2024年12月13日金曜日

大杉栄とその時代年表(343) 1901(明治34)年6月20日~25日 「不折君を紹介せられしは浅井氏なり。始めて君を見し時の事を今より考ふれば殆ど夢の如き感ありて、後来余の意見も趣味も君の教示によりて幾多の変遷を来し、君の生涯もまたこの時以後、前日と異なる逕路を取りしを思へばこの会合は無趣味なるが如くにしてその実前後の大関鍵たりしなり。」(子規「墨汁一滴」)   

 

中村不折肖像

大杉栄とその時代年表(342) 1901(明治34)年6月15日~18日 「試験だから俳句をやめて準備に取りかからうと思ふと、俳句が頻りに浮んで来るので、試験があるといつでも俳句が沢山に出来るといふ事になつた。これほど俳魔に魅入られたらもう助かりやうはない。明治二十五年の学年試験には落第した。、、、、、余は今でも時々学校の夢を見る。それがいつでも試験で困しめられる夢だ。」(子規「墨汁一滴」) より続く

1901(明治34)年

6月20日

理想団発会式。周六、円城寺、斯波、幸徳、堺、安部、片山、木下、小泉、久津見。


6月20日

「『俳星』に虚明(きょめい)の「お水取」といふ文があつて奈良の二月堂の水取の事が細(くわ)しく書いてある。余はこれを読んでうれしくてたまらぬ。京阪地方にはこのやうな儀式や祭が沢山にあるのだから京阪の人は今の内になるべく細しくその様を写して見せてもらひたい。その地の人は見馴れて面白くもなからうがまだ見ぬ者にはそれがどれほど面白いか知れぬ。殊に箇様(かよう)な事は年々すたれて行くから今写して置いた文は後にはその地の人にも珍しくなるであらう。京都の壬生(みぶ)念仏や牛祭の記は見た事もあるがそれも我々の如き実地見ぬ者にはまだ分らぬことが多い。葵祭(あおいまつり)祇園祭(ぎおんまつり)などは陳腐な故でもあらうがかへつて細しく書いた者を見ぬ。大阪にも十日夷(とおかえびす)、住吉の田植などいふ事がある。奈良に薪能(たきぎのう)が今でもあるなら是非見て来て書いてもらひたい。御忌(ぎょき)、御影供(みえいく)、十夜(じゅうや)、お取越、御命講(おめいこう)のやうな事でも各地方のを写して比較したら面白いばかりでなく有益であらうと思はれる。

(六月二十日)」(子規「墨汁一滴」)


6月21日

星亨(52)、暗殺。東京市役所参事会会議室で伊庭想太郎(旧幕臣、心形刀流剣術指南)によって暗殺。

左官職人の子供。陸奥によりロンドン官費留学。恩人陸奥の次男が古河市兵衛の養子であることから、古河の顧問弁護士を務める。

幸徳秋水「『日本にはもう刺客に遭う程のエライ人間はない』と信じていたが、まだ星がいた。たしかに彼は『エライ人』であった」と記す。

6月21日

6月21日~22日 ロンドンの漱石


「六月二十一日(金)、 Mr. Sweet (スウィート)から、明日 King's College (キングス・カレッジ)で会いたいとの手紙届く。

六月二十二日(土)、午前十時三十分、 King's College で Mr.Sweet (スウィート)に会う。午後一時、 Samuel (サミュエル)商会(推定)に、田中孝太郎を訪ねる。川上音二郎の芝居に誘われたが断る。後、田中孝太郎の下宿訪ね、 Earl's Court の Exhibition 見に行く。」(荒正人、前掲書)


6月22

住友家、日本鋳鋼所を買収し、住友鋳鋼場を開業。住友金属鉱業(株)の前身。

6月22

「 学校で歴史の試験に年月日を問ふやうな問題が出る。こんな事は必要があればだんだんに覚えて行く。学校時代に無理に覚えさせようとするのは愚な事だ。

(六月二十二日)」(子規「墨汁一滴」)

6月23

「 刺客はなくなるものであらうかなくならぬものであらうか。

(六月二十三日)」(子規「墨汁一滴」)

6月24

「 板垣伯(いたがきはく)岐阜遭難の際は名言を吐いて生き残られたので少し間(ま)の悪い所があつた。星氏の最期は一言もないので甚だ淋しい。願はくは「ブルタス、汝もまた」といふやうな一句があると大(おおい)に振ふ所があつたらう。

(六月二十四日)」(子規「墨汁一滴」)

6月24

6月24日~25日 ロンドンの漱石


「六月二十四日(月)、土井晩翠の下宿のことで、渡辺伝右衛門来る。

六月二十五日(火)、 Dr. Craig の許に行く。」(荒正人、前掲書)


