1901(明治34)年
6月15日
土井晩翠(29)、横浜から常陸丸で出航、二高教授を辞任してヨーロッパへの自費留学に向かう。37年11月帰国。
6月15日
子規、「墨汁一滴」で最初の喀血、ブッセの哲学の授業、試験の苦労を想起する。
「 余が落第したのは幾何学に落第したといふよりもむしろ英語に落第したといふ方が適当であらう。それは幾何学の初にあるコンヴアース、オツポジトなどといふ事を英語で言ふのが余には出来なんだのでそのほか二行三行のセンテンスは暗記する事も容易でなかつた位に英語が分らなかつた。落第してからは二度目の復習であるから初のやうにない、よほど分りやすい。コンヴアースやオツポジトを英語でしやべる位は無造作に出来るやうになつたが、惜しい事にはこの時の先生はもう隈本先生ではなく、日本語づくめの平凡な先生であつた。しかしこの落第のために幾何学の初歩が心に会得せられ、従つてこの幾何学の初歩に非常に趣味を感ずるやうになり、それにつづいては、数学は非常に下手でかつ無知識であるけれど試験さへなくば理論を聞くのも面白いであらうといふ考を今に持つて居る。これは隈本先生の御蔭(おかげ)かも知れない。
今日は知らないがその頃試験の際にズルをやる者は随分沢山あつた。ズルとは試験の時に先生の眼を偸(ぬす)んで手控を見たり隣の人に聞いたりする事である。余も入学試験の時に始めてその味を知つてから後はズルをやる事を何とも思はなんだが入学後二年目位にふと気がついて考へて見るとズルといふ事は人の力を借りて試験に応ずるのであるから不正な上に極めて卑劣な事であると始めて感じた。それ以後は如何なる場合にもズルはやらなかつた。
明治二十二年の五月に始めて咯血(かっけつ)した。その後は脳が悪くなつて試験がいよいよいやになつた。
明治二十四年の春哲学の試験があるのでこの時も非常に脳を痛めた。ブツセ先生の哲学総論であつたが余にはその哲学が少しも分らない。一例をいふとサブスタンスのレアリテーはあるかないかといふやうな事がいきなり書いてある。レアリテーが何の事だか分らぬにあるかないか分るはずがない。哲学といふ者はこんなに分らぬ者なら余は哲学なんかやりたくないと思ふた。それだから滅多に哲学の講義を聞きにも往かない。けれども試験を受けぬ訳には往かぬから試験前三日といふに哲学のノート(蒟蒻板(こんにゃくばん)に摺(す)りたる)と手帳一冊とを携へたまま飄然(ひょうぜん)と下宿を出て向島の木母寺(もくぼじ)へ往た。この境内に一軒の茶店があつて、そこの上(かみ)さんは善く知つて居るから、かうかうで二、三日勉強したいのだが百姓家か何処か一間借りてくれまいかと頼んで見た。すると上(かみ)さんのいふには二、三日なら手前どもの内の二階が丁度明いて居るからお泊りになつても善いといふので大喜びでその二階へ籠城(ろうじょう)する事にきめた。
それから二階へ上つて蒟蒻板のノートを読み始めたが何だか霧がかかつたやうで十分に分らぬ。哲学も分らぬが蒟蒻板も明瞭でない、おまけに頭脳が悪いと来てゐるから分りやうはない。二十頁も読むともういやになつて頭がボーとしてしまふから、直(すぐ)に一本の鉛筆と一冊の手帳とを持つて散歩に出る。外へ出ると春の末のうららかな天気で、桜は八重も散つてしまふて、野道にはげんげんが盛りである。何か発句にはなるまいかと思ひながら畦道(あぜみち)などをぶらりぶらりと歩行(ある)いて居るとその愉快さはまたとはない。脳病なんかは影も留めない。一時間ばかりも散歩するとまた二階へ帰る。しかし帰るとくたびれて居るので直に哲学の勉強などに取り掛る気はない。手帳をひろげて半出来の発句を頻(しき)りに作り直して見たりする。この時はまだ発句などは少しも分らぬ頃であるけれどさういふ時の方がかへつて興が多い。つまらない一句が出来ると非常の名句のやうに思ふて無暗に嬉しい時代だ。あるいはくだらない短歌などもひねくつて見る。こんな有様で三日の間に紫字のノートをやうやう一回半ばかり読む、発句と歌が二、三十首出来る。それでもその時の試験はどうかかうかごまかして済んだ。もつともブツセといふ先生は落第点はつけないさうだから試験がほんたうに出来たのだかどうだか分つた話ぢやない。
(六月十五日)」(子規「墨汁一滴」)
6月16日
孫文、日本に亡命。
6月16日
関西美術会結成。
6月16日
「新詩社」茶話会で十数名の同人に晶子は初めて紹介される。晶子は鉄幹の主導で歌集刊行に取りかかる。
6月16日
この日の「墨汁一滴」。明治24年に学年試験を途中でやめ、大宮の料亭旅館「万松楼」で試験準備をするはずが、竹村黄塔や漱石を呼んで結局遊んでしまったこと、「俳魔に魅入られ」て落第を繰り返したことなどを、ユーモアたっぷりに振り返える。
