2024年12月11日水曜日

大杉栄とその時代年表(341) 1901(明治34)年6月11日~14日 「共立学校では余はやうやう高橋(是清)先生にパーレーの『万国史』を教へられて居た位であつた。それで十七年の夏休みの間は本郷町の進文学舎とかいふ処へ英語を習ひに往つた。本はユニオン読本の第四で先生は坪内(雄蔵)先生であつた。先生の講義は落語家の話のやうで面白いから聞く時は夢中で聞いて居る、その代り余らのやうな初学な者には英語修業の助けにはならなんだ。(これは『書生気質(しょせいかたぎ)』が出るより一年前の事だ)」(子規「墨汁一滴」) 

 

初期東京専門学校の学生と教員(前列右が坪内逍遥)

大杉栄とその時代年表(340) 1901(明治34)年6月1日~10日 「この頃の短夜とはいへど病ある身の寐られねば行燈の下の時計のみ眺めていと永きここちす。、、、午前六時、靴の音茶碗の音子を叱る声拍手の声善の声悪の声千声万響遂に余の苦痛の声を埋うずめ終る。」(子規「墨汁一滴」) より続く

1901(明治34)年

6月11日

中国の文武考試、外国人被害地域で5年間停止。

6月11日

「 病室の片側には綱を掛けて陸中(りくちゅう)小坂(おさか)の木同より送り来し雪沓(ゆきぐつ)十種ばかりそのほかかんじき蓑(みの)帽子など掛け並べ、そのつづきには満洲にありしといふ曼陀羅(まんだら)一幅極彩色(ごくさいしき)にて青き仏赤き仏様々の仏たちを画がきしを掛け、ガラス戸の外は雨後の空心よく晴れて庭の緑したたらんとす。昨日歯齦(はぐき)を切りて膿汁(うみじる)つひえ出でたるためにや今日は頬のはれも引き、身内の痛みさへ常よりは軽く堪へやすき今日の只今、半杯のココアに牛乳を加へ一匕(ひとさじ)また一匕、これほどの心よさこの数十日絶えてなき事なり。

(六月十一日)」(子規「墨汁一滴」)


6月12日

「 植木屋二人来て病室の前に高き棚を作る。日おさへの役は糸瓜(へちま)殿夕顔殿に頼むつもり。

 碧梧桐(へきごとう)来て謡曲二番謡(うた)ひ去る。曰(いは)く清経(きよつね)曰く蟻通(ありどおし)。

(六月十二日)」(子規「墨汁一滴」)

6月12日

米議会、キューバ内政干渉規定のブラット修正条項採択。

6月12日

6月12日~13日 ロンドンの漱石


「六月十二日(水)、 Mr. Sweet (スウィート)から application (申請書)と testimonial (証明書)を送ってくる。 Mr. Sweet に返事を出し、 testimonial (証明書)を送り返す。桜井房記へ手紙を書く。 Miss Nott と諸井六郎に手紙を出す。鈴木禎次から絵葉書と『太陽』を送ってくる。

六月十三日(木)、文部省から留学生表と規定・学資を送られる。」(荒正人、前掲書)


*William E. L. Sweet. 漱石が第五高等学校の講師に紹介する。明治三十四年(一九〇一)十月十六日赴任、明治三十九年(一九〇六)七月三十一日退職。良心的な教師として好評を博す。


6月13日

「 日本の牛は改良せねばならぬといふから日本牛の乳は悪いかといふと、少しも悪い事はない、ただ乳の分量が少いから不経済であるといふのだ。また牛肉は悪いかといふとこれも、牛肉は少しも悪い事はないのみならず神戸牛と来たら世界の牛の中で第一等の美味であるのだ、それをなぜ改良するかといふに今の日本牛では肉の分量が少いのに食物は割合に多く食ふからつまり不経済であるといふのだ。

 西洋いちごよりは日本のいちごの方が甘味が多い、けれども日本のいちごは畑につくつて食卓に上すやうに仕組まれぬから遂に西洋種ばかり跋扈(ばっこ)するのだ。桜の実でも西洋のよりは日本の方が小いが甘味は多い、けれども日本では桜の実をつくつて売るといふものがないのでこの頃では西洋種の桜の実がそろそろ這入はいつて来た。

 余の郷里四国などにても東京種(だね)の大根を植ゑる者がある。もし味の上からいへば土地固有の大根の方が甘味が多いのであるけれど東京大根は二倍大の大きさがあるから経済的なのであらう。

 何でも大きな者は大味で、小さな者は小味だ。うまみからいふと小い者の方が何でもうまい。余の郷里にはホゴ、メバルなどいふ四、五寸ばかりの雑魚(ざこ)を葛(くず)に串(つらぬ)いて売つて居る。さういふのを煮て食ふと実にうまい。しかし小骨が多くて肉が少くて、食ふのに骨の折れるやうなわけだから料理に使ふことも出来ず客に出すことも出来ぬ。

 日本は島国だけに何もかも小さく出来て居る代りにいはゆる小味などいふうまみがある。詩文でも小品短篇が発達して居て絵画でも疎画(そが)略筆(りゃくひつ)が発達して居る。しかし今日のやうな世界一家といふ有様では不経済な事ばかりして居ては生存競争で負けてしまふから牛でも馬でもいちごでも桜んぼでも何でも彼でも輸入して来て、小い者を大きくし、不経済的な者を経済的にするのは大賛成であるが、それがために日本固有のうまみを全滅する事のないやうにしたいものだ。