6月25

6月25日 子規、中村不折を壮行する『墨汁一滴』


「子規は一八九四(明治二七)年二月に『日本』の姉妹紙である絵入新聞『小日本』の編集主任となったが、その挿絵画家として出会ったのが、中村不折(一八六六~一九四三)である。子規の写生論の絵画の領域からの導き手でもあった。その不折のフランス留学が決まり、子規は不折を壮行するための『墨汁一滴』を、六月二五日から掲載し始める。


中村不折君は来る二十九日を以て出発し西航の途に上らんとす。余は横浜の埠頭場(はとば)迄見送つてハンケチを振って別を惜む事も出来ずはた一人前五十銭位の西洋料理を食ひながら送別の意を表する訳にもゆかず、已むを得ず紙上に悪口を述べて聊か其行を杜にする事とせり。


港へ見送りにも行けず、送別会へも出られないから文章で壮行すると宣言しているのである。そして五日にわたって、二人の出会いから、「美術の大意を教へられし事」、すぐれた画家で、「且つ論客」であること、活字印刷メディア時代の画家としての能力が高く、挿絵の注文が絶えることがないなどと紹介し、不折が出発する当日の六月二九日は、「此頃の容態にては君の聞ゆる程の声を出す能はず因つてこゝに一言するなり」という断りをして、「大なる場所」の「景色」ばかりを描くのではなく、「小にして精」「軽にして新」の画を軽蔑しない方がよいと忠告した。耳の遠い不折に聞こえる大きな声を、子規は最早出すことが出来ないのだ。」

「 中村不折(ふせつ)君は来る二十九日を以て出発し西航の途に上らんとす。余は横浜の埠頭場(はとば)まで見送つてハンケチを振つて別(わかれ)を惜む事も出来ず、はた一人前五十銭位の西洋料理を食ひながら送別の意を表する訳にもゆかず、やむをえず紙上に悪口を述べて聊(いささ)かその行を壮にする事とせり。

 余の始めて不折君と相見しは明治二十七年三月頃の事にしてその場所は神田淡路町小日本新聞社の楼上(ろうじょう)にてありき。初め余の新聞『小日本』に従事するや適当なる画家を得る事において最も困難を感ぜり。当時の美術学校の生徒の如きは余らの要求を充たす能はず、そのほか浮世画工を除けば善くも悪くも画工らしき者殆ど世になかりしなり。この時に際して不折君を紹介せられしは浅井氏なり。始めて君を見し時の事を今より考ふれば殆ど夢の如き感ありて、後来余の意見も趣味も君の教示によりて幾多の変遷を来し、君の生涯もまたこの時以後、前日と異なる逕路を取りしを思へばこの会合は無趣味なるが如くにしてその実前後の大関鍵(だいかんけん)たりしなり。その時の有様をいへば、不折氏は先づ四、五枚の下画を示されたるを見るに水戸弘道館(みとこうどうかん)等の画にて二寸位の小き物なれど筆力勁健(けいけん)にして凡ならざる所あり、而してその人を見れば目つぶらにして顔おそろしく服装は普通の書生の著(き)たるよりも遥(はる)かにきたなき者を著たり、この顔この衣にしてこの筆力ある所を思へばこの人は尋常の画家にあらずとまでは即座に判断し、その画はもらひ受けて新聞に載する事とせり。これ君の画が新聞にあらはれたる始なり。

 その頃新聞に骸骨(がいこつ)物語とかいふ続き物ありしがある時これに画を挿(はさ)まんとてその文の大意を書きこの文にはまるやうな画をかいてもらひたしと君に頼みやりしに君は直(ただち)にその画をかいて送りこしたり。この時の骸骨雨宿りの画は意匠の妙といひ筆力の壮といひ社中の同人を駭(おどろ)かしたる者なり。余がこれまでの経験によるに画工に向つて注文する所往々にしてその主意を誤られ、よし誤られざるも十ヶ条の注文の中僅かに三、四ヶ条の条件を充たさるるを以て満足せざるべからざる有様なりき。しかるに不折君に向つての注文は大主意だに説明し置けば些末(さまつ)の事は言はずとも痒(かゆ)き処に手の届くやうに出来るなり、否(いな)余ら素人の考の及ばざる処まで一々巧妙の意匠を尽(つく)せり。是(ここ)において余は漸(ようや)く不折君を信ずるの深きと共に君を見るの遅きを歎(たん)じたり。これより後また新聞の画に不自由を感ずる事なかりき。

(六月二十五日)」(子規「墨汁一滴」)

つづく

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