2024年12月16日月曜日

大杉栄とその時代年表(346) 1901(明治34)年7月4日~19日 「話は此頃朝報社内に流行の勢ひを極めたる自転車の事から始まつた。内村君が最近三日間の稽古に五十回落車した事、黒岩君が其四倍即ち二百回の落車をして既に業(すで)に千葉まで遠乗をするに至つた事、給仕の其々が巧妙を極めて自在なる曲乗を試みる事、松居、山県、細野等の諸君が故参をもつて推さるゝ事、河上君に欧米自転車界の近況の通信を頼む事。 此時黒岩君は、此会が自転車の倶楽部でなくで、河上君の送別会である事を注意した。」(堺利彦「河上翠陵君送別会の記」(『萬朝報』))   

 

社会民主党を設立した6人(左から安部磯雄、河上清、幸徳秋水、木下尚江、片山潜、西川光二郎)

大杉栄とその時代年表(345) 1901(明治34)年6月29日~7月2日 「墨汁一滴」終わる 「鮓の俳句をつくる人には訳も知らずに「鮓桶」「鮓圧す」などいふ人多し。昔の鮓は鮎鮓などなりしならん。それは鮎を飯の中に入れ酢をかけたるを桶の中に入れておもしを置く。かくて一日二日長きは七日もその余も経て始めて食ふべくなる、これを「なる」といふ。今でも処によりてこの風残りたり。鮒鮓も同じ事なるべし。余の郷里にて小鯛、鰺、鯔など海魚を用ゐるは海国の故なり。これらは一夜圧して置けばなるるにより一夜鮓ともいふべくや。東海道を行く人は山北にて鮎の鮓売るを知りたらん、これらこそ夏の季に属すべき者なれ。今の普通の握り鮓ちらし鮓などはまことは雑なるべし。(七月二日)」(子規「墨汁一滴」) より続く

1901(明治34)年

7月4日

中江兆民、中塚旅館を去り、堺市市の町の大上宅に移る。

堺で2ヵ月余の療養生活を送る。この間、井上甚太郎、頭山満らが兆民を見舞う。

7月4日

米マッキンリー大統領、フィリピン、軍制から民政に移行。初代フィリピン民政長官に、ウィリアム・ハワード・タフト

7月5日

特撮監督円谷英二、誕生。

7月6日

7月6日 ロンドンの漱石


「七月六日(土)、井原斗南を訪ねる。」(荒正人、前掲書)


7月7日

社会政策学会の金井延・桑田熊蔵、社会主義と社会政策の混同を恐れ「弁明書」を公表。

「社会政策の秩序及び国家の安寧と相戻る処無きに反して、社会主義は現在の社会制度及国家組織を破壊するに非ずんは到底実行す可からざるもの」と、社会政策(学者)が国家の安寧の擁護者であると強調し社会主義を感情的に排斥。

7月7日

ヨハンナ・スピリ(74)、没。「ハイジ」作者。

7月8日

台湾総督府、台湾でのペスト大流行に関して、初春以来の患者総数は4,067人、死亡3,172人であることを内務省に報告。

7月8日

7月8日~9日 ロンドンの漱石


「七月八日(月)、鈴木禎次・時子から絵葉書来る。

七月九日(火)、午後、 Dr. Craig の許に行く。 Holborn Circus (ホウルバン広場)(推定)、で Swinburne (スウィンバーン)と Willliam Morris (モリス)の作品を買う。(「漱石文庫」(東北大学附属図書館蔵)に、前者四点、後者一点(""The Eeathly Paradise"")が収められている。)

Cornhill (コーンヒル)の Castle Court の広告代理店 Barker & Co. で、下宿を求める広告を依頼する。」(荒正人、前掲書)


7月10日

山川均らの「人生の大惨劇」控訴判決。山川に禁固3年半。巣鴨監獄入獄。

7月10日

平賀譲(24)、東京帝大工科大学造船学科卒業。同級14名中首席。勤務先は横須賀造船廠。

7月10日

東京帝国大学史料編纂掛『大日本古文書』刊行開始。

7月11日

原敬(45、大阪北浜銀行頭取(~約1年6ヶ月)。

7月11日

ロシア、リバウ軍港建設進む。この日、皇帝アレクサンドルドック・皇后マリーヤドック竣工式。

7月11日

7月11日~12日 ロンドンの漱石


「Cornhill (コーンヒル)の Castle Court の広告代理店 Barker & Co. で、下宿を求める広告を依頼する。

七月十一日(木)、 ""Daile Telegraph"" (『デイリー・テレグラフ』)に下宿を求める広告、掲載される。(文案を送り、多少修正して掲載されたものと推定される)鈴木禎次に、""Academy Architecture"" のほか建築雑誌一部を送る。

