2012年1月27日金曜日

嘉祥2年(849) 石川県津幡町加茂遺跡の牓示札 仁明天皇の四十の賀

京都 二条城(2012-01-24)
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嘉祥2年(849)
2月12日
・この日付の牓示札(ぼうじさつ)が石川県津幡町加茂遺跡から出土。

牓示札:通行人に命令などを告知する木製の板。

遺跡は、古代の北陸道と河北潟に通じる大溝(おおみぞ)の交点近くで、文面から付近に駅家(うまや)が存在したこともわかり、陸上交通と河川交通が交差する交通の要衝にある。

命令の内容は、郡司が加賀国の符(下達文書)を受けて、深見村や駅長・刀禰(とね、在地の有力者)に命令を下す形式をとり、全8条からなる。
勧農のために掲げられたと考えられる。

第1条:
農民は、寅刻(午前4時頃)に仕事に出かけ、戊刻(午後8時頃)に帰宅することが決められている(労働時間16時間)。

第2条:
農民が酒や肴を勝手に食べることを禁止する(農民の贅沢を禁止することが目的ではない)。
田植えは短期間に行わなければ稲の生育にばらつきが出て管理が困難になる。そこで、富豪は、多くの人手を集めるために、酒や肴を用意した。しかし、零細農民はそれができないため田植えの時期を逸し、収量が減ることが問題となったため。
農村での貧富の差の拡大がわかる。

第3条:
溝や堰(潅漑施設)の修復を命じる。

第4条:
5月末までに田植えを終えることを命じる。
田植えの時期を規定した理由は、第2条とも関係し、米の山来高を確保しようとしたため。
この頃、既に稲に品種があることが種子の名を書いた木簡(種子札)の存在から確認される。
地域ごとに気候に適する稲の品種が選ばれ、播種や田植えの時期が国や郡により管理されていたと考えられる。
経験的に、いつ頃までに田植えを終えれば、最も収穫量が高くなるのかという点がわかっていたと思われ、それを徹底するために、田植えの時期を限定したと思われる。

第4条:
浮浪逃亡とそれらを匿うことの禁止。

第6条:
桑畑なしに養蚕をしてはならない。
零細農民を雇う規模の大きな養蚕がこの頃すでに行われていたため、働き手を養蚕にとられて農作業に影響が出ることを心配しているのではないか。
ここからも、貧富の差が広がっていたことを推測することができる。

第7条:
飲酒や戯逸(ぎいつ、おそらく賭博)の禁止。

第8条:
以上の禁令を破った者の名を言上することを命じる。

嘉祥2年2月12日は、現在の暦では3月10日頃で、本格的な農作業を目前にした時期である。その年の春の農作業を順調に行わせるため、このように告知札を立てたと考えられる。

文字の持つ力
この資料で注目されるのは、文字と口頭伝達の関係である。
牓示札を路頭に掲示することを命じる一方、田領(でんりよう、郡司の下にあって主として農業関係の郡務を行う郡雑任か)らに、この掲示の内容を人々に口頭で説明することを要求している。
当時の庶民がどの程度の識字能力を有していたのかはよくわかっていないが、それほど高かったとは考えにくい。
文字が読めたのは、郡司もしくはその下の有力者までと考えられる。
それにもかかわらず、字の読めない民衆の目の前に告知札を立てた理由は?
文化人類学などの成果によれば、一般に文字を理解できない人々にとって、文字は権力の象徴であり、マジカルな記号として理解されるという。
おそらく田領たちは、告知の対象となる民衆を牓示札の前に集めたうえで文章を読み、内容をかみ砕いて聞かせたのではなかろうか。ここにこそ、わざわざ文字で書かれた命令文を公示する意味があったと考えられる。
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3月26日
・興福寺において仁明天皇の四十の賀。

まず、仁明天皇の40歳をひかえ、宮中で繰り返し賀宴が開かれた。
興福寺は盛大な仏事をおこない、長篇の祝歌を献上。
参河国守は「白馬四十疋、牛四十頭、支子(くちなし)四十斛(こく)」を朝廷に運び入れて祝意を表す。
国司は、朝廷や権臣に私財を献じ、その官職を守ろうとする。国司が在任中に蓄える富がいかに巨大であるかを物語る。

そして、四十の賀。
皇太子をはじめ皇子11人、源氏2人が夫々「御贄(みにえ)」の数々を天皇に捧げる。
右大臣良房の献上物について、『続日本後紀』は「水陸の珍美、みな萃(すい)ならざるはなし」と特記している。

藤原氏の氏寺の興福寺の大法師らは、仏像40体・寿命経40巻とめでたい説話をえがいた紙幅、彫像の数々に添えて、それと対応した350句からなる長歌を天皇に献じる。
万葉以後、長歌を見るのは稀であるが、仁明の頃はまだ万葉の伝統が断絶していなかったことがわかる。
南都の大法師たちは氏の長者右大臣藤原良房の邸に止宿していた。
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4月28日
・渤海使王文矩ら入京。
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6月1日
・霧雨の為に京中の飢民に賑給。
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9月7日
・伊勢神宮に神宝を奉納。
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10月23日
・太皇太后橘嘉智子、銭50万を京中の飢民に賑給。
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閏12月10日
・仁明天皇、京中巡幸。飢民に賑給。
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