2012年1月14日土曜日

承和10年(843) 会昌の廃仏 全国的な飢饉 文室宮田麻呂失脚

東京 江戸城(皇居)東御苑(2012-01-12)
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承和10年(843)
この年
・宮廷で公けの催しとして『日本書紀』が講習される。
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1月
・会昌3年(843)正月、会昌の廃仏
資聖寺で37人、長安城内で計3,491人の僧尼が強制的に還俗させられる。
左街(さがい)功徳使で天子の直属軍を従える宦官仇士良(きゆうしりよう)の生存中は仏教徒に配慮があったが、ウイグルとの通謀を疑われて全マニ教徒が殺されるなど、情勢はきわめて危険。
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3月2日
・文室秋津(57)、没。
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3月25日
・義倉を開き、左右悲田院の病人・貧窮者に賑給。
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6月3日
・会昌の廃仏。
仏教徒に配慮をしていた宦官仇士良(きゆうしりよう)が全官職を辞し、23日に没す。
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6月25日
・飢饉の為、陸奥・安房・上総・下総・武蔵・三河・尾張・上野・伊賀・近江・越前・加賀・丹後・因幡・伯耆・出雲・周防・伊予諸国に賑給。
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7月23日
・左大臣藤原緒嗣(70)、没。
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7月24日
・前年暮れに病気になった円仁の弟子惟暁、没。
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8月22日
・新羅の張宝高(日本・唐・新羅三国間貿易で勢力を築く)の反乱事件のあおりをうけて、対馬の竹敷埼に配置されている防人たちが「正月以来、新羅の鼓の音が聞こえ、火も見える」と報告してくる(『続日本後紀』承和10年8月22日条)。
一方、来着する新羅人も増えてくる。
来着新羅人には、張宝高の部下もいたが、商人も混じっており、大宰府官人の中には、彼らと密約を結んで利得を目指す者も現れる。
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9月16日
・藤原愛発(7)、没。
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9月29日
・飢饉の為、豊後・肥前・薩摩・壱岐・対馬諸国に賑給。
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12月
・弾正台・左右京職の巡察の折の下馬の法を定める。
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文室宮田麻呂失脚
22日、謀反を計画しているとして密告され、家宅捜索の結果、弓矢などが発見される。
29日、斬刑のところ、死一等を減ぜられ伊豆に配流となる。
この事件は冤罪らしく、その後まもなく盛行した御霊会の中で、早良親王・伊予親王・藤原吉子・藤原仲成・橘逸勢とともに、文室宮田麻呂の霊が慰められている(『三代実録』貞観5年(863)5月20日条)。
宮田麻呂失脚の理由は、承和の変に連坐した春宮大夫文室秋津の近親者だった、との説もあるが不明。
新羅との密貿易にからんで、「知りすぎた男」として封殺されたとの推測もできる。
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