2012年1月13日金曜日

承和9年(842)3月~12月 唐で会昌の廃仏の発端 承和の変 外戚への道をたどる良房

京都 詩仙堂(2011-12-24)
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承和9年(842)

3月3日
唐、会昌2年(842)3月3日、会昌の廃仏の発端
宰相となった李徳裕の提案に応じ、正式に登録せずに寺院にいる僧と年少の僧見習いを寺院から追放する勅令がだされる。

3月8日、円仁のような、興善・青龍・資聖の3寺に居留する外国人僧は追放令の対象から外される。
しかし、外出は制限され、外国僧の身元などが調査される。
5月25日、円仁は50歳で「法華経を解し講じることができる」と書く。寺外に出て活動できないので日記も飛び飛びになる。
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7月15日
・嵯峨上皇(57、恒貞親王の母方の祖父)没。恒貞の父淳和は承和7年(840)に没している。
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7月17日
承和の変
嵯峨上皇没の直後の17日、春宮坊帯刀(とうぐうぼうのたちはき)伴健岑(とものこわみね)と但馬権守橘逸勢(はやなり)が、皇太子恒貞を奉じて東国で挙兵し、仁明天皇を廃そうとする計画が発覚。

『続日本後紀』によれば、伴健岑が平城天皇の皇子阿保親王(在原業平の父)を誘って謀反を起こそうとしたという。
しかし、これを聞かされた阿保親王は、先の薬子の変の際に、弟である皇太子高岳(たかおか)の廃位を経験し、自らも大宰府に流されたことに懲りていたので、この計画を密書に記して太皇太后橘嘉智子に送る。
嘉智子はこれをそのまま藤原良房に手渡し、良房が仁明に知らせて事件が一気に表面化、健岑・逸勢らの逮捕に至る。
両人とも否定するが、結局は春宮坊を中心とする大がかりな謀反事件と断定される。

変の背景には、「淳和-恒貞」対「仁明-道康」という父子の対立がある。

恒貞親王の周辺には、春宮坊の官人、淳和天皇の近臣であった愛発(淳和朝の蔵人頭、娘が恒貞の妃)・吉野(淳和朝の蔵人頭、正子の皇后宮大夫)・秋津(恒貞の春宮大夫)などが集まって派閥を形成。
道康の周辺には、藤原良房ら藤原北家とその縁故者が集まる。

仁明天皇と藤原良房の思惑が一致
①仁明にとっては両統迭立を清算する絶好の機会。
②良房(順子の兄、仁明の皇太子時代の春宮亮(とうぐうのすけ)、仁明即位と同時に蔵人頭に抜擢された)にとっては、正子内親王の生んだ恒貞親王ではなく、妹順子の生んだ道康親王を皇太子につけたいとの思いを遂げる機会。

変の処分:
橘逸勢は、姓を非人(ひにん)と改められて伊豆国に流されたが、護送の途上で没す。
伴健岑は隠岐国へ配流。

春宮大夫(とうぐうだいぶ)で参議の文室秋津(ふんやのあきつ、出雲権守に左遷)、亮藤原貞守(さだもり)以下、いわゆる「坊司(ぼうし)ならびに品官(ほんかん)の佐官以上及び侍人・蔵人・諸近侍者等、また所の長以上」といった、皇太子付きの官人のほぼ全員が左遷。
これは、東宮機構の充実を背景に、元来は皇太子自身とは密接な関係を持っていなかった春宮坊官人が、次第に皇太子と密着し、将来の即位をみこして相互依存関係を強固にしておこうという思惑が醸成されてきたことを反映したもの。

議政官では、大納言藤原愛発(ちかなり)が免官、中納言藤原吉野(よしの)は大宰員外帥(だざいいんがいのそち)に左遷。
代わって、大納言に藤原良房、中納言に源信(みなもとのまこと)が任じられ、源弘(ひろむ)、滋野貞主(しげののさだぬし)が参議となる。

