2024年12月22日日曜日

大杉栄とその時代年表(352) 1901(明治34)年9月1日~2日 子規、『仰臥漫録』を書き始める 「午後八時腹ノ筋痛ミテタマラズ鎮痛剤ヲ呑ム 薬イマダ利カヌウチ筋ヤヤユルム  母モ妹モ我枕元ニテ裁縫ナドス 三人ニテ松山ノ話コトニ長町ノ店家ノ沿革話イト面白カリキ  十時半頃蚊帳ヲ釣リ寝ニツカントス 呼吸苦シク心臓鼓動強ク眠ラレズ 煩悶ヲ極ム 心気ヤヤ静マル 頭脳苦シクナル 明方少シ眠ル」 

 

正岡子規『仰臥漫録』

大杉栄とその時代年表(351) 1901(明治34)年8月19日~31日 子規庵で「俳談会」 約20名が集まる 「夕方までつづいたこの会合での俳談はぶるわなかったが、ひさかたぶりの混雑を子規はたのしんだ。 しかし、さすがに疲れた。体力の著しい消耗ぶりに、いくらたのしくとももはや大人数の会合はもう無理だ、そう子規は身をもって知った。」 より続く

1901(明治34)年

9月

関西労働組合期成会、大日本職工教育会と合同して労働青年会を結成。

9月

渡辺国武蔵相の公債依存事業繰り延べ案で閣議が紛糾。

9月

鉄幹と晶子、中渋谷272番地から1丁(約100m)ほど離れた高台、中渋谷382番地の借家へ転居。

9月

永井荷風(22)、社内の内紛により日出国新聞社を解雇される。暁星学校の夜学でフランス語を習い始め、ゾラの『大地』ほかの英訳を読んで傾倒

9月

虚子、俳書堂を創業


「九月(日不詳)、高浜虚子は、麹町区富士見町四丁目八番地に『ほととぎす』発行所と共に移る。俳書堂を創業し、俳書の出版をする。」(荒正人、前掲書)

9月

ロシア皇帝ニコライ二世夫妻、再度、仏訪問。両国間の同盟確認。

9月

オランダ、「倫理政策」開始。

9月

モロッコのスルタン、アブドュル・アジーズ、税制改革開始。

9月2日

子規、『仰臥漫録』を書き始める

『仰臥漫録』は、断続的に、9月2日~10月29日、翌年(明治35年)3月10日~13日、6月20日~7月29日、9月は子規死去の半日前まで書かれている。これは子規生前には発表されず、家人、門弟にも見せようとしなかった病床手記。

虚子は、「ホトトギス」の『消息』に

「頃日『仰臥漫録』なる冊子枕頭にあり。これは九月二日以降の日記にして仰臥のまま一行に行ずつくらい筆を取り何くれとなく認むるもの、写生の色彩があれば、俳句あり、御馳走の記事あり、『墨汁一滴』のさらに短かきが如きものにて、はなはだ面白く覚え候。行く行くは本誌に掲載の栄を得べく候」(9月20日発刊「ホトトギス」(4巻12号)の「虚子記」)」

と書いている。


また、『柿二つ』(1915年)には次のようにある。

 

「 墨汁一滴はその年の七月まで続いた。その夏の暑さは遂に彼に筆を投ぜしめた。彼は毎日詰らぬ顔をして新聞を見た。自分の影の映らぬ鏡を取上げたような心持であった。

 病苦は日を追うて激しくなって来る許りであった。どうしてこの夏を過ごしたものかと考えると、今日生きているということが恐ろしかった。が、死ぬるということはなお恐ろしかった。どうしたらいいのか判らなかった。矢張り苦痛の中に何事をかをせねばその日が過ごせないのであった。

 彼は美濃判の半紙を綴じたものを座右に置いた。今度は墨汁一滴のような公開的なものでなくて、誰に見せるというでもなくただ漫然と筆を執ることにしようと思い立った。

 ようやくそれに筆を執り始めたのは九月に入ってからであった。彼はそれに仰臥漫録と題した。」(高浜虚子 柿二つ)

「子規の大食ぶりは異常なほどであった。

明治三十四年九月二日の朝食に子規は、はぜの佃煮と梅干で粥四椀を食べた。

昼食には鰹の刺身と南瓜と佃煮で、やはり粥四椀。昼食時に葡萄酒一杯を飲むのは例のごとくだが、それも刺身も、子規だけにあてがわれたのである。昼食後に梨を二つ。

午後二時すぎのおやつには、牛乳一合をココアをまぜて飲みつつ、煎餅、菓子パンなど十個ばかりを口にした。

「此頃食ひ過ぎて食後いつも吐きかへす」

と子規は書くが、無理もなかろう。

その日の夕食は、なまり節と茄子一皿で奈良茶飯を四椀食べた。夕食後に梨を一つ。

食後いつも痛む左の下腹部が、ことのほか痛んだのも大食ゆえか。結核菌は肺と骨ばかりではない、消化器も侵しているから、もはや栄養分を吸収できないのである。歯茎がはげしく痛む。指で押せば膿が出る。これにも結核菌が関係しているはずだ。下腹部の病みは一度はおさまった。しかし午後八時頃ぶり返したので、鎮痛剤を服用する。

