東京 北の丸公園(2012-01-06)
*昭和17年(1942)
断腸亭日記巻弐拾六
昭和十七年歳次壬午 荷風散人年六十四
(永井荷風、満年齢62歳)
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昭和17年(1942)1月1日
正月元日。舊暦のこよみを賣ることを禁ぜられたれば本年より我等は太陰暦の晦朔四季の節を知ること能はずなりぬ。
昨夜月稍圓きを見たれば今日は十一月ならずば十二月の十三四日なるべきか。
空晴渡りて一點の雲もなし。
郵便受付箱に新年の賀状一枚もなきは法令の為なるべし。人民の従順驚くべく悲しむべし。
野間五造翁ひとり賀正と印刷せし葉書を寄せらる。翁今尚健在にて旧習を改めず。喜ぶべきなり
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1月2日
一月初二。半晴。雲多くして風烈し。夜は月あかるくラヂオきこえず静寂よろこぶべし。燈下執筆。
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1月3日
一月初三。晴。寒気甚しく日中も凍りし水解けず。
午後となり組の老婆來り大晦日夜半より點火禁止。當分正月中は街燈もつけられまじと云ふ。その故を間ふに正月夜中明くする時は人々酒を飲み遊び歩くもの多くなる故これを妨(ママ)がんが為なるぺしと言へり。
寒気あまりに甚しければ元日以後一度も門を出です。夜々机に憑る。
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1月4日
・一月初四。晴。午後地下鐡にて淺草に至る。東武電車の表階段に乗客の押合ふさま物すごし。西新井の大師に初詣する人々なりと云。
オペラ館楽屋に少憩してかへる。
明月畫の如し 日曜日
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1月5日
一月初五。晴。寒気忍びがたし。
近鄰の人のはなしに盬醤油とも去年の暮より品切となりいつ酒屋の店へ來るやら望なし。砂糖も十日過にならねば配給されざる由。
いよいよ戦勝つて食ふものなき世となり行けり。
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1月6日
一月初六。晴。昏暮土州橋に至り歸途金兵衛に夕飯を喫す。鄰室に某處の病院長なりと称する人元日より三日の間房州館山に赴き身心鍛練のため未明に海水を浴び禊をなしたりと高聲に語るを聞く。語調甚高慢なり。
余黙然として思へらく寒中水を浴びて行をなすは禊にのみ限られたるにあらず。東京にはむかしより寒参なるものありしが近年漸く衰へ軍人執政の世となりてよりミソギといふもの俄にはやり初めしなり。
寒中の水浴もし精神修養に効果ありとせば夏日暖爐に封して熱湯を飲むも亦然るべし。
滑稽和合人と題する小説に泰平の世の道楽者寄集り土用中の炎天にどてらを着物干台に上りて日見の宴を開くところあり。滑稽人の頣を解かしむ。
抑も精神修養といひ身心鍛錬と称するが如き事は日常坐臥の間絶えず之を試み平生の習慣となるに非されば功なきもの。時々思ひつきて行ふが如きは無意味なる遊戯に過きず。
近年紳士学生等のミソギ女給事務員の参禅の如き皆阿世の行為にして具眼者の屑よしとなさゞる所なるべし。
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1月7日
一月初七。晴れて寒し。終日家に在り。
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1月8日
一月初八。晴。午後物買ひにと銀座に行く。
家毎に旗を出したり。人に問ふに毎月一日の興亜禁酒日本年より今日に變更の由。
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1月9日
一月九日。晴。終日執筆。夜金兵衛に飰す。卓上の新聞を見るに池田大伍君昨日病歿の記事あり。行年五十八と云。余大伍君とは文藝の趣味傾向を同じくせしを以て交最深かりしなり。今突然そのなきを知る。悲しみに堪えざるなり。告別式 明後日
〔欄外朱書〕池田大伍歿
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