1901(明治34)年
5月13日
京釜鉄道株式会社設立。
5月13日
この日の堺利彦の日記
「予は此ごろ手紙、日記等を言文一致体にする事を力めて居る、今度内外出版協会の為に『言文一致文例』を作るについて少し言文一致の事を研究して見ようと思つてゐる」と書く。
7月上旬、「言文一致文例」を作るという構想を実現させ、内外出版協会から『言文一致普通文』を刊行。
5月14日
河野謙三、誕生。
5月14日
5月14日~15日 ロンドンの漱石。
「五月十四日(火)、 Dr. Craig の許に赴く。絵葉喜(三シリング)を買う。田中孝太郎から手紙来る。池田菊苗と話す。
五月十五日(水)、「池田氏卜世界観ノ話、禪學ノ話抔ス氏ヨリ哲學上ノ話ヲ聞ク」(「日記」)」(荒正人、前掲者)
5月15日
天皇の諮詢により、山県有朋・松方正義・西郷従道・井上馨4元老、後継首相に井上馨を推薦。
5月15日
「 五月はいやな月なり。この二、三日漸(ようや)く五月心地になりて不快に堪へず。頭もやもや考(かんがえ)少しもまとまらず。
夢の中では今でも平気に歩行(ある)いて居る。しかし物を飛びこえねばならぬとなるといつでも首を傾ける。
この頃の天気予報の当らぬにも驚く。
体の押されて痛い時は外に仕方がないから、物に触れぬやうに空中にフハリと浮きたいと思ふ、空気の比重と人間の比重とを同じにして。
去年の今頃はゐざるやうにして次の間位へは往かれたものが今年の今は寐返りがむつかしくなつた。来年の今頃は動かれぬやうになつて居るであらう。
先日余の引いた凶の鬮(くじ)を穴守様(あなもりさま)で流してもらふたとわざわざ鼠骨(そこつ)の注進。
筍(たけのこ)が掘つて見たい。
日光新緑を射て驟雨(しゅうう)一過、快。緑のぬれぬれしたる中を鴉(からす)一羽葉に触れさうに飛んで行く。
附記、後で見れば文体一致せず。頭のわるい証(しるし)なり。
(五月十五日)」(子規「墨汁一滴」)
5月15日
フィリピン委員会、非キリスト教諸部族対策局設置。
5月16日
朝鮮、済州島、李在守の乱。李在守指揮西軍・呉大鉉兄弟指揮東軍、大静邑を出発。済州城に迫る。
5月16日
井上馨に組閣命令。渋沢栄一に蔵相就任を、桂太郎に陸相就任を断られ、23日、辞退。後継首班に桂太郎が推されるが、伊東巳代治は第5次伊藤内閣組織に向けて工作開始。
5月16日
林瀧野、萃を連れて上京。まもなく開校される成瀬仁蔵創立・日本女子大学への入学希望など。6月6日、脚気の悪化、子の消化不良病の再発、適当な借家も見つからず、医者の勧めもあり実家に戻る。
5月16日
「 今日は朝から太鼓がドンドンと鳴つて居る。根岸のお祭なんである。お祭といふとすぐに子供の時を思ひ出すが、余がまだ十か十一位の事であつたらう、田舎に郷居(さとい)して居た伯父の内へお祭で招かれて行く時に余は懐剣(かいけん)をさして往た。これは余の内には頑固な風が残つて居て、男は刀をさすべきであるが今となつてはそれも憚(はばかり)であるから、せめて懐剣でもさして往くが善いといふので母の懐剣を貸されたのである。余はそれが嬉しいので、伯父の内へ往て後独り野道へ出て何かこの懐剣で切つて見たいと思ふて終(つい)にとめ紐(ひも)を解いてしまふた。そこでその足元にあつた細い草を一本つかんでフツと切ると固(もと)より切るほどの草でもなかつたので力は余つて懐剣の切先(きっさき)は余が左足の足首の処を少し突き破つた。子供心に当惑して泣く泣く伯父の内まで帰ると果して母にさんざん叱られた事があつた。その時の小さい疵(きず)は長く残つて居てそれを見るたびに昔を偲(しの)ぶ種となつて居たが、今はその左の足の足首を見る事が出来ぬやうになつてしまふた。
(五月十六日)」(子規「墨汁一滴」)
5月16日
5月16日~17日 ロンドンの漱石。
「五月十六日(木)、下宿の主婦(Mrs. Brett)、女は頗る役に立つにも拘らず、男たちが軽蔑するのは失敬だという。夜、池田菊苗と教育や中国文学の話をする。
五月十七日(金)、夜、洋服屋が来て、見本を置いていく。」(荒正人、前掲者)
5月17日
古在由重、誕生。父は足尾鉱毒事件で農民の立場に立ち、後、東大総長の古在由直。母は自由民権運動で活躍した「女闘士」清水紫琴。
5月17日
「痛くて痛くてたまらぬ時、十四、五年前に見た吾妻村(あずまむら)あたりの植木屋の石竹畠(せきちくばたけ)を思ひ出して見た。
(五月十七日)」(子規「墨汁一滴」)
5月18日
片山潜、西川光二郎、『日本之労働運動』刊行。
5月18日
安部磯雄、幸徳秋水、木下尚江、西川光二郎、河上清、片山潜ら、「社会民主党」結成。宣言発表。
5月20日、末松内相、結党禁止。立党宣言を掲載の「毎日新聞」・「万朝報」等発禁。
4月、この6人が労働組合期成会事務所で結党を協議、安部に宣言書起草を一任。宣言書の内容を察知した政府は、軍備撤廃・直接投票・貴族院廃止などを削除すれば結党を許可するとの意向示すが、安部は拒否。
「如何にして貧富の懸隔を打破すべきかは実に二十世紀に於けるの大問題なり・・・」。
「富者の議会」の支配下に無権利状態に圧迫されている労働者・小作人の解放を主張、「我党は世界の大勢に鑑み、経済の趨勢を察し、純然たる社会主義と民主主義に依り、貧富の懸隔を打破して全世界に平和主義の勝利を得せしめんことを欲する」。
堺利彦のこの日の日記。「予も入党する筈であったが、今日内務省から結社を禁止せられた」とあり、「予の半生」では「予は当時まだ明白なる社会主義者となって居らなんだ」と書いている。堺が社会主義に関する洋書を初めて読んだのは、社会民主党結成の翌月であり、この時点では「予の半生」にあるように、まだ明白な社会主義者の自覚はなかった。
社会民主党を禁止した内務大臣は、『防長回天史』編集所の総裁を務めていた末松謙澄だった。堺の日記には、「今朝末松の処に行って社会民主党に対する考を聞いた、末松は内務大臣として全力を尽して鎮圧すると云つて居る、末松も目先の見えぬ事を云ってゐる」(5月22日)とある。
5月19日
~7月15日、アインシュタイン、ヴィンタートゥールの工業高校での臨時数学教師の職につき、10月14日まで滞在。
つづく
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