七月十二日(金)、下宿に応じる手紙無数に来る。大塚保治から短歌雑誌『心の花』と葉書、鈴木禎次から『太陽』、土井晩翠から手紙届く。池田菊苗から葉書届いたので、返事を出す。(下宿の依頼ではなかったかと想像される)」(荒正人、前掲書)


7月12日付け漱石の『日記』


「池田氏ヨリ端書来ル。池田氏へ返事ヲ出ス。応募ノ下宿ノ手紙来ル、無数。・・・」


7月12日

ロシア、フィンランドに新兵役法施行。

7月13日

福岡・佐賀・熊本などに集中豪雨が襲い、大きな被害を出す。

7月13日

大杉栄(16)、愛知県知多郡新知村での遊泳演習に助手として参加。~26日。

7月13日

ロンドンの漱石


「七月十三日(土)、 Miss Leale (リール嬢)が下宿の求めに応じて来る。ふさわしく思われたので、詳しい問い合せをする。池田菊苗から返事来る。(下宿に関するものと推定される)」(荒正人、前掲書)


7月14日

神奈川県久里浜で米友協会発起のペリー上陸記念碑の除幕式挙行。

7月14日

米、鉄鉱労働者ストライキ(~9月16日)。

7月15日

米、高峰譲吉、アドレナリンの特許取得。

7月15日

英、日英交渉再開。帰国中の駐日公使マクドナルド、駐英林董公使を訪問。エドワード7世も日本との同盟を望むと述べる。

31日、林公使、ランスダウン外相と会談。林公使は、日本にとって朝鮮が「死活問題」で、中立化だけでは不満足と述べる。

7月15日

7月15日 ロンドンの漱石


「七月十五日(月)、終日、下宿尋ね歩く。北方の Leighton Crescent (レートン半月形広場 Kensington 街の北)から Broadesbury (ロンドン西郊)にまで行く。昼食を食べ損ね、気に入った処、見出せず疲れ過ぎてよく眠れない。」(荒正人、前掲書)


7月16日

堺利彦「河上翠陵君送別会の記」(『萬朝報』)。「翠陵」は社会民主党創立メンバーの河上清。『萬朝報』記者だった彼はアメリカへ留学することになり、その送別会が7月13日に開催された。河上清はアメリカ人と結婚してアメリカに永住し、フリーランスのジャーナリストとして活動している。


「話は此頃朝報社内に流行の勢ひを極めたる自転車の事から始まつた。内村君が最近三日間の稽古に五十回落車した事、黒岩君が其四倍即ち二百回の落車をして既に業(すで)に千葉まで遠乗をするに至つた事、給仕の其々が巧妙を極めて自在なる曲乗を試みる事、松居、山県、細野等の諸君が故参をもつて推さるゝ事、河上君に欧米自転車界の近況の通信を頼む事。

此時黒岩君は、此会が自転車の倶楽部でなくで、河上君の送別会である事を注意した。」


7月16日

シェイクスピア戯曲の初のフィリオ版、クリスティー・オークション会場で1,720ポンドの値。

7月16日

7月16日~17日 ロンドンの漱石


「七月十六日(火)、 Miss Leale (リール嬢)(81 The Chase, Clapham Common, London S.W.)宅に行って面会し、引越すことにする。鞄屋で鞄二個・帽子入れ一個を買う。代金は四ポンド四シリング。

七月十七日(水)、 Miss Leale と Mrs. Brunton (ブルントン夫人)に、下宿の件で手紙を出す。」(荒正人、前掲書)


7月18日

7月18日~19日 ロンドンの漱石


「七月十八日(木)、 Miss Leale から返事がある。山川信次郎から葉書届く。池田菊苗宛に『東京日日新聞』、日本から届く。

七月十九日(金)、汗だくになって部屋を片付ける。午後七時頃やっと注文の箱来る。 Miss Leale に、明日移転すると電報を打つ。公使館へ手紙を出す。藤代禎輔(素人)・田中孝太郎・井原斗南へ移転通知を出す。」(荒正人、前掲書)


7月19日

商品の最恵国待遇継続に関する日伊交換公文。(8月3日も同じく)


つづく

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