鎌倉 本覚寺(2012-01-04)
*承和8年(841)
・この年、政府は法令をだして稲機(いなき)の普及に力をいれる。
この頃、有力農民を先頭とする農事の改善努力が実効をあげてくる。
稲機は、田の中に木を組んで、それに稲束をかけて秋日に乾燥させることで、大和国宇陀郡の人が行っていたといあわれる(実際は、大和のみならず諸国で実施されていた)。
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5月
・嘆願により調・庸を前納を認める太政官符が出される(『類聚三代格』)。
武蔵国男衾(おふすま)郡榎津(えなつ)郷の戸主壬生吉志福正(みぶのきしふくせい)が郡司に嘆願状を差し出す。
福正は外従(げじゆ)八位上の位階を持っているので課役を免れているが、その戸には19歳と13歳の少年がいる。
彼は、いつ死ぬかわからないが、2人の子どもの行く末が心配で、自分が生きている間に2人の一生の分の調・庸の前納を嘆願した。
嘆願は、郡衙~国府~中央の民部省に達し、太政官は、この嘆願を許して太政官符を公布。
その2少年の一生の調・庸の総額は、
「壬生吉志継成。年十九
調庸料布冊端二丈一尺
中男作物紙八十張
壬生吉志真成。年十三
調庸料布冊端二丈一尺
中男作物紙百六十張
とある。」
但し、法令の終わりの部分には、「徭は例によりて之を行なえ」とある。
「徭(雑徭=年間30日の労役)」は徴発すると念を押している。
壬生吉志福正の吉志は渡来人系に特有な姓で、祖先が東国に移置された朝鮮からの渡来人であったと考えられる。
位階勲等をおびているところから判断すれば、前半生に蝦夷征討のためにひきだされ、功勲をたてたことが窺われる。
2人の息の一代分の調・庸を前納できるほどの大きな資産を擁している。
福正の人物像を知るもう一つの記事(『続日本後紀』巻15、承和12年(845)3月の条)
武蔵国府が政府にある申請書を提出。
承和2年、神火(神の崇りの火難)のために同国の国分寺の七層塔が一基焼失した。その後10年経ってもまだ塔は再建されていない。
この時、前男衾郡大領(たいりよう)外従八位上壬生吉志福正が聖朝のために塔を造りたいと官に申し出たという。政府はその申請を許可した。
この記事によると、壬生福正は以前に男衾郡の大領(長官)であったという。独力で塔を建てようとするくらいの豪族層に属する人物である。
この二つの行為には、それによって高い位階(外従五位下)を授かろうという下心があったと思われる。
例えば、この年、相模国高座郡大領外従六位下勲八等壬生黒成という者が外従五位下の位を手に入れている。
彼は、土地の貧民に代って「調布三百六十端二丈八尺、庸布三百四十五端二丈八尺、正税一万一千一百七十二束二把」を貢進し、飢民に稲5,504束を支給し、戸口の増益は3,186人(そのうち不課口2,947人、課口239人)にのぼった。
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7月6日
・左兵衛府駕輿町で火災。
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7月15日
・伊勢国・尾張国の正税をもって斎内親王の離宮を造営。
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8月7日
・(会昌元年(841)8月7日)金剛界・胎蔵界・蘇悉地三法の伝受を終えた円仁、帰国許可の嘆願書を認め功徳使に上申。
しかしこの直前の6月11、15日、インド僧法月が帰国願いを皇帝に直訴し、処罰されるという事件が発生していた。
道教に心酔し始めた武宗は、仏教を疎んじるようになっていた。
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9月1日
・洪水の為、京中の民家及び橋梁が流失。
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12月19日
・『日本後紀』、完成奏上。
嵯峨もまた修史への関心が深く、弘仁10年(819)、大納言藤原冬嗣、中納言藤原緒嗣らに勅をくだして、『続日本紀』につづく年代の国史の編纂に着手させる。
その後、嵯峨の退位、冬嗣の没などのために、この修史事業は中だるみ状況に陥っていた。
次代の淳和は、権大納言清原夏野・参議小野岑守・紀伝博士(きでんはかせ)坂上今継(いまつぐ)・大外記(だいげき)島田清田(きよた)らをこれに参加させて力をいれたが、承和7年(840)にほぼ完成し、緒嗣は翌年末に天皇に提出。
延暦11年(792)~天長10年を対象とする全40巻である。うち30巻は早くに散逸し、現存は10巻だけ。
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