2012年1月31日火曜日

斉衡4年/天安元年(857) 治安の悪化(女賊が内裏に浸入) 対馬で争乱 藤原良房(54)、左・右大臣を経ないで、太政大臣となる。

東京 江戸城(皇居)東御苑 白鳥濠
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斉衡4年
この頃
・治安の悪化
近江国守が相坂(おうさか)の他に大石・竜化(りゆうげ)に新関を設けることを要望し、この年、良房らは国府の官人・健児らをその三関に配備。

女賊が内裏の蔵殿に入り、天皇の衣服の材料を奪って逃げた(10月23日)。

群盗は平安京に蔓延り貴族らを脅かし、近衛府の兵力がそれらの逮捕にさしむけられた。

摂津国では、従八位下の位をもつ在地のものに武器をもたせて、国内の非違を検察させている。摂津職の要望による政府の任命と思われる。この重要な地域において治安が乱れていたことを物語る。

京の内外・近国では群盗の跋扈であるが、地方では異なる深刻な様相が現われ始めている。
この年、讃岐国の百姓らが朝廷に国守弘宗(ひろむね)王の暴政について訴え出ている。日向守嗣岑(つぐみね)王の場合も同じである。
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・この年、雷雨・地震が頻発。
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1月17日
・「開元大衍暦経」廃止。「五紀暦経」を採用。
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2月19日
藤原良房(54)、右大臣から左大臣を経ないで、太政大臣となる(平安遷都後初めて)
大納言の源信・藤原良相(よしみ、良房の弟)は、それぞれ左・右の大臣に昇進。

桓武~淳和では、左大臣を任命しなかった年代がかなりあり、良房の父冬嗣は、左大臣に任命された稀な例であった。いま、良房は父祖を超える極官に昇った。

太政大臣という官は、職員令に「一人(いちにん)に師範、四海(しかい)に儀形(ぎけい)たり(天皇の道徳の師で、世界の規範)。邦(くに)を経(おさ)め道を論じ、陰陽を燮(やわら)げ理(おさ)める(政治の姿勢を正し、天地自然の運行を穏やかにする)」地位とされている。
しかし、これは唐の三師(太師・太傳・太保)と三公(大尉・司徒・司空)の役割を合わせて作文されたもので、具体的に職掌が定められてはいない。
そこで「其の人無くば、則ち闕く」という次第で、滅多に任じられなかった。

その叙任の宣制のなかで、文徳天皇は、
右大臣正二位藤原朝臣は朕の外舅なり
又雅(わか)き親王と大坐(ざ)す時より助け導き供え奉れるところもあり、今も又忠貞(まめ)なる心を持ちて食国(おすくに、天下、日本国)の政を相あなない申し助奉事も漸(ようや)く久しくなりぬ。
古人いえるあり、徳として酬いざるなしとなも聞召(きこしめ)す、今あるところの官は、かけまくも畏(かしこ)き先帝の治め賜えるところなり。
朕未だ酬ゆるところあらず、ここをもて殊(こと)に太政大臣の官に上げ賜い治め賜う。・・・」
と述べる。

これによると、太政大臣任命の第一の理由は、良房が天皇の外舅にあたるためであった。

これまでの太政大臣。
7世紀後半、大友皇子(天智朝)・高市(たけち)皇子(持続朝)が太政大臣の地位についている。
奈良時代末期、藤原不比等の孫仲麻呂が権勢をふるい、人臣にして初めて大師(太政大臣の別称)に就き、続いて道鏡も称徳女帝によってこの官に就いている。

良房の場合の、太政大臣になりうる条件とそれを望む背景。
①彼は文徳の皇太子惟仁(これひと)親王の外祖父である。
②嵯峨源氏との対抗上、官職において、かれらから超越したい。
③藤原一門のなかで彼とその直系の位置を決定的なものにしたい。

天皇の外祖父に太政大臣を贈ることは、この当時慣例化していた。
平城天皇の外祖父藤原良継、淳和天皇の外祖父藤原百川、文徳天皇の外祖父藤原冬嗣、のように平安時代に入ってからは、通常は即位の時点で新天皇の外祖父に太政大臣が贈られていた。
仁明天皇の場合は30歳を迎えた年に外祖父の橘清友に太政大臣を贈っている。
但し、これらの例は、贈られた本人が既に没しているという状況ではある。
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2月21日
・天安に改元
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2月28日
・賀茂斎王慧子内親王を廃し、述子内親王(母:紀静子)を卜定。
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3月16
・京南に群盗を衛府・検非違使・馬寮に追捕させる。
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3月18日
・平城前京の群盗を六衛府に追捕させる。
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4月23日
・近江国の相坂(逢坂)関を復活。
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6月
・大宰府が中央に急使を走らせて対馬の争乱を報告。

対馬国上県(かみあがた)郡擬主帳(ぎしゆちよう、書記候補)卜部川知麻呂(うらべのかわちまろ)・下県郡擬大領(長官候補)直浦主(あたえのうらぬし、氏成うじなり)らが、「党類」三百余人をひきいて国守の居館を包囲し、それに火を放って守立野正岑(たてのまさみね)と従者榎本成岑以下10人、防人6人を殺害したという。放火のために、付近の民宅も焼失した。

国府は事変直後に首謀者らを捕えて投獄し、その顛末を大宰府に連絡、大宰府はこれを政府に急報した。

7月、太政大臣良房を首班とする政府は、大宰府に対して、逮捕された者のなかで賊党に劫入(こうにゆう)されたもの、獄中で没しその実罪のない者の妻子を放免させる。
「党類三百余人」のなかには、強制されてこの襲撃に加わった者もいた。

翌年2月、朝廷は大宰府に命じてかれらを裁判にかけさせる。

12月、太政官は大宰府から受理した断文について審議し、主犯人の下県郡擬大領直(あたえの)氏成・上県郡擬少領直仁徳らと部内百姓との主従17人の罪は、いずれも斬刑にあたると決定した。
しかし、朝廷は即位したばかりの清和幼帝の詔という形式で、死一等を減じてかれらを遠流に処することにし、事件は勃発後1年7ヶ月ぶりにようやく結末をつげた。

この襲撃事件の真因は不明。
直氏は旧国造系で、この島の豪族であり、同族の者が二つの郡衙にポストをもっていた。
この直氏と受領立野正岑との間に何らかの紛争が生じ、擬郡司の直氏らが「党類三百余人」を集めて襲撃したまでで、受領を殺せばそれで目的を達したもよう。
国府占拠や、挙兵宣伝をせずに首謀者たちは縛についている。
ことは受領への私怨に発していたと思われる。
300余人の地方民が動いたが、指導グループは17人である。

受領立野正岑は、榎本成岑以下10名の従者を国守の館に置いていた(殺害されたのが10人で、従者はもっと多い可能性もある)。
これは国府の正規な成員ではない。この従者群は、受領の郎等と呼ばれる者たちである。

また、対馬国府は擬郡司ら一味を検挙するだけの兵力を保有していたことも注目される。
但しこの場合、襲撃者は受領らを射殺してすぐ四散し、ほとんど抵抗しなかったらしいことにもよる。
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10月23日
・故空海に大僧正位を贈る。
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12月1日
・文徳天皇皇子惟喬親王、元服。(母:更衣紀静子)
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