母と妹は、子規の枕元でずっと裁縫仕事をしている。鎮痛剤の効いた子規は、ふたりと松山の昔話などに興ずる。話題はやはり食べ物屋のこと、とくに鰌(どじよう)施餓鬼(せがき)の夜、路傍に出た鰌汁の話などである。

夜十時半に蚊帳をつって寝につこうとしたが今度は呼吸がにわかに苦しい。

「心臓鼓動強く眠られず、煩悶を極む」

眠ったのは明方であった。」(関川夏央、前掲書)


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明治三十四年九月二日 雨 蒸暑シ

庭前ノ景ハ棚ニ取付イテブラ下リタルモノ

夕顔二、三本瓢(ふくべ)二、三本糸瓜(へちま)四、五本

夕顔トモ瓢トモツカヌ巾着型(きんちゃくがた)ノモノ四ツ五ツ


女郎花(おみなえし)真盛鶏頭(けいとう)尺ヨリ四,五寸ノモノ二十本バカリ


夕顔ノ実ヲフクベトハ昔カナ

夕顔モ糸瓜モ同シ棚子同士

夕顔ノ棚ニ糸瓜モ下リケリ

鄙(ひな)ノ宿夕顔汁ヲ食ハサレシ


右八月二十六日俳談会席上作


夕顔ノ太リ過ギタリ秋ノ風

棚一ツ夕顔フクベヘチマナンド


病床ノナガメ

   棚ノ糸瓜思フ処ヘブラ下ル

   試ミニ名ヲハ巾着フクベカナ

   取付テ松ニモ一ツフクベカナ

   子ヲ育ツフクベヲ育ツ如キカモ

   雨ノ日ヤ皆倒レタル女郎花

   雨ノ日ヲ夕顔ノ実ノナガメカナ

   蝉ナクヤ五尺ニ足ラヌ庭ノ松

   糸瓜ブラリ夕顔ダラリ秋ノ風

   病間ニ糸瓜ノ句ナド作リケル

   野分近ク夕顔ノ実ノ太リ哉

   湿気多ク汗バム日ナリ秋ノ蠅

   鶏頭ノマダイトケナキ野分カナ

   秋モハヤ塩煎餅ニ渋茶哉


朝 粥(かゆ)四椀(わん)、ハゼノ佃煮(つくだに)、梅干(砂糖ツケ)

昼 粥四椀、鰹(かつお)ノサシミ一人前、南瓜(かぼちゃ)一皿、佃煮

夕 奈良茶飯四椀、ナマリ節(煮テ少シ生ニテモ) 茄子一皿

 コノ頃食イ過ギテ食後イツモ吐キカエス

  二時過牛乳一合ココア交テ

     煎餅菓子パンナド十個バカリ

   昼飯後梨二ツ

   夕飯後梨一ツ

 服薬ハクレオソート昼飯晩飯後各三粒(二号カプセル)

 水薬 健胃剤(けんいざい)

 今日夕方大食ノタメニヤ例ノ左下腹(したはら)痛クテタマラズ 暫(しばらく)ニシテ屁出デ筋ユルム

 松山木屋町(きやちょう)法界寺ノ鰌施餓鬼(どじょうせがき)トハ路端ニ鰌汁商フ者出ルナリト 母ナドモ幼キ時祖父ドノニツレラレ弁当持テ往(い)テソノ川端ニテ食ハレタリト モツトモ旧暦二十六日頃ノ闇ノ夜ノ事ナリトイフ


   餓鬼モ食ヘ闇ノ夜中ノ鰌汁


 午後八時腹ノ筋痛ミテタマラズ鎮痛剤ヲ呑ム 薬イマダ利カヌウチ筋ヤヤユルム

 母モ妹モ我枕元ニテ裁縫ナドス 三人ニテ松山ノ話コトニ長町ノ店家(みせや)ノ沿革話イト面白カリキ

 十時半頃蚊帳(かや)ヲ釣リ寝ニツカントス 呼吸苦シク心臓鼓動強ク眠ラレズ 煩悶(はんもん)ヲ極ム 心気(しんき)ヤヤ静マル 頭脳苦シクナル 明方少シ眠ル


つづく


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