2012年1月7日土曜日

永禄11年(1568)10月1~2日 池田勝正の池田城陥落し五畿内・隣国の信長による支配確立 堺と本願寺に矢銭を要求 堺は抵抗 [信長35歳]

京都 法然院(2011-12-30)
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永禄11年(1568)10月
・この月、信長、諸国の関所を撤廃。
「永禄十一年十月・・・且は天下の往還の旅人御憐愍の儀を思しめされ御分国中に数多ある諸関諸役上させられ、都鄙の貴賎一同に忝と拝し奉り、満足仕り候いおわんぬ」。
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・この頃、津田宗及・天王寺屋道叱(宗及の叔父)、天王寺屋だけの茶会をもち、堺の有力商人のもとを訪れる。
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・イギリス、郵政省長トマス・ランドルフ、ロシアに派遣。
イヴァン4世(雷帝)がエリザベス1世に結婚を申し込んだ返礼。商業的特権がイギリス商会に与えられる。
10月1日
・山科言継、足利義昭へ祗候するために烏帽子を調達(「言継卿記」4)。
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10月2日
・信長、摂津・池田勝正の池田城(池田市)攻撃、陥落。芥川城に戻る。
五畿内・隣国の信長による支配確立
~14日迄、芥川城在城。
松永久秀、茶器「九十九茄子(つくもがみ)」献上(28日)。
堺の有力者今井宗久、岳父武野紹鴎伝来の茶器「松嶋の茶壷」「紹鴎茄子」を献じる。今井宗久は、以降、信長に鉄砲製造、兵糧・弾薬を供給。

天皇は、万里小路輔房を勅使として派遣、義昭・信長を慰労する配慮を示す。年初に義栄を14代将軍に任じた負い目のため。

将軍義栄と三好三人衆は、本拠地の淡路・阿波・讃岐へ退却するが、摂津池田家は逃げる場所はなく、退却する三人衆方を引き受けたりしながら、信長勢に対して抗戦の構え。
池田城の戦いは、信長上洛戦で一番激しい抵抗となる
信長勢は、多数の手負いを出したため城下に放火。
当主池田勝正は、補給も援軍も期待できない籠城戦であるため、長期化させずに信長方に降伏を申し入れ停戦。
これを以って信長の上洛戦は事実上終了。
池田勢は新政権を支えるために編入される。

宣教師ルイス・フロイス「日本史」では、1564(永禄7)年頃の事として、「池田家は天下に高名であり、要すればいつでも五畿内においてもっとも卓越し、もっとも装備が整った一万の軍兵を戦場に送り出す事ができた」とある。

元亀元年(1570)6月、池田勝正は荒木村重・中川清秀等により追放される(三好三人衆の働きかけ)。

畿内人事
①河内守護:三好義継(北半国、若江城)、畠山高政(南半国、高屋城)。
②摂津守護:和田惟政(東半国、高槻(芥川)城、義昭側近)、伊丹親興(西半国、伊丹城、松永久秀被官)、池田勝正(西半国、池田城、三好三人衆加担)。
③大和支配:松永久秀(多聞山城)。
④山代の内:細川藤孝(桂川以西、勝龍寺城)。
勝龍寺城跡はコチラ

「重編応仁記」でに和田惟政以下を「摂津の三守護」と称すように、権限は従前の室町幕府治下の守護職に類似のもので、彼らは制度上将軍義昭の指揮下に入るという間接支配方式であり、信長・義昭の権限区分・管轄関係を巡り後に大きく問題化する。


入京当初の信長の畿内における権限は、京都の治安警察権掌握、堺の直轄都市化、和泉の分国化くらい。
寺社領安堵は幕府奉行人奉書を以て義昭の権限として行使され、また徳政の免除も政所執事摂津晴門の加判する奉行人奉書によってなされており(「国上寺文書」永禄11年12月29日幕府奉書、「離宮八幡宮文書」永緑12年2月23日幕府奉書ほか)、幕府機構は作動している。