この変は、「藤原氏による他氏排斥」事件ではない。
橘氏の筆頭は、この年3月に大納言になったばかりの橘氏公(うじきみ)であるが、事件発覚に導いた太皇太后嘉智子の兄であるということもあり、右近衛大将は止められて良房に代わられたが、まずは無傷で、翌々年の承和11年(844)には右大臣にまで昇進。橘氏の本流は奈良麻呂の長男島田麻呂の系統で、ここからは後の阿衡事件に登場する橘広相(ひろみ)などを輩出。島田麻呂の弟清友の子が氏公や嘉智子であり、逸勢は入唐経験もあり能書で有名とはいえ、清友のさらに弟入居の三男である。
この変は橘氏を狙ったものとはいえない。

主犯とされた伴健岑の系譜関係は未詳。
大伴氏(伴氏)の嫡流は、弘仁14年(823)に参議になった国道(くにみち、種継暗殺事件で処断された継人の子)であるが、天長5年(828)に没し、その子で後に大納言になる伴善男(とものよしお)は、変の当時は32歳で六位の蔵人になったばかりである。
変の標的とするには小さいし、官歴に傷も被っていない。

大納言藤原愛発は藤原北家内麻呂(うちまろ)の第七子、良房の叔父で、淳和天皇の蔵人頭をつとめ、娘を恒貞親王の妃としている。仁明・良房双方にとっての厄介者である。

中納言藤原吉野は、式家の流れで、淳和天皇の蔵人頭、正子内親王の皇后官大夫をつとめ、淳和譲位後は右近衛大将を辞して上皇に陪従する、淳和に密着した人物。
仁明にとって厄介者であるし、中納言良房としても先任の中納言吉野のを政界から葬ることに反対する訳がない。

変の真相は不明な点が多いが、最も利益を得たのは藤原良房であり、彼の策謀であった可能性は高い。史料が掲載されている『続日本後紀』は、良房らの手にょって編纂されたため、自身の立場を悪く書くはずもない。

こうして仁明・良房の共同作戦の形で両統迭立を終わらせ、仁明・良房の結びつきも一層強固なものになった。

仁明と皇太后嘉智子は、嫡系を皇嗣に据えたことに満足したし、良房の機敏なはからいで、仁明は恒貞を殺さずに済んだ。怨霊へのおそれは、無実の罪を負うて憤死した橘逸勢についてだけであった。良房は、仁明の父としての願いを満たしてやることで、自身の権勢への野望の道を大きく開いた。

外戚への道をたどる良房
良房:冬嗣の二男。
その母美都子(みつこ)は藤原三守(みもり)(838年右大臣)の姉で、嵯峨の宮廷において、尚侍(ないしのかみ)として天皇・皇后のあつい信任をうけていた。三守の妻安子(やすこ)は皇后橘嘉智子の姉で、仁明天皇の生母であった。嵯峨天皇は、良房に皇女潔姫(きよひめ)をつかわし、二人の間に明子(あきらけいこ)が生まれた。

良房は淳和朝で蔵人になったが、天長3年(826)に父左大臣冬嗣が没した時は、年も若く、官位も高くはなかった。
しかし、彼は、東宮亮(すけ)として皇太子時代の仁明と親密な関係をつくり、その即位に際して蔵人頭となる。
間もなく31歳で参議に抜擢され、翌年には先任参議7人をこえて権中納言となる。その先任者には、源信・源定(さだむ)・橘氏公(うじきみ、皇太后嘉智子の弟)・文室秋津・藤原常嗣(やがて最後の遣唐大使に任命される)らがいた。

承和の変では、仁明・皇太后嘉智子に働きかけて、藤原一門の愛発、吉野、文室秋津を政界から放逐し、台閣での自身の地歩を一層固めた。
しかし、まだ朝政を左右する位置ではなく、左大臣は式家の緒嗣、右大臣は源常(ときわ)であり、橘氏公は大納言に昇進した。

