2024年12月4日水曜日

大杉栄とその時代年表(334) 1901(明治34)年4月26日~30日 「夕餉したため了りて仰向に寝ながら左の方を見れば机の上に藤を活けたるいとよく水をあげて花は今を盛りの有様なり。艶にもうつくしきかなとひとりごちつつそぞろに物語の昔などしぬばるるにつけてあやしくも歌心なん催されける。この道には日頃うとくなりまさりたればおぼつかなくも筆を取りて 瓶にさす藤の花ぶさみじかければたゝみの上にとゞかざりけり 、、、」(子規「墨汁一滴」)

 


大杉栄とその時代年表(333) 1901(明治34)年4月21日~25日 漱石4番目の下宿「金之助が意気消沈したのも当然で、トゥーティングは今世紀初頭のロンドン市中ではまずもっとも貧寒な場末であった。平らな緑のない地面の上にエプサムとリーゲイトに通じる街道が一条伸びていて、鉄道馬車が走っている。その両側にどこまで行っても同じかたちの赤煉瓦造りの下層中流階級の住宅が建ち並びはじめている。西南にスプロールしたロンドン市が、郡部に出逢う直前にいぎたなく繰りひろげてみせた都会のもっとも醜悪な部分。」(江藤淳『漱石とその時代2』) より続く

1901(明治34)年

4月26日

4月26日 ロンドンの漱石


「四月二十六日(金)、下宿から五、六分歩いて、 Tooting Station (トゥーティング停車場)付近を散歩する。感じよくない。正岡子規・高浜虚子宛に、手紙を出す。(「倫敦消息」其三(『ホトトギス』第四巻第九号 明治三十四年六月三十日刊)として発表される)」(荒正人、前掲書)

"

「漱石の四月二十日付と四月二十六日付の手紙は、「倫敦消息」の「二」と「三」として、明治三十四年六月三十日発行「ホトトギス」第四巻九号に掲載された。

この一連のロンドンからの報告の主題は、ひと言でいって「人の世はどこもおなじ」であった。夜逃げをする者がいて、逃がすまいとする者がいる。いずれも懸命だが、懸命だからこそ滑稽味が生じる。経済が人の運命を翻弄し去るのは、ロンドンも東京もかわりはない。そんな浮世のどたばたを、事実を並べつつおもしろくえがいた「倫敦消息」は好評であった。子規はことのほか喜んだ。

この手紙の文体は、漱石にとっても発見であった。つぶさに観察された人物像が簡潔にしるしてあるのは、子規の俳句に対する態度から無意識にうけた刺激の成果であろう。

語り口は、漱石の体にしみこんだ落語のそれで、女主人が書いた手紙を候文で訳したのも落語的なやりかただ。三十年後、堀口大学がラディゲ『ドルジェル伯の舞踏会』を翻訳したとき、ドルジェル伯夫人の恋文を候文で訳したが、その先駆である。これに英語の影響を加え、漱石は自分でも気づかぬうちに現代日本語の書き言葉を確立していたのである。」(関川夏央、前掲書)


4月26日 漱石の子規宛て手紙(「倫敦消息(三)」)。


「四月二十六日付書簡では、漱石が現在生活を共にしている下宿屋の姉妹のこと、姓はペンという下女のこと。日本語も方言があるが、英語にもあり、上流社会のもの、中流以下の用いる語など「千違万別」であり、ペンの話す言葉はわからないので、ペンと話している間、顔の「造作の吟味」をし、それを報じている。下宿経営者と差配人との関係、差配人の目ざしているのは、姉妹らの財産ではなく、「亭主其人の家財」にあることを漱石は見抜いていることなど。

そのため亭主は、朝の三時頃から大八車を雇って、一晩寝ずにかかって自分の荷物を新宅へ運び、漱石もこれと一緒に引き移った経過。新しい下宿の住居は、「殺風景で不風流」であること、それでも漱石の二階の部屋は、以前の部屋より奇麗のこと、その環境、また亭主が裸体画の美人の額を持ってくる。漱石は「ハゝー裸体画ですな結構です」と冗談半分にいったら、「へゝゝ私もちつとも構ひませんがね」とコツコツ釘をうってかける。・・・・・

