2024年12月6日金曜日

大杉栄とその時代年表(336) 1901(明治34)年5月7日~12日 「噛まずに呑み込めば美味を感ぜざるのみならず、腸胃直に痛みて痙攣を起す。是において衛生上の営養と快心的の娯楽と一時に奪ひ去られ、衰弱とみに加はり昼夜悶々、忽例の問題は起る「人間は何が故に生きて居らざるべからざるか」」 「試に我枕もとに若干の毒薬を置け。而して余が之を飲むか飲まぬかを見よ。」(「墨汁一滴」)

西洋葵(タチアオイ)

大杉栄とその時代年表(335) 1901(明治34)年5月1日~5日 池田菊苗が漱石の下宿で2ヵ月間同宿 「池田君は理学者だけれども話して見ると倖い哲学者であつたには驚ろいた。大分議論をやつて大分やられた事も今に記憶してゐる。倫敦で池田君に逢ったのは自分には大変な利益であった。御蔭で幽霊の様な文学をやめて、もつと組織だつたどつしりした研究をやらうと思ひ始めた。それから其方針で少しやつて、全部の計画は日本でやり上げる積で西洋から帰って来ると、・・・・・」 より続く

1901(明治34)年

5月7日

北京公使団、義和団事変に関する賠償要求は総計4億5,000万両に達する旨、清国に通告。


5月7日

「 五月五日にはかしは餅とて檞(かしわ)の葉に餅を包みて祝ふ事いづこも同じさまなるべし。昔は膳夫(ぜんぷ)をかしはでと言ひ歌にも「旅にしあれば椎(しい)の葉に盛る」ともあれば食物を木の葉に盛りし事もありけんを、今の世に至りてなほ五日のかしは餅ばかりその名残(なごり)をとどめたるぞゆかしき。かしは餅の歌をつくる。

椎の葉にもりにし昔おもほえてかしはのもちひ見ればなつかし

白妙(しろたえ)のもちひを包むかしは葉の香をなつかしみくへど飽かぬかも

いにしへゆ今につたへてあやめふく今日のもちひをかしは葉に巻く

うま人もけふのもちひを白がねのうつはに盛らずかしは葉に巻く

ことほぎて贈る五日のかしはもち食ふもくはずも君がまに/\

かしは葉の若葉の色をなつかしみこゝだくひけり腹ふくるゝに

九重(ここのえ)の大宮人(おおみやびと)もかしはもち今日はをすかも賤(しず)の男(お)さびて

常にくふかくのたちばなそれもあれどかしはのもちひ今日はゆかしも

みどり子(ご)のおいすゑいはふかしは餅われもくひけり病癒(い)ゆがに

色深き葉広(はびろ)がしはの葉を広みもちひぞつゝむいにしへゆ今に

(五月七日)」(子規「墨汁一滴」)


5月7日

5月7日~9日 ロンドンの漱石。


「五月七日(火)、 Dr. Craig の許に赴く。池田菊苗から写真を貰う。日本銀行から、送金の受取の請求書来る。『ホトトギス』届く。遠山参良へ「目録」(不詳)、鈴木禎次に絵葉書、日本銀行に受取を送る。

五月八日(水)、鏡に手紙を出す。「善良なる淑女を養成するのは母のつとめだから能く心掛けて居らねばならぬ夫につけては御前自身が淑女と云ふ事について一つの理想をもつて居なければならぬ此理想は書物を読んだり自身で考へたり又は高尚な人に接して會得するものだ ぼんやりして居ては行けない」と、筆の教育に心を配る。高浜虚子・寺田勇吉(文部省会計課長)に手紙を出す。「野遊会」へ断り状を出す。

五月九日(木)、 Tooting Bec Common (トゥーティング・ペック共有地)に赴く。後、読書。夜、池田菊苗とイギリス文学について話す(荒正人、前掲書)


5月7日

ゲーリー・クーパー、誕生。

5月8日

インド飢餓委員会報告書発表。


5月9日

「 今になりて思ひ得たる事あり、これまで余が横臥(おうが)せるにかかはらず割合に多くの食物を消化し得たるは咀嚼(そしゃく)の力与(あず)かつて多きに居りし事を。噛みたるが上にも噛み、和らげたるが上にも和らげ、粥(かゆ)の米さへ噛み得らるるだけは噛みしが如き、あながち偶然の癖にはあらざりき。かく噛み噛みたるためにや咀嚼に最(もっとも)必要なる第一の臼歯(きゅうし)左右共にやうやうに傷(そこな)はれてこの頃は痛み強く少しにても上下の歯をあはす事出来難くなりぬ。かくなりては極めて柔かなるものも噛まずに呑み込まざるべからず。噛まずに呑み込めば美味を感ぜざるのみならず、腸胃直(ただち)に痛みて痙攣(けいれん)を起す。是(ここ)において衛生上の営養と快心的の娯楽と一時に奪ひ去られ、衰弱とみに加はり昼夜悶々(もんもん)、忽(たちまち)例の問題は起る「人間は何が故に生きて居らざるべからざるか」

さへづるやから臼(うす)なす、奥の歯は虫ばみけらし、はたつ物魚をもくはえず、木の実をば噛みても痛む、武蔵野の甘菜(あまな)辛菜(からな)を、粥汁にまぜても煮ねば、いや日けに我つく息の、ほそり行くかも