良房は、近い将来の栄達のために、様々な手をうつ
官職では、大納言のほかに、陸奥出羽按察使・右近衛大将、そして民部卿を兼任。
良房の最大の課題は天皇の外戚となることであり、そのために恒貞親王を皇太子の地位から追い、妹の子の道康親王を皇太子に立てた。

皇太子道康は、紀名虎(きのなとら)の女静子(せいし)をめとり、惟喬(これたか)をかしらに三子をもうけていた。
仁明天皇の末年に近く、良房は、彼の正室潔姫(嵯峨の外孫)との間に生まれた愛娘明子を皇太子の宮に入れる。
やがて明子は皇太子の第四皇子を産むことになる。
仁明の皇太子道康は、母と妻という二重の関係によって良房の家に繋がることになる。

変の結果、以後、皇位は父子相続へと変化することになり、しばらく皇位継承は比較的安定する

仁明朝以降、皇后・皇太后などを本人の死後贈ることはなくなる
(光孝朝以降に復活はするが散発的)。
贈后という形で皇位継承候補者に正統性を付与することから生じる複雑な軋轢を避けるため考えられる。単に贈后を避けたばかりでなく、仁明・文徳・清和・陽成・光孝・宇多の歴代は、在位中に皇后を立てることすらしていない。
皇后を立てることは、その子を正嫡と認めることであるが、この頃のように廃太子が頻繁に起こると、廃后もまた増えるだけだから。子が即位してから安心して皇太夫人にすればよいという安全な方策である。
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7月23日
・皇太子恒貞が廃される。
父嵯峨の命によって、叔父淳和に嫁して産んだ皇太子恒貞を、実母嘉智子の振舞により、実兄仁明の手で廃位されてしまった皇后正子は、貞観2年(860)に円仁から菩薩戒を受けて良祚(りようそ)と名乗る。
同18年(876)2月、嵯峨の離宮・嵯峨院を大覚寺と改め、息子の恒貞(法名恒寂=こうじやく)をその開祖とした。
この後恒貞は、陽成天皇の廃位を画策した藤原基経から、皇位を継承しないかと持ちかけられたが、「昔から王位を捨てて僧になった者は多いが、僧籍を捨てて王になった例を知らない」と断ったと伝えられる。
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8月4日
・良房の甥の道康親王(16)が立太子する。
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8月15日
・新羅国人で、帰化を求める者は、単なる漂着者に準じ、食料を与えた上で追放せよ、と命じる。
大軍大弐(次官)藤原衛(まもる)は、常によこしまな心を懐いて贈り物を貢上せず、事を商売にかこつけて国の消息を窺おうとするような新羅国人は、一切入境を禁断してはどうか、と提案。
これを承けた太政官は、「徳沢が遠くまで及んでいるからこそ、外蕃が帰化してくるのである。彼らの入境を禁止してしまうのは、仁とはいえないのではないか」と述べ、帰化を求める者についても、単なる漂着者に準じて、食料を与えた上で追放せよ、と命じる(『類聚三代格』巻18承和9年8月15日官符)。

外交方針の転換
これまで「帰化」の意思が明確な外国人にはそれを許してきたが、以後は基本的に「帰化」を認めず、漂流民に対しても食料や衣服を与えて、追い返すことになる。
この命令は『貞観格』に収められ、以後も長く先例として生き続け、日本の外交方針となった。
日本が東アジアのなかで、他の国々と国交を結ばなくなる端緒ともなった。
ただし、実態としては、新羅や唐の商人はたびたび日本に来航し、貿易を行っていた。
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10月17日
・菅原清公(73)、没。
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10月22日
・平城天皇皇子阿保親王(51)、没。母:葛井藤子、在原行平・業平の父。
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12月5日
・淳和天皇皇太后正子内親王、出家。
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