 それについて思ひ出すのは前年やかましかつた人種改良問題である。もし人種の改良が牛の改良のやうに出来る者とすれば幾年かの後に日本人は西洋人に負けぬやうな大きな体格となり力も強く病もなく一人で今の人の三人前も働くやうな経済的な人種になるであらう。しかしその時日本人固有の稟性(ひんせい)のうまみは存して居るであらうか、何だか覚束(おぼつか)ないやうにも思はれる。

(六月十三日)」(子規「墨汁一滴」)


6月14

「『日本人』に「試験」といふ問題が出て居たので端(はし)なく試験といふ極めて不愉快な事件を想ひ起した。

 余は昔から学校はそれほどいやでもなかつたが試験といふ厭(いや)な事のあるため遂(つい)には学校といふ語が既に一種の不愉快な感を起すほどになつてしまふた。

 余が大学予備門の試験を受けたのは明治十七年の九月であつたと思ふ。この時余は共立学校(今の開成中学)の第二級でまだ受験の力はない、殊に英語の力が足らないのであつたが、場馴(ばなれ)のために試験受けようぢやないかといふ同級生が沢山あつたので固(もと)より落第のつもりで戯(たわむ)れに受けて見た。用意などは露もしない。ところが科によると存外たやすいのがあつたが一番困つたのは果して英語であつた。活版摺(ずり)の問題が配られたので恐る恐るそれを取つて一見すると五問ほどある英文の中で自分に読めるのは殆どない。第一に知らない字が多いのだから考へやうもこじつけやうもない。この時余の同級生は皆片隅の机に並んで坐つて居たが(これは始より互に気脈を通ずる約束があつたためだ)余の隣の方から問題中のむつかしい字の訳を伝へて来てくれるので、それで少しは目鼻が明いたやうな心持がして善い加減に答へて置いた。その時或字が分らぬので困つて居ると隣の男はそれを「幇間(ほうかん)」と教へてくれた、もつとも隣の男も英語不案内の方で二、三人隣の方から順々に伝へて来たのだ、しかしどう考へても幇間ではその文の意味がさつぱり分らぬのでこの訳は疑はしかつたけれど自分の知らぬ字だから別に仕方もないので幇間と訳して置いた。今になつて考へて見るとそれは「法官」であつたのであらう、それを口伝へに「ホーカン」といふたのが「幇間」と間違ふたので、法官と幇間の誤などは非常の大滑稽であつた。

それから及落(きゅうらく)の掲示が出るといふ日になつて、まさかに予備門(一ツ橋外)まで往て見るほどの心頼みはなかつたが同級の男が是非行かうといふので往て見ると意外のまた意外に及第して居た。かへつて余らに英語など教へてくれた男は落第して居て気の毒でたまらなかつた。試験受けた同級生は五、六人あつたが及第したのは菊池仙湖(謙二郎)と余と二人であつた。この時は試験は屁への如しだと思ふた。

 こんな有様で半(なかば)は人の力を借りて入学して見ると英語の力が乏しいので非常の困難であつた。それもそのはず共立学校では余はやうやう高橋(是清)(これきよ)先生にパーレーの『万国史』を教へられて居た位であつた。それで十七年の夏休みの間は本郷町の進文学舎とかいふ処へ英語を習ひに往つた。本はユニオン読本(とくほん)の第四で先生は坪内(雄蔵)(ゆうぞう)先生であつた。先生の講義は落語家の話のやうで面白いから聞く時は夢中で聞いて居る、その代り余らのやうな初学な者には英語修業の助けにはならなんだ。(これは『書生気質(しょせいかたぎ)』が出るより一年前の事だ)

 とにかくに予備門に入学が出来たのだから勉強してやらうといふので英語だけは少し勉強した。もつとも余の勉強といふのは月に一度位徹夜して勉強するので毎日の下読などは殆どして往かない。それで学校から帰つて毎日何をして居るかといふと友と雑談するか春水(しゅんすい)の人情本でも読んで居た。それでも時々は良心に咎(とが)められて勉強する、その法は英語を一語々々覚えるのが第一の必要だといふので、洋紙の小片(こぎれ)に一つ宛英語を書いてそれを繰り返し繰り返し見ては暗記するまでやる。しかし月に一度位の徹夜ではとても学校で毎日やるだけを追つ付いて行くわけには往かぬ。

 ある時何かの試験の時に余の隣に居た人は答案を英文で書いて居たのを見た。勿論英文なんかで書かなくても善いのをその人は自分の勝手ですらすらと書いて居るのだから余は驚いた。この様子では余の英語の力は他の同級生とどれだけ違ふか分らぬのでいよいよ心細くなつた。この人はその後間もなく美妙斎(びみょうさい)として世に名のつて出た。

 しかし余の最も困つたのは英語の科でなくて数学の科であつた。この時数学の先生は隈本(くまもと)(有尚)(ありひさ)先生であつて数学の時間には英語より外の語は使はれぬといふ制規であつた。数学の説明を英語でやる位の事は格別むつかしい事でもないのであるが余にはそれが非常にむつかしい。つまり数学と英語と二つの敵を一時に引き受けたからたまらない、とうとう学年試験の結果幾何(きか)学の点が足らないで落第した。

(六月十四日)」(子規「墨汁一滴」)

6月14

6月14日~15日 ロンドンの漱石


「六月十四日(金)、 Mr. Sweet (スウィート)から手紙来たので、返事を出す。桜井房記へ手紙を出す。

六月十五日(土)、 Mr. Sweet (スウィート)から三年間の契約を望むとの返事が来る。池田菊苗、自室の暖炉に火をたく。」(荒正人、前掲書)


つづく

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