1901(明治34)年
9月2日
米ルーズベルト副大統領、「棍棒外交」演説。
9月2日
9月2日 ロンドンの漱石
「九月二日(月)、 Elephant & Castle (エレファント・エンド・カスル)で古本を買う。夜、下宿のフランス人少年 Morris (モリス)、兄に取り残され、泣いていたので、トランプをして遊んでやる。」(荒正人、前掲書)
9月3日
中江兆民『一年有半』(博文館)。余命いくばくもない兆民居士の「生前の遺稿」として売り出されるが空前のベストセラーとなる。兆民の催促をうけ、秋水は博文館主大橋新太郎と交渉(朝報社黒岩涙香は、出版引き受けないばあい朝報社が引受けると申し出)。原稿不足のため、国民党機関紙「百零一」や「千代田毎夕」の原稿を巻末に添え、編集・校正・序文など全てを秋水が担当。
『一年有半』は、別名「生前の遺稿」である。療養の合い間に、思いつくままに筆を走らせた一種のエッセイである。その内容は、身辺雑事や自分の趣味、文学・演劇・人物論から、政治・経済・政党論、さらに当代社会批判や日本人論にまで広範多岐に及び、兆民の教養と関心の多様さ、一深さをよく示している。
”一年有半”の題名が、医師から不治の病気で余命一年半と告知されたことに由来するように、本書は、兆民が死を間近かに自覚しての著述であるから、その死生観が基調音となっている。
「〇一年半、諸君は短促なりと曰はん、余は極て悠久なりと曰ふ、若し短と曰はんと欲せば、十年も短なり、五十年も短なり、百年も短なり、夫れ生時限り有りて死後限り無し、限り有るを以て限り無きに比す短には非ざる也、始より無き也、若し為す有りて且つ楽むに於ては、一年半是れ優に利用するに足らずや、鳴呼所謂一年半も無也、五十年百年も無也、即ち我儕(わがせい)は是れ、虚無海上一虚舟」(⑩145)
そして、越路太夫や大隅太夫の名調子を弥(*妻)とともに楽しんで感嘆し、郷里土佐の松魚(かつお)や楊梅(やまもも)の美味を想い、夏休みで堺に来ていた息子の丑吉が浜辺で取ってきたはまぐり・あさりの吸物を食べながら、パリのカフェーアングレーのスープも及ばないと記すなど、一日一日の生命、家族との生活をいとおしんでいる。ここには”奇人”兆民の姿は消え、普通の人間、夫があり、父がある。「浜寺の風景」の項は、兆民の心情が吐霹されている。
(略)
しかし『一年有半』の目的は、たんに死生観を展開することにあったのではない。本書は、一種の文明批評の書であり、兆民の、とくに晩年の思想が集大成されて提示され、それはまた明治の社会に対する根本的批判でもあった。『一年有半』の中の政治・経済論や文人論は、『毎夕新聞』論説や晩年の文章の内容とかなり重複する部分がある。同時に、兆民が生涯を通じて保持し続けた精神が、本書の骨格となっている。
・・・・・
『一年有半』における兆民の政治批判は、大別して政党批判・政治家批判・政策論に分けられるが、これらは相互に関連するものとして位置づけられる。つまり確固たる政策を推進する政治家の不在と政党の腐敗を追及しているのである
(略)
そしてかかる政党批判の姿勢は、在朝の政治家批判に直結している。伊藤博文を「下手の魚釣り」と評し、「野心余り有りて胆識足らず、」と一蹴し、大隈重信も「宰相の材に非ず、目前の智富みて後日の慮に乏し」と貶し、「山県は小黠、松方は至愚、西郷は怯懦、余の元老は筆を汗すに足る老莫し」と極言している。「伊藤以下皆死し去ること一日早ければ、一日国家の益と成る可し」と断じている(⑩159-160)。この一句に兆民の、明治の元老達に対する憎悪のいかに凄まじいものであるかを見ることができるではないか。
経済政策の面では、政府の公債政策を批判し、生産力が弱体であることを欺き、経済上の保護政策の必要を唱え、経済政策全体の反省と改革を説いている。
(略)
こうした明治政府の政治の貧困や政策の不在がもたらす結果は悲惨である。兆民は憂慮する。
