2012年1月19日木曜日

永禄11年(1568)11月 信長帰国後、岩成友通・三好党領袖が堺湊に集結 [信長35歳]

東京 江戸城(2012-01-17)
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永禄11年(1568)11月
この月
・信長帰国後(京都発10月26日)、岩成友通、三人衆の三好長逸・三好政康はじめ三好笑岩など三好党領袖を堺湊に集める
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・信長、香禅坊へ、近江湯園荘(比叡山中堂領)の代官坊・被官人・竹林寺分を安堵(「土佐堀田文書」)。
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・毛利元就、立花山城奪回のため飯田義武・吉井平右衛門ら水軍衆を動員し立花山城を偵察させる。
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・スペイン、グラナダ地方の改宗ムーア人(モリスコ)、抑圧政策に抗議して反乱。フェリペ2世は徹底的弾圧を指示。
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11月5日
・大和国人「十市衆」100余の軍勢、大西城へ籠城。
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11月6日
・諏訪俊郷・松田頼隆、京都南禅寺大寧院雑掌へ山城内に散在する田畠を「当知行」とする通達(「武家文書」)。
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11月7日
・上杉輝虎、反乱重臣本庄氏の村上本城、包囲。雪とゲリラ戦に悩まされる(本庄城攻め)。
永禄12年3月、降伏。
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11月8日
・ロシア、府主教フィリープのもとにオブリーチニクが乱入。終身刑を言い渡され聖ニコライ修道院へ移送。イヴァン4世(雷帝)の寵臣に暗殺される。
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11月9日
・松永久秀、三好三人衆の内紛により沙汰止みとなっていた願源房・禅教房・識善房・春光房・浄文房ら5人に「一生不免罪科」の決判を下す。
また、松永久通ら、「十市衆」が籠城する大西城を攻撃するが、「究竟ノ衆」が多数戦死。
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11月10日
・この頃、篠原某弟、三好義継へ寝返り、兄の篠原某へ「生害之造意」を企てるが発覚、堺より逃亡(「多聞院日記」2)。
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11月11日
・和田惟政、上下京問屋中へ、「先規」を遵守し「禁裏御料所」諸公事・諸役等の回復を諸本所へ命令(「言継卿記」4)。
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11月13日
・多聞院英俊、久秀を礼問。久秀へ20疋、竹内秀勝へ20疋を進上(「多聞院日記」2)。
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11月中旬
・ネーデルランドのカルヴァン派オラニエ公ウィレム軍6千、フランス国境越える。給与未払不満の傭兵のため撤退。
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11月17日
・竹内秀勝、大和国飯盛城へ入城(「多聞院日記」2)。
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11月20日
・信長、嵯峨西山西芳寺へ庭園の泉水再興を安堵(「西芳寺縁起」)。
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11月21日
・和田惟政、山城大山崎惣中へ、「信長判形」に任せて陣取・乱妨を禁止(「離宮八幡宮文書」)。
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11月21日
・今川氏真、輝虎に信濃を背後から衝くよう要請。
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11月22日
・多聞院英俊、近衛前久が足利義昭の勘当により薩摩へ下向することになった旨を知る。
また、京都には信長命で佐久間信盛・村井貞勝・丹羽長秀・明王院良政・木下秀吉ら5千が駐留しており、来年2月の信長上洛を知る(「多聞院日記」2)。
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11月24日
・村井貞勝・丹羽長秀、近江長命寺へ寺領年貢納入を承認(「長命寺文書」)。
また、近江沖島地下人へ年貢を堅田以外に上納しない旨を了承(「堅田村旧郷士共有文書」)。
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11月27日
・正親町天皇、飛鳥井雅教へ、義昭に公家領返還督促通達を命令。
飛鳥井雅教・庭田重保が義昭へ派遣される。山科言継も命令されるが断る(「言継卿記」4)。
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