過去、信長と似た状況で将軍を推戴して入京した細川氏以外の武将に、永正5年(1508)の大内義興と天文18年(1549)の三好長慶があるが、大内義興は山城守護を与えられたのみ、三好長慶は将軍義輝との実力軍事抗争にも敗れ、和睦の末京都を明け渡す。
三好三人衆や松永久秀は焦慮のあまり将軍暗殺に至る。

このように、畿内政権内部の将軍権力排除の試みは悉く失敗に終しており、東海3国を制圧した信長といえども、義昭を推戴しての間接支配方式を選択せざるをえない。

応仁の乱後100年を経て尚、室町幕府は依然強靭な生命力を保っている。
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10月2日
・信長、堺に2万貫の矢銭を要求
堺は会合衆36人が中心となり拒否。浪人を集め、やぐらを構え、堀を深く掘り、防戦態勢をとる

本願寺へも5千貫の矢銭を要求、信長の畿内の寺内町への威圧・破壊を知る顕如は速やかに応じる


本願寺顕如は信長に上洛祝賀使者も送るが、地方では宗主の政略的妥協とは異なる次元で信長軍団と戦う。
(例)
「江北十ヵ寺」:福田寺、福勝寺、誓願寺(箕輪)、順慶寺、金光寺、浄願寺、誓願寺(湯次)、称名寺、真宗寺、中道場など。
また、浅井氏との連合戦線の中から武辺衆と対立する一揆衆の自覚を形づくる。
後、地方門徒の抵抗により、顕如も妥協から抵抗へ大転換(元亀3年(1570)秋、決起促す檄文を発す)。


抵抗する堺。
「扨又畿内繁昌の地、在々所々寺社等迄、公方家再興の御軍用、今度大切の御事なれば、各々金銀を差上げ然る可き由相触れられける程に、皆人是を献上す。
中にも大坂本願寺は一向宗門の惣本寺大富裕なれば迚、五千貫を課せられしに、住持光佐上人難渋に及ばず五千貫を献上す。
信長此金銀を上納させて諸軍勢の兵粮軍用、且又公方家御在京御官位等の御入用に、各是を相行はる。寔に余儀なき政道也。

扨泉州ノ堺津ハ大富有ノ商家共集居タル所ナレバ、三万貫ヲ差上グベキ事子細有ラジト申付ラル。
然ル処堺ノ津ハ皆三好家ノ味方ニテ庄官三十六人ノ長者共、中々御請申スコトナク、同心セザルノ由ヲ申ス
然ラバ早速ニ堺ノ津ヲ攻破ラント有ケレバ、三十六人ノ者ドモ弥以テ怒ヲ含ミ、能登屋、臙脂屋ノ両庄官ヲ大将トシ堺津一庄ノ諸人多勢一味シ、溢レ者諸浪人等相集テ、北口ニ菱ヲ蒔キ堀ヲ深クシ、櫓ヲ揚ゲ専ラ合戦ノ用意シテ信長勢ヲ防ガントス
信長是を聞て何とか思案致されけん。

今度公方家の御共して、和泉・河内・摂津・山城四箇国、不日に退治して京都へ凱旋有べき事、武功天下に隠れ無し。
堺の庄の町人共をば只其まゝに左置べしとて、更に取かけ攻伐の事無く、和州は未だ帰服せず。
松永父子に加勢して連々和州を退治すべしと、隠便に沙汰せらる」(「続応仁記」)。


堺、平野の年寄衆に軍事提携を呼掛け。
「織田上総介近日馳上り候と其聞え候、其元御同心に於ては、双方示し合せ、領堺に出向い、之を防ぶ可く候。御相談として此の如く候。恐惶謹言。堺会合等 平野庄年寄御衆中」(「末吉文書」)。
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10月2日
・スコットランド、メアリ・スチュアート、逮捕。
4日、夫ダーンリ殺害でメアリー・ステュアートの治安裁判所の審問開始。
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