「 明治二十四年の学年試験が始まつたが段々頭脳が悪くなつて堪(た)へられぬやうになつたから遂(つい)に試験を残して六月の末帰国した。九月には出京して残る試験を受けなくてはならぬので準備をしようと思ふても書生のむらがつて居るやかましい処ではとても出来さうもないから今度は国から特別養生費を支出してもらふて大宮の公園へ出掛けた。万松楼(ばんしょうろう)といふ宿屋へ往てここに泊つて見たが松林の中にあつて静かな涼しい処で意外に善い。それにうまいものは食べるし丁度萩の盛りといふのだから愉快で愉快でたまらない。松林を徘徊(はいかい)したり野逕(のみち)を逍遥(しょうよう)したり、くたびれると帰つて来て頻りに発句を考へる。試験の準備などは手もつけない有様だ。この愉快を一人で貪るのは惜しい事だと思ふて手紙で竹村黄塔を呼びにやつた。黄塔も来て一、二泊して去つた。それから夏目漱石を呼びにやつた。漱石も来て一、二泊して余も共に帰京した。大宮に居た間が十日ばかりで試験の準備は少しも出来なかつたが頭の保養には非常に効験(こうけん)があつた。しかしこの時の試験もごまかして済んだ。
この年の暮には余は駒込に一軒の家を借りてただ一人で住んで居た。極めて閑静な処で勉強には適して居る。しかも学課の勉強は出来ないで俳句と小説との勉強になつてしまふた。それで試験があると前二日位に準備にかかるのでその時は机の近辺にある俳書でも何でも尽(ことごと)く片付けてしまふ。さうして机の上には試験に必要なるノートばかり置いてある。そこへ静かに座をしめて見ると平生乱雑の上にも乱雑を重ねて居た机辺(きへん)が清潔になつて居るで、何となく心持が善い。心持が善くて浮き浮きすると思ふと何だか俳句がのこのこと浮んで来る。ノートを開いて一枚も読まぬ中(うち)に十七字が一句出来た。何に書かうもそこらには句帳も半紙も出してないからラムプの笠に書きつけた。また一句出来た。また一句。余り面白さに試験なんどの事は打ち捨ててしまふて、とうとうラムプの笠を書きふさげた。これが燈火十二ヶ月といふので何々十二ヶ月といふ事はこれから流行(はや)り出したのである。
かういふ有様で、試験だから俳句をやめて準備に取りかからうと思ふと、俳句が頻りに浮んで来るので、試験があるといつでも俳句が沢山に出来るといふ事になつた。これほど俳魔に魅入られたらもう助かりやうはない。明治二十五年の学年試験には落第した。リース先生の歴史で落第しただらうといふ推測であつた。落第もするはずさ、余は少しも歴史の講義聴きに往かぬ、聴きに往ても独逸(ドイツ)人の英語少しも分らぬ、おまけに余は歴史を少しも知らぬ、その上に試験にはノート以外の事が出たといふのだから落第せずには居られぬ。これぎり余は学校をやめてしまふた。これが試験のしじまひの落第のしじまひだ。
余は今でも時々学校の夢を見る。それがいつでも試験で困しめられる夢だ。
(六月十六日)」(子規「墨汁一滴」)
6月17日
「 名古屋を境界線としてこれより以東以北の地は毎朝飯をたいて味噌汁をこしらへる。これより以西以南の地は朝は冷飯(ひやめし)に漬物で食ふ。これは気候寒暖の差から起つた事であらう。
(六月十七日)」(子規「墨汁一滴」)
6月18日
中江兆民、手術後、堀内医院前の浅尾氏の一室を借りて療養していたが、この日退院、中の島の中塚旅館に帰る。~7月4日。
6月18日
「 東京中の鼠(ねずみ)を百万匹として毎日一万匹宛捕(と)るとすれば百日にて全滅する理窟だ。しかし百日の内に子を産んで行くとすれば実際はいつなくなるか分らぬ。何にしろ一旦始めたのだから鼠の尽きるまでやつて見るが善いであらう。
頭の白い鼠や頭の黒い鼠もちと退治るが善い。
(六月十八日)」(子規「墨汁一滴」)
6月18日
6月18日~19日 ロンドンの漱石
「六月十八日(火)、 Dr. Craig の許に行く。一ボンド払う。田中孝太郎・Wright(ライト)(不詳)から手紙来る。 Hippodrome (ピッポドローム)に行く。日本の軽業岡部一座(不詳)が公演している。
六月十九日(水)、渡辺伝右衛門から手紙来る。返事を出す。 Mr. Sweet (スウィート)・Wright (ライト)・田中孝太郎へ手紙出す。文部省から、学術研究の旅行報告を確かにするよう手紙来る。藤代禎輔(素人)(在ベルリン)から手紙来る。その返事に、少し前に貰った手紙に、福原鐐二郎がベルリンからロンドンに行くから、宜しく工夫して欲しいと書いてあったが、福原鐐二郎が日本公使館に来れば、住所はわかると思い、工夫もないと思って、こちらからは連絡しなかった。その結果、福原鐐二郎に会えなかったと述べる。また「第一高等學校で僕を使ってくれないがと狩野へ手紙を出した返事が来ない熊本はもう御免蒙りたい/近頃は英學者なんてものになるのは馬鹿らしい様な感じがする何か人の為や國の為に出来そうなものだとボンヤリ考へテ居るコンナ人間は外ニ澤山アルダラウ」と心境を洩らす。」(荒正人、前掲書)
6月19日 この日付けの漱石の在ベルリン藤代禎輔宛て手紙。
「目下は池田菊苗氏と同宿だ。同氏は頗る博学な色々の事に興味を有して居る人だ。且つ頗る見識のある立派な品性を有して居る人物だ。然し始終話し許りして勉強をしないからいけない。近い内に同氏は宿を替る。僕も替る。
「僕はね、留学生になつて何にも所得はない。少しは進歩した事があるかと思つて考へて見ても心が許さんから仕方がない。自惚るより少しはよいかも知れぬ。
「近頃は英学者なんてものになるのは馬鹿らしい様な感じがする。何か人の為や国の為に出来そうなものだとポンヤリ考へテ居る。コンナ人間は外ニ沢山アルダラウ。・・・・・」
つづく
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