「○官民上下貧に苦しむ、是に於で乎凡そ施為皆姑息是れ事とし、人情日々に非薄にして、内閣は復た一国経綸の造出所には非ずして、箇々利慾を貪り権勢を弄ぶ最高等最便利の階段也、貴族院は陽に党弊を矯正すると称し、陰に機に乗じ己れ自ら内閣に割込む地を為さんとして、強て攻撃を粧ふ険悪極まる物体の集合所也、衆議院とは何ぞ是れ復た言ふに及ばず、直ちに走れ餓虎の一団体なるのみ、夫れ一国政治の機関たる内閣、貴族院、衆議院の各団体にして、薦紳的野獣の淵叢なるに於ては、国民果して誰に適帰せん、」(⑩146)
兆民の批判は、さらに明治日本の社会・文化に及んでいる。そこには、右に述べた政治・政策の貧困や政治家の腐敗堕落は、結局は日本人の理義を軽んじ利害に走る軽挑浮薄さに一因があるとし、日本人の思想的態度への深刻な反省がみられる。
「我日本古より今に至る迄哲学無し(中略)、哲学無き人民は、何事を為すも深遠の意無くして、浅薄を免れず」との文言は、日本人の思想的独創性の欠如、そして批判精神の稀薄さに対する苦言である。
(略)
明治社会において、「功利主義」が勝利を占め、兆民の追求した「理義」は、ついに定着しなかったのである。こうした明治の社会は、兆民の求めたものとは余りにもかけ離れたものであった。
(略)
死生に達観しているかにみえた兆民も、なお「余明治の社会に於て常に甚だ不満なり」との激語を遺している。
しかし、それでもなお、兆民は、「物質」より「理義」の優先することを強調してやまない。
(略)
そして、兆民は、その思索するにあたって基準としてきたところの、理義を第一とし、ついで利益に及ぶとする思考方法を、本書でも明言する。
(略)
兆民にとって、「理義」とは、民権であり、自由平等であった。これは人類の普遍的原理だとの確信があった。かくして兆民は、究極のところ、かれの一生涯にわたって操守し推進した民権思想に、叙述を収斂させていく。
(略)
自由平等の大義を見失い、腐敗堕落したのはだれか。
(略)
支配者の胸中には、いまや国家とか人民はいない。ただ国家を足場にして、自己の利益を貪り、しかも「智者」たるかれらは「無智」なる人民を喰いものにし、自己の権力を恣ままにするばかりである、かつては期待を寄せた政党も「智者」の側にある、自由民権はいまや「妄想」のなかにしかないのか。- しかし、兆民は、歴史の将来に対してはなお楽観的であった。続いて次のように言う。
(略)
「智者」の犠牲にされつつある「無智」なる人民のなかから、少数の「妄想家」が出現し、「智者」の喰いものとされた「日本帝国」の残骸の上に、自由平等の「日本国」を新しく造りあげていくにちがいないと、兆民は、明治国家の変革を、無名の人民に托したのである。
さらに兆民は、七月二〇日に行われたばかりの、万朝報社の理想団結成の呼びかけに賛意を表し、次のように励ましている。
(略)
ここに主張されている「理義の正」は、理想団の趣旨というより、兆民自身の追求した理想であろう。自由・平等・博愛は、国境(国家)の撤去、軍備撤廃・戦争放棄、世界政府の樹立、土地所有権と財産世襲権の廃止と連動し、それは貧富格差や階級支配の消滅へと進むであろう。この大志を、人民みずからの意思で、他日の実行を期して今日の口筆に托し、投獄や暗殺を恐れず、理義に殉ずべきだというのである。激越の言ではないか。
続いて、兆民は、理想団に次のように訴えている。
(略)
社会の変革、政治の革新を目的とするならば、まず哲学(思想性)を明確にし、道徳(人間性)に根拠を求めよ。この哲学と道徳とをもって、政治(専制体制)と法律(治安体制)を打破せよというのが、右の一節の含意であろう。
『一年有半』は、初版刊行以後一年にして二三版、二十余万部を発行したといわれる。兆民の声名と本書の内容もさ、ることながら、その兆民が、ガンという不治の病に倒れ、迫り来る死との時間的格闘の中で執筆されたという異常性が、読書界に衝撃と興奮を走らせ、爆発的な売れ行きとなったと思われる。書評は、同情も加わって、おおむね好評であった。」
(松永昌三『中江兆民評伝』(岩波書店))
つづく
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