)、不折君の画は雅樸(がぼく)雄健(ゆうけん)。為山氏は熟慮して後に始めて筆を下し不折君はいきなりに筆を下して縦横に画きまはす。為山氏は一草一木を画きて画となす事も少からねど不折君は寸大の紙にもなほ山水村落の大景を描く癖あり。同一の物を写生するに為山氏のは実物よりもやや丈高く画き不折君のは実物よりもやや丈低く画く。為山氏は何か画いても自分の気に入らねば直に捨てて顧みず、不折君は一旦画き初めし者はどうでもかうでも仕上げてしまふ。為山氏は調子に乗つて画く、調子乗らざればいつまでも画かず、不折君は初より終まで孜々(しし)として怠らずに画く。これらの相異枚挙に遑(いとま)あらず。(二人相似の点もなきに非ず)
余はなほ多くを言はんと思ひしも不折君出発後敵なきに矢を放つもいかがなれば要求質問注意の箇条を節略して左に記し以て長々しき文章の終となし置くべし。
剛慢(ごうまん)なるは善し。弱者後輩を軽蔑する莫(なか)れ。
君は耳遠きがために人の話を誤解する事多し。注意を要す。(少しほめたるを大(おおい)にほめたるが如く思ふ誤即ち程度の誤最も普通なり)
人二人互に話し居る最中に突然横合から口を出さぬやう注意ありたし。
余りうかれぬやうありたし。
画の事につきてとかうの注意がましき事をいふなどは余り生意気の次第なれど余は予(かね)てより君に向つていひたく思ひながらもこの頃の容態にては君に聞ゆるほどの声を出す能はず、因(よ)つてここに一言するなり。そは君の嗜好が余りに大、壮などいふ方に傾き過ぎて小にして精、軽にして新などいふ方の画を軽蔑し過ぎはせずやといふ事なり。近年君の画を見るにややその嗜好を変じ今日にては必ずしもパノラマ的全景をのみ喜ぶ者には非るべけれどなほややもすれば広袤(こうぼう)の大なる場所を貴ぶの癖なきに非ず。油画にてはなけれど小き書画帖に大きなる景色を画いて独り得々たるが如きも余は久しき前より心にこれを厭はしく思へり。大景必ずしも悪からずといへども大景(少くとも家屋と樹木と道路位は完備せる)でありさへすれば画になる如く思へるは如何にしても君が大景に偏するを証すべきなり。しかし余は大景を捨てて小景を画けといふに非ず、ただ君の嗜好の偏するにつきて平生意見の衝突すれども直に言はれざりし不平をここに僅(わず)かに漏らすのみ。
西洋へ往きて勉強せずとも見物して来れば沢山なり。その上に御馳走を食ふて肥えて戻ればそれに上こす土産はなかるべし。余り齷齪(あくせく)と勉強して上手になり過ぎ給ふな。
(六月二十九日)」(子規「墨汁一滴」)
6月30日
「 羯翁(かつおう)の催しにて我枕辺に集まる人々、正客(しょうきゃく)不折を初として鳴雪(めいせつ)、湖村(こそん)、虚子(きょし)、豹軒(ひょうけん)、及び滝氏ら、蔵六も折から来合(きあわ)されたり。草庵ために光を生ず。
虚子後に残りて謡曲「舟弁慶(ふなべんけい)」一番謡(うた)ひ去る。
(六月三十日)」(子規「墨汁一滴」)
7月
漱石、この頃から一念発起して社会学、心理学などの本を読みあさり、開化の法則と文学との関係とかの「科学的」研究に没頭。
この頃、化学者池田菊苗(1864~1936)がドイツ留学から帰国の途次ロンドンに立ち寄り、8月30日の出発までの52日間、漱石の下宿に同宿。
「池田君は理学者だけれども話して見ると偉い哲学者であったには驚ろいた。大分議論をやって大分やられた事を今に記憶してゐる。倫敦で池田君に逢ったのは自分には大変な利益であった。御陰で幽霊の様な文学をやめて、もつと組織だったどっしりした研究をやらうと思ひ始めた。」(『漱石全集』25巻)
池田菊苗は「味の素」の発明者。池田の長男池田醇一は、父菊苗が社会主義者であったこと、三男池田兼六は、菊苗が学生時代に『資本論』第一巻を読んだ、と伝えている。
7月
堺利彦『言文一致普通文』刊行。上旬に出た初版3千部がすぐに売り切れ、下旬に3千部を重版。初版分の原稿料は20円、再版以降は一版ごとに10円を受け取る約束だったという。
7月
アメリカ社会党創立。労働者・小農場主などを結集。ユージン・デブス委員長就任.
7月1日
日本広告会社・電報通信社設立。大阪、1907年8月 日本電報電信社(株)として合併。電通(株)の前身。
7月1日
「 健康な人は蚊が少し出たばかりの事で大騒ぎやつてうるさがつて居る。病人は蒲団(ふとん)の上に寐たきり腹や腰の痛さに堪へかねて時々わめく、熱が出盛(さか)ると全体が苦しいから絶えずうなる、蚊なんどは四方八方から全軍をこぞつて刺しに来る。手は天井からぶらさがつた力紐(ちからひも)にすがつて居るので蚊を打つ事は出来ぬ。仕方がないので蚊帳(かや)をつると今度は力紐に離れるので病人は勢力の半(なかば)を失ふてしまふ。その上にもし夜が眠られぬと来るとやるせも何もあつたものぢやない。
(七月一日)」(子規「墨汁一滴」)
7月1日
米、鉄鋼労働者賃金問題労働争議、暴動に発展。
7月1日
ニューヨークで異常高温(~2)。日陰でも37度超。約100人死亡。
7月1日
仏、結社法案可決。修道院など、19世紀半ば以降設立の教育・慈善事業を目的とする宗教団体は、議会に認可申請義務。
7月1日
この日付け漱石の『日記』
「七月一日(月)
近頃非常ニ不愉快ナリ。クダラヌ事ガ気ニカゝル。神経病カト怪マル。然一方デハ非常ニヅーヅー敷処ガアル、妙ダ。
「洒々落々光風霽月トハ中々ユカン、駄目駄目。
「鈴木へ Studio ノ Special number ト絵葉書ヲ出ス」
7月2日
この日で「墨汁一滴」終わる。
「 鮓(すし)の俳句をつくる人には訳も知らずに「鮓桶」「鮓圧(お)す」などいふ人多し。昔の鮓は鮎鮓(あゆずし)などなりしならん。それは鮎を飯の中に入れ酢をかけたるを桶の中に入れておもしを置く。かくて一日二日長きは七日もその余も経て始めて食ふべくなる、これを「なる」といふ。今でも処によりてこの風残りたり。鮒鮓(ふなずし)も同じ事なるべし。余の郷里にて小鯛(こだい)、鰺(あじ)、鯔(ぼら)など海魚を用ゐるは海国の故なり。これらは一夜圧して置けばなるるにより一夜鮓ともいふべくや。東海道を行く人は山北にて鮎の鮓売るを知りたらん、これらこそ夏の季に属すべき者なれ。今の普通の握り鮓ちらし鮓などはまことは雑(ぞう)なるべし。
(七月二日)」(子規「墨汁一滴」)
7月2日
7月2日 ロンドンの漱石
「七月二日(火)、午後、 Dr. Craig の許に行く。」(荒正人、前掲書)
つづく
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