1901(明治34)年
8月19日
琉球王国最後の国王尚泰(58)、没。
8月20日
京釜鉄道、京城西南永登浦で起工式。
8月20日
8月20日~22日 ロンドンの漱石
「八月二十日(火)、 Dr. Craig の許に行く。一ポンド払う。三回分の貸し。 Charing Cross Road (チャリング・クロス街)で新本・古本買う。(五十六、七円)
八月二十一日(水)、『日本新聞』と『太陽』(七月号)(推定)届く。(鈴木禎次からか)
八月二十二日(木)、 Mr. Sweet (スウィート)から、出発の日取り決定したと知らせる(推定)手紙来る。返事出す。(二十四日(土)の会合について知らせたものと思われる。(推定))菊地謙二郎(仙湖)から葉書来る。夜、下宿の老嬢の姉夫婦来て、一緒にお茶に招かれ、また夕食を共にする。」(荒正人、前掲書)
8月21日
コペンハーゲン、第2インターナショナル系独英などの組合代表、国際労働組合会議開催。
8月21日
米、デトロイトでキャデラック自動車会社設立。
8月23日
韓国、収穫期に至れば米穀輸出禁止を解除する旨、林権助駐韓公使に言明。
8月23日
アメリカ人教師600人がマニラに到着、公教育普及政策に従事。
8月24日
8月24日~25日 ロンドンの漱石
「八月二十四日(土)、 Mr. Sweet (スウィート)に Bedford Row (ベッドフォード街)で面会する。
八月二十五日(日)、 Mr. Fardel (ファーデル)を訪ねて、 Chelsea (チェルシー)に行く。昼食を共にし、 Hyde Park (ハイド・パーク)を散歩し、街頭演説を聴く。」(荒正人、前掲書)
8月26日
午後、子規庵で「俳談会」開催。約20名が集まる。
「・・・・・夕方までつづいたこの会合での俳談はぶるわなかったが、ひさかたぶりの混雑を子規はたのしんだ。
しかし、さすがに疲れた。体力の著しい消耗ぶりに、いくらたのしくとももはや大人数の会合はもう無理だ、そう子規は身をもって知った。俳談会はこの後、猿楽町の碧梧桐宅と九段坂上の虚子宅で持たれたが、二回で終った。子規をかこみ、子規を慰めなくては意味がないのである。この年は年末恒例の蕪村忌さえ子規庵ではなく、道灌山胞衣(えな)神社境内の芝生で行われた。むろん子規は参加できない。」(関川夏央、前掲書)
8月27日
8月27日~8月30日 ロンドンの漱石
「八月二十七日(火)、 Dr. Craig の許に行く。
八月二十九日(木)、夜、池田菊苗、暇乞いに来る。
八月三十日(金)、テムズ河岸の Albert Dock (アルバート埠頭)で、帰国する池田菊苗・呉秀三と William E.L. Seet (W・E・L・スウィート)を見送る。下宿の老嬢姉妹も来る。」(荒正人、前掲書)
8月29日
清国、武科挙停止。
8月30日
幸徳秋水、大宮政談演説会(日本鉄道大宮工場)に出席。秋水の最初の労働演説。
無署名「労働運動の趨勢」(「万朝報」9月9日)で労働運動の2派(調和派・社会主義派)を分類。
無署名「大宮工場」(「万朝報」9月30日)では日鉄大宮工場の機関車組立て手抜き問題を論じる。
8月31日
8月31日以降、大杉栄(16)、軍医に「脳神経衰弱」と診断され、2週間の休暇を与えられる。伯父(山田保永)のいる大阪に行く。摂津、河内、和泉を歩く。
つづく
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