東京 江戸城天主台(2012-01-17)
*承和11年(844)
この年
・源常(ときわ)、左大臣となる。兄の信(まこと)は中納言。他に参議に列する者もいる。
嵯峨源氏は藤原氏の諸流に対抗する一大勢力。
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4月30日
・滋野貞主、居宅を西寺に施入。慈恩寺と号す。
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閏7月7日
・仁寿殿で林邑樂を催す。
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10月
・畿内班田使を任命。
京・畿内で班田実施を企図したものの、校田(土地調査)が行われただけで、班田の事業は見送られる。平安京とその周辺、さらに諸地方の治安状況が悪化しているのがその理由。
嵯峨朝は弘仁元年(810)に京畿内でこれを実施。
淳和は、その18年後の天長5年(828)に実施していた。
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11月4日
・王臣家人・百姓らが鴨川を汚す事を禁じる。
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承和12年(845)
1月8日
・尾張連浜主(113)、大極殿前において和風長寿楽を舞う。
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2月16日
・仁明天皇皇子時康親王・人康親王、元服。
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5月9日
・山城国綴喜郡と相楽郡で虻被害。牛馬に害をなす為、神社に祈る。
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5月13日
・会昌の廃仏。
円仁ら還俗させられ帰国を命ぜられる。
武宗の狂気はますます募り、神仙台を築造し、不老不死の仙薬を求めて余念がない。
道士の言葉に乗り、遂に全僧尼の還俗を指令。
5月13日、外国人僧も例外ではなくなり、円仁と惟正も還俗させられ、直ちに帰国するよう命じられる。
円仁らは、急いで旅支度を調え長安を出る。
行く先々で密やかながら暖かい配慮を受け、入手した経典や曼陀羅の搬送に心を砕きながら、潼関(5月22日)、洛陽(6月1日)、鄭州(6月9日)を過ぎ、一旦は揚州に遠回りさせられたが、7月3日、楚州に到着。
ここで帰国船を待とうとするが許さず、直ちに登州に向かう。
楚州では旧知の新羅訳語(しらぎおさ)劉慎言に、大事な経典や曼陀羅の入った行李を預けるが、このうち金剛・胎蔵両部の彩色つき大曼陀羅は、怖くなった劉慎言によって焼かれてしまう。
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8月27日
・円仁ら、ようやく文登県に辿り着く。
円仁らは、楚州より水路を海州まで下り(7月15日)、8月27日、登州に辿り着き文登県清寧郷の勾当新羅所で張詠に再会。
赤山法華院も破壊されていたが、その荘園の一郭に住まわせてもらい、張詠の庇護のもとに暫しの安らぎを得ることができた。
翌会昌6年(846)3月23日、武宗の没を聞き、劉慎言に預けてあった経典類も回収し、会昌7年(大中元年(784))春までここに滞在。
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承和13年(846)
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承和13年(846)
この年
・白居易、没。
・新羅、張宝高殺害される。
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3月9日
・畿内諸国に諸家の氏姓の出自と所在の皇胤を明らかにさせる。
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3月23日
・(会昌6年(846)3月23日)、武宗、没。宣宗即位。
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8月13日
・藤原吉野(61)、没。
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8月17日
・調庸の累積未進が厖大になり、累積未進量の1/10を現任国司に毎年填納させる未進率法が成立(『類聚三代格』巻8)。
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12月11日
・西大寺講堂焼失。
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