最後の段落は、次のように時事問題で結ばれている。

魯西亜と日本は争はんとしては争はんとしつゝある。支那は天子蒙塵の辱を受けつゝある。英国はトランスヴハールの金剛石を掘り出して軍費の穴を填めんとしつゝある。

此多事なる世界は日となく夜となく回転しつゝ波瀾を生じつゝある間に我輩のすむ小天地にも小回転と小波瀾があつて我下宿の主人公は其彪大なる身体を賭してかの小冠者差配と雌雄を決せんとしつゝある。而して我輩は子規の病気を慰めんが為に此日記をかきつゝある。                   (『漱石全集』一二巻)」(中村文雄『漱石と子規、漱石と修 - 大逆事件をめぐって -』(和泉書院))


4月27日

4月27日~28日 ロンドンの漱石


「四月二十七日(土)、 Tooting から地下鉄に乗って二つめの Balham (バラム)に行く。「又移り度ナツタ 兎ニ角池田(菊苗)君ノ來テカラノ事ダ」(「日記」)

四月二十八日(日)、 Tooting Graveney Common (トゥーティング・グレーヴニー共有地 Tooting Station の西北)に行く。藤代禎輔(素人)・遠山参良から手紙来る。」(荒正人、前掲書)


4月28日

社会民主党結成準備会。社会会主義協会の安部磯雄、木下尚江、河上清、西川光二郎、幸徳秋水、片山潜は、社会主義政党を結成し労働者の期待に応えようと考え、この頃、数回の準備会を持ち、党名を社会民主党とすること、理想綱領8ヶ条、実践綱領28ケ条、宣言書・党則等を決める。

この月の労働者大懇親会で、日本鉄道会社の労働組合矯正会が、社会主義を標準とする労働問題解決、全会員の普通選挙期成同盟会入会を決議し、同会幹部は片山潜ら社会主義協会員に、社会主義政党が結成されれば同会員は全員入党との意向を伝える。

4月28日

子規「藤の花」連作

「四月二十七日の夜であった。

夕餉をしたためて仰向けの姿勢から、ふと左方に視線を送った。机上に藤の花を活けてある。よく水を吸いあげて、いまが盛りのようすである。見るうち、ひさかたぶりに「歌心」が湧いた。筆をとって、苦もなく浮かんできた歌を書きつけてみた。

瓶にさす藤の花ぶさみじかければたたみの上にとどかざりけり

瓶にさす藤の花ぶさ花垂れて病の牀に春暮れんとす

「藤の花」連作十首は、「斯道(しどう)には日頃うとくなりまさりたれぼ、おぼつかなくも筆を取りて」と前置きされて、四月二十八日の『墨汁一滴』中に掲げられた。」(関川夏央、前掲書)

「 夕餉したため了りて仰向に寝ながら左の方を見れば机の上に藤を活けたるいとよく水をあげて花は今を盛りの有様なり。艶(えん)にもうつくしきかなとひとりごちつつそぞろに物語の昔などしぬばるるにつけてあやしくも歌心なん催されける。この道には日頃うとくなりまさりたればおぼつかなくも筆を取りて

瓶(かめ)にさす藤の花ぶさみじかければたゝみの上にとゞかざりけり

瓶にさす藤の花ぶさ一ふさはかさねし書の上に垂れたり

藤なみの花をし見れば奈良のみかど京のみかどの昔こひしも

藤なみの花をし見れば紫の絵の具取り出で写さんと思ふ

藤なみの花の紫絵にかゝばこき紫にかくべかりけり

瓶にさす藤の花ぶさ花垂(た)れて病の牀に春暮れんとす

去年(こぞ)の春亀戸に藤を見しことを今藤を見て思ひいでつも

くれなゐの牡丹(ぼたん)の花にさきだちて藤の紫咲きいでにけり

この藤は早く咲きたり亀井戸(かめいど)の藤咲かまくは十日まり後

八入折(やしおおり)の酒にひたせばしをれたる藤なみの花よみがへり咲く

 おだやかならぬふしもありがちながら病のひまの筆のすさみは日頃稀(まれ)なる心やりなりけり。をかしき春の一夜や。

(四月二十八日)」(子規「墨汁一滴」)