下総(しもうさ)の結城(ゆうき)の里ゆ送り来し春の鶉(うずら)をくはん歯もがも

菅(すが)の根の永き一日(ひとひ)を飯(いい)もくはず知る人も来ずくらしかねつも

(五月九日)」(子規「墨汁一滴」)

5月9日

オーストラリア・メルボルンで最初の国会が開かれる

5月10日

東京電話局、男子交換手廃止。昼夜とも女子交換手とする。(これまでは、昼間は女子、夜間は男子交換手だった)。


5月10日

5月10日~12日 ロンドンの漱石。


「五月十日(金)、 Tooting Station の南方にある MItcham Common (ミッチャム共有地)に行く。広大な草原。はりえにしだが散在し、牛馬の群、草を食べている。

五月十二日(日)、晴。池田菊苗と金之助は共に(推定) Streatham Common (ストレータム共有地)に行き、神田乃武を訪ね、結婚は、愛情か義務かという議論を拝聴し、昼食を馳走になる。畠には、牝牛・牝豚・家禽がいる。」(荒正人、前掲者)


5月11日

試に我枕もとに若干の毒薬を置け。而して余が之を飲むか飲まぬかを見よ。

(五月十一日記)」(子規「墨汁一滴」)


5月12日

清国全権、列国の要求賠償額を30年賦で支払うべき旨を回答。


5月12日

「 五月十日、昨夜睡眠不定、例の如し。朝五時家人を呼び起して雨戸を明けしむ。大雨。病室寒暖計六十二度、昨日は朝来(ちょうらい)引き続きて来客あり夜寝時に至りしため墨汁一滴を認(したたむる)能はず、因つて今朝つくらんと思ひしも疲れて出来ず。新聞も多くは読まず。やがて僅(わずか)に睡気を催す。けだし昨夜は背の痛強く、終宵(しゅうしょう)体温の下りきらざりしやうなりしが今朝醒(さ)めきりしにやあらん。熱さむれば痛も減ずるなり。

 睡(ねむ)る。目さませば九時半頃なりき。やや心地よし。ほととぎすの歌十首に詠み足し、明日の俳句欄にのるべき俳句と共に封じて、使(つかい)して神田に持ちやらしむ。

 十一時半頃午餐(ごさん)を喰ふ。松魚(かつお)のさしみうまからず、半人前をくふ。牛肉のタタキの生肉少しくふ、これもうまからず。歯痛は常にも起らねど物を噛めば痛み出すなり。粥(かゆ)二杯。牛乳一合、紅茶同量、菓子パン五、六箇、蜜柑(みかん)五箇。

 神田より使帰る。命じ置きたる鮭(さけ)のカン詰を持ち帰る。こはなるべく歯に障(さわ)らぬ者をとて択びたるなり。

『週報』応募の牡丹(ぼたん)の句の残りを検す。

 寐床の側の畳に麻もて箪笥(たんす)の環(かん)の如き者を二つ三つ処々にこしらへしむ。畳堅うして畳針透(とお)らずとて女ども苦情たらだらなり。こはこの麻の環を余の手のつかまへどころとして寐返りを扶(たす)けんとの企(くわだて)なり。この頃体の痛み強く寐返りにいつも人手を借るやうになりたれば傍に人の居らぬ時などのためにかかる窮策を発明したる訳なるが、出来て見れば存外(ぞんがい)便利さうなり。

 繃帯(ほうたい)取替にかかる。昨日は来客のため取替せざりしかば膿(うみ)したたかに流れ出て衣を汚せり。背より腰にかけての痛今日は強く、軽く拭(ぬぐ)はるるすら堪へがたくして絶えず「アイタ」を叫ぶ。はては泣く事例の如し

 浣腸(かんちょう)すれども通ぜず。これも昨日の分を怠りしため秘結(ひけつ)せしと見えたり。進退谷(きわ)まりなさけなくなる。再び浣腸す。通じあり。痛けれどうれし。この二仕事にて一時間以上を費す。終る時三時。

 著物(きもの)二枚とも著(き)かふ、下著(したぎ)はモンパ、上著は綿入。シヤツは代へず。

 三島神社祭礼の費用取りに来る。一匹(ぴき)やる。

 繃帯かへ終りて後体も手も冷えて堪へがたし。俄(にわか)に燈炉(とうろ)をたき火鉢をよせ懐炉(かいろ)を入れなどす。

 繃帯取替の間始終(しじゅう)右に向き居りし故背のある処痛み出し最早右向を許さず。よつて仰臥(ぎょうが)のままにて牛乳一合、紅茶ほぼ同量、菓子パン数箇をくふ。家人マルメロのカン詰をあけたりとて一片(ひときれ)持ち来る。

 豆腐屋蓑笠(みのかさ)にて庭の木戸より入り来る。

 午後四時半体温を験(けん)す、卅八度六分。しかも両手なほ冷(ひややか)、この頃は卅八度の低熱にも苦しむに六分とありては後刻の苦(くるしみ)さこそと思はれ、今の内にと急ぎてこの稿を認(したた)む。さしあたり書くべき事もなく今日の日記をでたらめに書く。仰臥のまま書き終る時六時、先刻より熱発してはや苦しき息なり。今夜の地獄思ふだに苦し。

 雨は今朝よりふりしきりてやまず。庭の牡丹(ぼたん)は皆散りて、西洋葵(せいようあおい)の赤き、をだまきの紫など。

(五月十二日)」(子規「墨汁一滴」)

西洋葵;タチアオイのこと


つづく

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