京都 銀閣寺参道にて(2011-12-24)
*川本三郎『荷風と東京 「断腸亭日乗」私註』を読む(12)
「十一 鴎外への景仰」
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大正11年7月9日、森鴎外(60歳)没す。
荷風が鴎外危篤を知ったのは、7月7日夜、帝国劇場から帰ったあと、与謝野寛からの電話によってである。
「夜半輿謝野君電話にて森夫子急病危篤の由を告ぐ」
翌8日早朝、荷風は団子坂の鴎外邸、観潮楼に駆けつける。
観潮楼は、コチラとコチラ
「七月九日の記」(大正14年)。
観潮楼に着いた時には、玄関前には既に天幕のような布が張られ、見舞い客に応接する人間たちが控えていた。家に入ると与謝野寛らが集まっていたので荷風もそこに加わる。
「表の庭に向ひたる奥の間の床には、天朝より御慰問の下賜品うやうやしく打並べられしを見ぬ」。
鴎外は、7日、天皇皇后より葡萄酒の見舞いを受け、8日、従二位に叙せられる。死の儀式が粛然と行なわれている。
座敷に控えていた荷風は、鴎外の親友の医師賀古鶴所(カコツルド)に特別に呼ばれる。
(賀古は、「ヰタ・セクスアリス」主人公金井湛の親友古賀鵠介のモデル。鴎外の遺言「墓ハ森林太郎ノ外一字モホル可ラス」は、7月6日に鴎外が賀古鶴所にいったもの)。
賀古は、荷風が格別鴎外を敬慕していたのを知っていたので、荷風ひとりを呼び、特別のはからいで病室に招き入れた。
「我はひらき戸の傍に坐し、一禮して後打騒ぐ心やうやうに押静めて見まもれば、森先生は袴をはき腰のあたりをしかと両手に支へ、掻巻を裾の方にのみかけ、正しく仰臥し、身うごきだもしたまはず、半口を開きて雷の如き軒を漏したまふのみなり」
袴をはいて死の床に横たわる鴎外の最後の姿を、「多年教を受けたる」荷風が黙然として凝視する。
死にゆく巨人を見送る。哀切、厳粛な一瞬である。
鴎外はすでに意識はなく、翌9日朝7時、「溘焉(コウエン)として逝きたまひし」
7月11日
「玄文社合評会終りて後、小山内兄妹と自働車にて観潮楼に至り、鴎外先生の霊前に通夜す。此夜来るもの凡数十名。その中文壇操觚の士は僅に十四五人のみ」
7月12日
「朝五時頃、電車の運転するを待ち家に帰る。一睡の後谷中斎場に赴く。此日快晴涼風秋の如し。午後二時半葬儀終る。三河島にて茶毘に付し濹上の禅刹弘福寺に葬ると云」
葬儀は、鴎外の遺志で簡素に行なわれ、わずか一時間足らずで終ったという。
荷風はそのことに深い感銘を受けている。
昭和8年12月17日
「終日鴎外遺珠を讀む」とあり、賀古鶴所に託された鴎外の「臨終口授」(遺言)を書き留める。
「余は少年の時より老死に至るまで一切の秘密無く交際したる友は賀古鶴所君なり。こゝに死に臨んで賀古君の一筆を煩はす。
死ハ一切を打切る重大事件なり。奈何なる官憲威力と雖もこれに反抗することを得ずと信ず。
余は石見人森林太郎として死せんと欲す。
宮内省陸軍皆縁故あれども生死別るゝ瞬間あらゆる外形的取扱を辞す。
森林太郎として死せんとす。
墓は森林太郎墓の外一字ホル(仮名でも好いよ)可からず。
書は中村不折に依託し宮内省陸軍の栄典は絶封に取りやめを請ふ。
手続はそれぞれあるべし。
これ唯一の友人に云ひ残すものにして何人の容喙をも許さず。
大正十一年七月六日」
昭和12年6月22日
30余年ぶりに三ノ輪の浄閑寺を訪れたとき、
「余死するの時、後人もし余が墓など建てむと思はゞ、この浄閑寺の塋域娼妓の墓乱れ倒れたる間を選びて一片の石を建てよ。
石の高さ五尺を超ゆべからず、名は荷風散人墓の五字を以て足れりとすべし」
