京都 法然院(2011-12-30)
*承和5年(838)
2月12日
・畿内諸国に盗賊横行。左右衛門府の府生・看督らに逮捕を命じる。
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4月7日
・前年よりの凶作・疫病の為、十五大寺と五畿七道諸国に大般若経を読経させる。
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6月
・遣唐使船、再々出航、円仁ら同行。
6月22日、遣唐副使小野篁、病と称し出航せず(12月配流)。
副使の小野篁が乗船を拒否し、遣唐使派遣を揶揄する歌を作る。
大使の常嗣との不仲が原因といわれるが、小野妹子以来、多くの外交要員を輩出してきた小野氏の篁は、遣唐使は既にその役目を終えたと考えていた。
篁は位階・官職を剥奪、隠岐島に流される。
随行者のなかには医・陰陽・画・雅楽笛笙(てきせい)・天文と暦などの学問・技芸を研究しようとする選ばれた留学生、天台の僧円仁らがいる。
大使以下の一行の総数は600人超。
承和の遣唐使の頃になると、政治・制度については、既に多くのものを吸収したと考える者も多く、仏教・芸術など文化の摂取が中心となっていた。
仏教では、円仁、円行、常暁らがいる。
常暁は、唐から怨敵を調伏し、国家の安寧を祈願する大元帥法(たいげんのほう)と呼ばれる修法を持ち帰る。
芸術については、藤原貞敏(琵琶)、伴須賀雄(囲碁)、良峯長松(琴)などが、それぞれの分野で優れた技術を伝える。
以後の平安貴族社会で、これらが貴族の嗜みとして重要視されていく。これらの芸能・職能は、始まりにおいては中国文化の影響を強く受けている。
承和の遣唐使は、政治制度の変革をもたらすことはないが、日本文化の成立の上では重要な役割を果している。
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7月2日
・円仁たちの遣唐使船第1船、揚州海陵県白潮鎮桑田郡東梁豊村に到着。
遣唐使船は沈没の危険に晒され、円仁たち第1船は遣唐大使たちとは離ればなれになり、揚子江の河口、揚州海陵県白潮鎮桑田郡東梁豊村に到着。
「日本国の承和五年七月二日、すなわち大唐開成三年七月二日なり。
年号殊(こと)なるといえども、月日ともに同じなり」(円仁の日記『入唐求法巡礼行記(につとうぐほうじゆんれいこうき)』)。
『入唐求法巡礼行記』:
エドウィン・O・ライシャワーが全文注釈付きで英訳(1955年)。
同年、その成果に基き、『円仁 唐代中国への旅』を著す(フランス語、ドイツ語、日本語に翻訳)。
9世紀の中国を克明に描写していることと、その執筆者の宗教的献身と知的探求と高貴な冒険との驚くべき結合が現れている。
マルコ・ポーロ『東方見聞録』に先立つこと約400年、足かけ10年に及ぶ日々の記録で、武宗の仏教弾圧(会昌の廃仏)の記述など、その迫真力は比類ないものがある。
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10月5日
・遣唐大使藤原常嗣ら真言請益憎円行を含む43名、長安に向かう。
円仁らは天台山入山の勅許を待つ。12月、長安に至る。
円仁は請益僧なので、唐王朝が滞在を許可せず、遣唐使と共に帰国しなければならない。
そのため、円仁は揚州府に到着すると、同行の留学僧円載(えんさい)と共に、直ちに師の最澄も訪れた天台山巡礼許可を求めて奔走。
しかし、揚州大都督李徳裕は、天台山のある台州は自分の管轄下ではないので、巡礼は勅許が下るまで如何ともしがたいと回答。
10月5日、大使らの出発にあたり、円仁は一行に皇帝への許可願いを託す。
大使藤原常嗣は、円仁の希望を叶えるため、皇帝謁見の際に文宗に直接要請するが、請益憎である円仁には時間的な余裕が無いと判断され、天台山巡礼許可はおりなかった。
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10月22日
・彗星出現。(~11月中旬)
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11月27日
・紫宸殿で皇太子恒貞(淳和の皇子)の元服式。
同日、嵯峨上皇の第八皇子源融(とおる)に対し内裏で加冠の儀。生母は大原氏。嵯峨はこれを仁明天皇に与え、その子とさせる。
前年には、淳和上皇が愛孫正道(まさみち)王(故中務卿三品恒世親王の子)の加冠直後に、これを天皇の子にしている。
翌日、嵯峨上皇は冷然院に赴き、ついで神泉苑に遊ぶ。
隼を放ち広大な園池に遊泳する水禽を撃たせる。これは仁明天皇のとくに好むもの。
天皇は、上皇に、「馬四匹、鷹鷂(たか)四聯、嗅鳥犬(きゆうちようけん)及び御屏風、種々の翫好物」を献呈。
この上皇父子の遊興には、公卿百官が供奉し、公けの行事であるが、内容は、嵯峨大家父長制の私事である。
弘仁時代の帝王嵯峨において発現した生活様式(「山水に詣でて遣遥し、無事無為にして琴書を翫(もてあそ)ぶ」という文雅のふう)が、淳和から仁明の承和年代を覆う。
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12月5日
・遣唐使船への乗船拒否を咎められ小野篁を隠岐国に配流。
小野篁は西道謡を作り、これを諷刺。
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