4月29日

大正天皇の第1皇子・迪宮裕仁親王、誕生。生後70日で枢密顧問官川村純義(元参議・海軍卿)が里親。麻布狸穴。

4月29日

「 春雨霏々(ひひ)。病牀徒然(とぜん)。天井を見れば風車(かざぐるま)五色に輝き、枕辺を見れば瓶中(へいちゅう)の藤紫にして一尺垂れたり。ガラス戸の外を見れば満庭の新緑雨に濡れて、山吹は黄漸(ようや)く少く、牡丹は薄紅(うすくれない)の一輪先づ開きたり。やがて絵の具箱を出させて、五色、紫、緑、黄、薄紅、さていづれの色をかくべき。

(四月二十九日)」(子規「墨汁一滴」)

4月29日

4月29日~30日 ロンドンの漱石


「四月二十九日(月)、鈴木禎次夫妻から手紙来る。遠山参良・藤井乙男(金沢)・ Henry Fardel に手紙を出す。

四月三十日(火)、 Dr. Craig の許に行く。帰宅すると、下宿の者はいない。 Tooting Bec Common (トゥーティシグ・ペック共有地 Tooting Graveney Common の東北に続く広大な共有地)に行く。鈴木禎次夫妻に手紙を出す。」(荒正人、前掲書)


4月30日

足立憲忠・大草慧実ら、貧民救済のため浅草区神吉町に東京初の無料宿泊所(本願寺無料宿泊所)を設立。

4月30日

子規「山吹の花」十首(『墨汁一滴』四月三十日)


「「藤の花」を歌った翌日、四月二十八日は雨であった。

「春雨霏々(ひひ)。病牀徒然(とぜん)」

ガラス窓越しの庭に、山吹の黄色い花が咲きかけているのが見えた。

庭には裏口の木戸がある。共同の井戸につづく木戸である。夜分には、よく女たちがこの井戸のかたわらで立話をする。律もときどきする。その木戸脇の竹垣に山吹を植えたのは、陸家の少女であった。

四、五年前、ほんの三センチばかりの苗にすぎなかったのに、いまは縄で束ねなければならぬほどに育った。少女もいつしか、半ばおとなになった。子規を病床に置き去って歳月は悠然とすぎてゆく。

水汲みに往来(ゆきき)の袖の打ち触れて散りはじめたる山吹の花

春の日の雨しき降ればガラス戸の曇りて見えぬ山吹の花

結句をすべて「山吹の花」とした十首は、四月三十日掲載の『墨汁一滴』中にあった。その日の稿の最後に、「いかなる評も謹んで受けん」と子規は書いた。「吾は只歌のやすやすと口に乗りくるがうれしくて」」(関川夏央、前掲書)

「 病室のガラス障子より見ゆる処に裏口の木戸あり。木戸の傍(かたわら)、竹垣の内に一むらの山吹あり。この山吹もとは隣なる女(め)の童(わらわ)の四、五年前に一寸ばかりの苗を持ち来て戯れに植ゑ置きしものなるが今ははや縄もてつがぬるほどになりぬ。今年も咲き咲きて既になかば散りたるけしきをながめてうたた歌心起りければ原稿紙を手に持ちて

裏口の木戸のかたへの竹垣にたばねられたる山吹の花

小縄もてたばねあげられ諸枝(もろえだ)の垂れがてにする山吹の花

水汲みに往来(ゆきき)の袖(そで)の打ち触れて散りはじめたる山吹の花

まをとめの猶(なお)わらはにて植ゑしよりいく年(とせ)経たる山吹の花

歌の会開かんと思ふ日も過ぎて散りがたになる山吹の花

我庵(いお)をめぐらす垣根隈(くま)もおちず咲かせ見まくの山吹の花

あき人も文くばり人も往きちがふ裏戸のわきの山吹の花

春の日の雨しき降ればガラス戸の曇りて見えぬ山吹の花

ガラス戸のくもり拭へばあきらかに寐ながら見ゆる山吹の花

春雨のけならべ降れば葉がくれに黄色乏しき山吹の花

 粗笨(そほん)鹵莽(ろもう)、出たらめ、むちやくちや、いかなる評も謹(つつし)んで受けん。われはただ歌のやすやすと口に乗りくるがうれしくて。

(四月三十日)」(子規「墨汁一滴」)


つづく


0 件のコメント: