京都 北野天満宮(2011-12-29)
*承和7年(840)
この年
・嵯峨源氏の登場。
この年、源常(みなもとのときわ)は29歳で右大臣にのぼる。左大臣藤原緒嗣は67歳、中納言藤原良房は37歳。
嵯峨は、多数の皇子に源朝臣(みなもとのあそん)の氏姓をあたえて臣籍に移した。そのなかで幾人かは20歳前後に政府の要職につく。
淳和朝で台閣に列した者に常(ときわ)・信(まこと)・定(さだむ)があるが、常はこの年、29歳で右大臣にのぼる。
これら源氏は政治的経験に乏しく、嵯峨上皇の大家父長的庇護のもとに、朝廷の大勢力として俄かに台頭する。
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・唐、文宗、没。武宗、即位。
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2月14日
・小野篁、赦免され帰京。
翌年もとの位に復し、以後、蔵人頭・左中弁を経て、承和14年(847)には参議に昇進。
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2月12日
・京中に盗賊が横行し、六衛府に夜警を命じる。
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3月
・陸奥国奥郡の騒乱(庚申年の怪)
この年3月18日、陸奥守良岑木連(よしみねのいたび)と前鎮守将軍匝瑳末守は、「奥邑の民が、共に庚申を称し、崩れるように逃げる人々は、押さえ留めることができません。これは昔の(蝦夷の)しわざに懲りているからです」と述べて、騒ぎを鎮めるために援兵2千人を徴発したと報告(『続日本後紀』承和7年3月壬寅条)。
「庚申を称する」は、この年が庚申年にあたり、その前の庚申年である宝亀11年(780)に伊治公呰麻呂の乱があり、その前の庚申年である養老4年(720)にも陸奥蝦夷の反乱があったことから、庚申年には蝦夷の反乱が起こるという流言があったことを意味している。
承和年間(834~848)は、俘囚の不穏な動きに加え、玉造塞温泉石神(鳴子火山)の噴火(承和4年4月)、災星の出現、地震の発生(承和6年4月)など、民衆の不安を煽る現象が次々と発生しており、「庚申年には蝦夷の反乱が起こる」という流言に結び付けられ、その前兆と理解されていた。
庚申(かのえさる)の年は60年ごとに訪れ、過去2回の庚申年に蝦夷の大反乱が起きているので、今回も起きるに違いないという流言は、現実味を帯びていた。
現実の俘囚の不穏な動きに、過去の蝦夷の反乱が投影され、それが社会不安を増大させていた。
蝦夷の反乱と征夷の記憶が、民衆の中に刻み込まれ、世代を超えて受け継がれ、この頃の在地社会の状況と民衆の歴史認識が窺える。
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・蝦夷系豪族の登用。
承和2年2月に吉弥侯氏から改賜姓された物部斯波連字賀奴(もののべのしわのむらじうかぬ)は、この月、「逆類に従わず、久しく功勲を効す」として外従五位下を授けられる。
物部斯波連は、志波郡を本拠とする新興豪族。
征夷終焉後、陸奥・出羽両国の支配体制は蝦夷系住民に比重を置いた方式に移行していたが、承和年間(834~848)の奥郡の騒乱は、俘囚の新興豪族の登用を促進させ、この流れを加速させた。
承和2年(835)~7年、「逆類に従わず」「勲功あり」との理由で、俘囚に外五位を授与する例が6例ある。
これは奥郡の支配や騒乱の鎮静化において、彼らの武力を国家側が積極的に利用したことを示すものである。
物部斯波連氏に関しては、元慶5年(881)5月には、「陸奥蝦夷訳語」の物部斯波連永野が外従五位下を授けられており、半世紀にわたって重要な地位を占めていたことが知られる。
「夷姓」と言われた「地名+公」姓から、臣(おみ)・直(あたい)・連(むらじ)といった非蝦夷系豪族と同様の姓に改賜姓する蝦夷系豪族も一般化していく。
蝦夷系豪族の登用と、彼らの支配力に依拠した支配体制の形成が図られた結果、やがて奥六郡の安倍氏、山北三郡の清原氏という俘囚の系譜を引く大豪族が台頭してくる。
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3月6日
・京中の盗賊の追捕を六衛府に命じる。
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3月19日
・倹約を奨励し、女人の服装の奢美を禁じる。
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4月
・円仁、青州でようやく武宗から巡礼の勅許を得る。
文登県で張詠と別れ、7日がかりで到着した登州では、自ら判断できないということで、その管轄者である青州節度使(せいしゆうせつどし、押新羅渤海両蕃使:おうしらぎぼつかいりようばんし、でもある)までの通行証を発行される。
青州節度使は、円仁の申請書を上奏案件に入れ、即位したばかりの武宗から巡礼の勅許が下る。
4月1日、節度使から通行証と贈り物とを受け取り、滞在していた龍興寺で節度使の誕生日の会食に加わる。
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・弘仁格式が再施行される。
弘仁11(820)年4月に撰進。
天長7(830)年2月に施行。
不備が多く編纂が継続し、ようやくこの月、「改正遺漏紕謬(ひびゆう)格式」(漏れや誤りを改訂した格式)として再施行される。
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・遣唐使第2船、大隈に漂着。
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4月23日
・藤原常嗣(45)、没。
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5月
・円仁たち一行は、赤山院の新羅僧たちから、天台山よりは五台山に赴くようにとの教示を得ており、巡礼先を変更して五台山に到着。
その後、8月に長安に入る。
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5月8日
・淳和上皇(55)、没。
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7月7日
・右大臣藤原三守(56)、没。
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8月22日
・円仁、長安に入る。
ここで天台密教の三部の大法を修める。
長安では寺院を管轄する功徳使の指令によって資聖寺(しせいじ)に住まい、そこの僧懐慶(かいけい)から長安の密教界について的確な説明・紹介を受け(9月6日)、また弟子の惟正を情報収集に出かけさせたりして師を求める。
結局、大興善寺(だいこうぜんじ)の元政(げんせい)からは金剛界大法を、円行も師とした青龍寺の義真と玄法寺の法全からは胎蔵界大法を、義真からはさらに蘇悉地(そしつじ)大法を、吸収し伝法灌頂を受けていく。
また青龍寺に滞在していたインド僧宝月からは悉曇(しつたん、サンスクリット)を学ぶ。
この三つの大法は、天台密教の三部の大法として日本に移植されていく。
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12月27日
・新羅の張宝高が大宰府に使者を派遣し、馬鞍などの「方物(ほうぶつ)」(貢ぎ物)を献じる。
政府は「人臣に墳外の交無し」(新羅国王の一臣下にすぎない張宝高が、他国とみだりに交渉するのを認めるわけにはいかない)、として方物を返却し、大宰府から追い返す。
但し、使者には交通費・滞在費を支給し、また使者が携えてきた商品については、民間で交易することを許可(『続日本後紀』承和8年2月27日条)。
この時の命令には「人民をして沽価(こか)を遺失し、競って家資を傾けしむることなかれ」(憧れの商品を手に入れたいばかりに高値でも承諾し、そのために家財を傾ける者がでることの無いように、指導せよ)、とある。
東シナ海を自由に往来しながら貿易している新羅の海商がもたらす商品には、当時相当の需要があったことが分かる。
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