と書く。
これは、鴎外の「余は石見人森林太郎として死せんと欲す」に倣っている。
三ノ輪の浄閑寺はコチラ
「荷風にとって鴎外は第二の父と呼んでいいほどの存在だった」(磯田光一『永井荷風』)。
荷風は、鴎外を、師として、父として、終生、敬し続けた。
年齢は鴎外のほうが17歳上。
鴎外が明治の一代目、荷風は二代目。
鴎外の世代が、使命感と責任感に燃えて、若い明治国家の近代化に努力したからこそ、次の世代の荷風は自由人として文学の世界に遊ぶことが出来た。
父の恩沢があればこそ子は芸術に生きることが出来た。
山崎正和『鴎外 闘う家長』。
荷風の「自由」を保証してくれたのは、結局は、プリンストン大学に学んで文部官僚として活躍、のちに日本郵船の要職についた父、永井久一郎である。
「荷風は父親の厳格さをくりかえし愚痴ってはいるが、結局のところ彼のアメリカ留学も、さらにはフランス留学すら実現させたのはこの父親であった」
「荷風は「先考の恩澤」(「日乗」大正14年12月21日)を充分自覚していた。
引け目にもなっていた。
その気持が、〝偉大なる明治の父″鴎外に対する畏怖と敬意につながっていった。
逆にいえば、荷風は、鴎外という〝父″を意識し、畏怖し、敬することで、自分自身は、蕩児として世間から逸脱することが出来た。
鴎外への景仰は、荷風の自由人としての防御になった。」(川本)
観潮楼跡にある鴎外記念本郷図書館の鴎外の詩碑「沙羅の木」。
文字は荷風が書く。
鴎外の長男森於菟は、昭和26年に、市川の荷風を訪ね、その書を得た。
「(『沙羅の木』の)四行詩、なべての世の人には気むづかしいといはれる荷顧山人永井先生は言にも及ばず引受けて下さって、幾日かの間を置いて再び上ったとき『誰か使が来るかと思ったらあなたが自分で来たの』とにこやかに、墨色も鮮かな画仙紙を渡された」(「鴎外と荷風」)
野田宇太郎の回想によると、荷風に揮毫してもらうことを提案したのは野田宇太郎だったという。
また、最初の揮竜では「みえざりし沙羅の木の花」が「みえざりし沙羅の木」と、「の花」が落ちていたので、森於菟は書き直してもらうために、市川の荷風宅を再訪したという(野田宇太郎「荷風雑感」)。
荷風が鴎外にはじめて会ったのは、明治36年春(23歳、「地獄の花」を出したばかりの頃、この年10月に渡米)、市村座で伊井蓉峰ら新派俳優が鴎外の詩劇「玉篋笥両浦島」を上演した際である。
鴎外にはじめて接し、親しく声をかけられたときの感激を荷風は「書かでもの記」(大正7年)に書く。
「われ森先生の謦咳(ケイガイ)に接せしはこの時を以て始めとす。
先生はわれを顧み微笑して地獄の花はすでに讀みたりと言はれき。
余文壇に出でしよりかくの如き歓喜と光栄に打たれたることなし
。いまだ電車なき世なりしかど其の夜われは一人下谷よりお茶の水の流にそひて麹町までの道のりも遠しとは思はず欒しき未来の夢さまざま心の中にゑがきつゝ歩みて家に帰りぬ」
1908年(明治41年)、パリで尊敬する文学者上田敏に会うことが出来た。
上田敏は鴎外と親しく、上田敏を通して、帰国後、鴎外の家を訪ねるようになる。
「明治四十一年時分の事で、その頃には丁度森先生のところには常盤会の歌会につゞいて観潮楼歌会が開かれたり、又雑誌スバルが創刊されやうといふ頃なので、夜晩くまでいろいろお話を伺ふことができた」(「鴎外記念館のこと」昭和34年)
荷風は、時折り、観潮楼を訪ねるようになる。
若い荷風にとって、鴎外の知己を得たことは、誇らしい思いのすることだったろう。
