東京 江戸城平川濠(2012-01-17)
*承和14年(847)
この年
・橘嘉智子(嵯峨の皇后)ら、学館院を創立。
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・桓武天皇皇子葛井親王が清水寺三重塔を建立。
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・東寺の荘園が不輸の特権を得る。
空海が創設した綜芸種智院は不振のうちに閉鎖される。
この年、東寺の長者実恵はその敷地を売却し、その代金で大納言藤原良房の所領であった丹波国多紀郡の大山庄の地を入手。
同年、朝廷は太政官符・民部省符を発して大山庄の官物・租・臨時雑役を免除した。
庄園が不輪の特権をえたもっとも早い実例である。
東寺の大山庄の様に、真言・天台の2宗は、教団創設直後から寺領の拡大に力をいれた。
天皇・貴族らは、これらの新興寺院に手厚く援助し、多くの田地を寄進した。
また、新宗門は教団組織の力によってひろく地方に布教し、しだいに別院(末寺)の数を増やし、そこがそれぞれの地域の小拠点となって、土豪・有力農民への宗教的影響を強めていった。
本山と別院との交流のなかで、天台・真言両宗はいよいよ地方に根をはるにいたる。
別院にはかならず寺田が付属しており、やがて本山の彪大な財源の一部となった。
新興宗派の根本道場である延暦寺・金剛峰寺・東寺などは、はやくから宮廷の権門勢力とならんで、道・俗両界を庄する庄園形成者の相貌をおびていた。
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4月9日
・近江に移配の俘囚、外従七位下、爾散南公延多孝、勲功者の子孫であるとの理由により、外従五位下を授けられる。
同日、同じく近江に移配の俘囚、外従八位下、宇漢米公阿多奈磨、同様理由により外従五位下を授けられる。
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5月
・「白丁(はくてい)膳臣立岡(かしわでのおみたつおか)に正六位上を授く。
立岡は若狭国の百姓なり。
窮民に代わりて、塩五と斛(こく)、庸米(ようまい)百五十二斛、准稲四千六百八束(そく)を輸(ゆ)す」(『続日本後紀』巻17承和14年5月条)
白丁は位をもたぬ百姓のこと。
膳臣立岡という者は、その氏姓からすると、普通の農民ではなく、由緒のある貴族の後裔で、若狭国で相当な勢力を築いていた。
彼は、これによって望み通りに正六位上の位を貰った。
位階は、栄誉だけではなく、実益が伴い、さらに官人になりうる資格を身につけることであった。
この記事が物語る事柄。
①9世紀後期には、まだ令の税制が維持されていた。但し、例えば庸の布が米に変っているように、ある程度の変遷はある。
②立岡のこの代納の前には、貢税に苦しむ厖大な「窮民」がいる。
地方では、立岡らの様な少数の豪族・有力農民と多数の窮民との隔絶が甚だしくなっていた。
窮民は、政府の救援があてにできず、有力者に頼るしか道がなかった。
③立岡らの蓄財の蔭には周辺の窮民の犠牲を想定させるものがある。
窮民は立岡らの農業経営(若狭の海浜での製塩をも)のために労働力を差し出し、また、私出挙稲(しすいことう)によって立岡らに収奪されている。
④立岡の頁税代納は位階入手の行為であるが、客観的には、地方の有力民として、中央政府の農民支配に協力していたといえる。
朝廷にとっては、農民の犠牲の上に富を抱えている彼の存在は、大いに頼みになるものであった。
⑤若狭国では、国造に系譜的に連なるか、それと同じ類型の土豪が郡司として国司の指揮下で行政の実務をとっていたが、その外延に、立岡のような有力農民ないし土豪の存在があった。
古くからの土豪や郡司の周囲に、「殷富百姓(いんぷひやくせい)」層が形成されつつある。
地方における大小さまざまの新・旧の土豪、それをとりまいて散在する有力農民の基盤は、在地にひろく根をはった農業経営そのものであった。
かれらは、豊富な労働力を支配していた。
農民は疲弊し、飢えればかれらにすがりつく。逃亡しても結局は転がりこんでくる。
一般農民の困窮と零落こそが、土豪・有力農民の農業経営をますます拡大させる。
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5月18日
・大雨の為、左右京の餓民に賑給。
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9月19日
・円仁ら、能古島の鴻臚館に入る。
9月2日、新羅船で赤山浦を出航、新羅の海岸沿いに南下し、9月17日、能古島に到着、19日、鴻臚館に入る。
尚、8月15日、赤山浦で風待ちをしている時、円仁は髪を剃り僧服を纏う。
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10月5日
・故橘奈良麻呂に太政大臣正一位を追贈。
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10月26日
・嵯峨天皇皇女有智子内親王(41)、没。
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12月19日
・右大臣橘氏公(65)、没。
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