「日和下駄」(大正3~4年)のなかの、観潮楼を訪ねるくだりは、荷風のその誇りが感じられる。
荷風は、鴎外によって社会的地位を得たのであり、その意味からも、鴎外は、荷風にとって「第二の父と呼んでいいほどの存在だった」(磯田光一『永井荷風』)
大正10年10月2日
「明星」編集会議で鴎外に会う。
「午後富士見町輿謝野氏の家にて雑誌明星編輯相談会あり。森先生も出席せらる。先生余を見て笑って言ふ。我家の娘供近頃君の小説を讀み江戸趣味に感染せりと。余恐縮して荅ふる所を知らず」
賢兄愚弟、優等生の兄と不良の弟、かしこまらない信頼関係、くだけた信頼関係。
大正12年、自身も編集委員に加わった『森鴎外全集』全18巻が国民図書より出版され、これを機にむさぼるように鴎外の文章を読む。
「森先生全集第四巻出版。是第一回目の配本なり」(大正12年2月12日)
「枕上鴎外先生全集第四巻を通讀す」(2月14日)
「鴎外全集第二回配本到着」(3月10日)
「鴎外全集第七巻所載の西周伝を讀む」(5月12日)
「夜森先生の渋江抽齋伝を讀み覚えず深更に至る」(5月17日)
「伊澤蘭軒伝を熟讀す」(7月10日)
「今日も終日蘭軒の伝を讀む」(7月18日)
「伊澤蘭軒讀了」(7月25日)。
渋江抽齋読了した直後の大正12年5月20日
「鴎外先生の柚齋伝をよみ本所旧津軽藩邸附近の町を歩みたくなりしかば、此日風ありしかど午後より家を出づ」と文学散歩を試みる。
大正12年以降、約4年間、近くの飯倉にあった南葵文庫に通い古典をよく読むようになる。
明らかに鴎外の影響である。
大正12年12月1日
「午後南葵文庫に赴き武鑑を閲覧す」
同年12月11日
「午後南葵文庫に武鑑を閲覧す」
同年12月15日
「午後南葵文庫に松浦北海の北蝦夷餘誌其他の著書を検す。蓋下谷のはなし執筆の為めなり」
同年12月16日
「南葵文庫に寺門静軒の癡談を讀む」
同年12月21日
「毎日昼餉の後南葵文庫に赴き、夜は家に在りて執筆す。また餘事なし」
大正12年12月19日
南葵文庫で知らぬ老人の突然の死を見て、古書を読むうちに死ぬのはむしろ羨しいという。
その後も
「午後南葵文庫に赴き青木可笑の江戸外史を讀む」(大正13年1月6日)
「午前執筆例の如し。昼餔の後南葵文庫に往く」(同年1月8日)
「南葵文庫にて探墓会編纂の墓碣餘志を見る。編者は大江丸旧竹といふ俳講師なり」(同年1月11日)、
午後南葵文庫に赴く。阪田諸遠といふ人の手記せし展墓録野邊ノ夕霧十三冊あり」(同年1月29九日)
南葵文庫は「南の葵」というとおり、紀州徳川家の侯爵徳川頼倫が明治32年に創立、42年に公開、日本歴史、日本地理、国文学を中心にした私立の図書館。
徳川邸内(現在の狸穴のロシア大使館あたり)にあった。
荷風は、鴎外の 「渋江抽齋」や「伊澤蘭軒」の影響を受け、自らも史伝を書こうとする。
母方の祖父、江戸の漢学者鷲津毅堂の史伝「下谷叢話」(大正15年)はその成果である。
秋庭太郎が『荷風外侍』(春陽堂、昭和54年)で指摘しているように、鴎外の史伝考証を読み、それに強い感錆感化を受けてから、荷風の読書傾向から噂好まで一変した。
「文壇の時流など目もくれず、これまでの文学観は勿論、これまでの江戸趣味、芝居趣味、浮世絵趣味、声曲趣味は影をひそめ、唄三味線の稽古の如きも全廃した」。
平たくいえば、軟派から硬派に転じたのである。
大正15年以降、掃苔探墓のための寺歩きがふえるのも明らかに鴎外の史伝考証に影響を受けた結果である。
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