2012年1月14日土曜日

川本三郎『荷風と東京 「断腸亭日乗」私註』を読む(13) 「十二 「小鯵の盬焼、里芋田楽、味甚任し」 - 淡白な食生活」

東京 江戸城(皇居)東御苑(2011-01-11)
*
川本三郎『荷風と東京 「断腸亭日乗」私註』を読む(13)
「十二 「小鯵の盬焼、里芋田楽、味甚任し」 - 淡白な食生活」

荷風が晩年、市川市の自宅近く、京成八幡駅前の大黒家で毎日のようにカツ井を食べたことはよく知られている。
死の直前の昭和34年3月の「日乗」には、頻繁に「正午大黒屋」の記述が見られる。酒1本にカツ井と上新香が決まったメニューだったという。

「カツ井は決して贅沢な食べものではない。しかも、家の近くにある、どこにでもあるような普通の食堂でのカツ井である。
そこに毎日のように通う。
そういう荷風は、美食家とは思えない。
むしろ逆で、食べることにさほど情熱を持たなかったのではないか。だから毎日のようにカツ井を食べていたのではないか。
荷風にとってカツ井とは、「おいしい食べもの」というより、「滋養のある食べもの」だったのだろう。
おいしいから食べるという以上に、肉とご飯が一緒になったものを食べていれば滋養がとれると考えていたためだろう。荷風なりの合理主義である。」(川本)

野口武彦「作家と味覚 牡丹鱧とカツ井のはざま」(「国文学」昭和59年3月号)。
美食家の谷崎に対して荷風は食べものへの執着が薄かった、味覚が淡白だったと指摘。
「ふらんす物語」には、全編を通じて、何々を食べたという料理の品目がほとんど書かれていない。それはひとつの特色として見るに価する。
「荷風は女にはいくらでも金をかけたが、食物にはそうしなかったのである」

「おかめ笹」(大正7年)冒頭、主人公の画工鵜崎巨石が富士見町の借家で、夕暮れどき、外出前に妻に食事の仕度を頼むくだり。
「濹東綺譚」(昭和12年)のお雪が食べているものも、粗食に近い。

「断腸亭日乗」にも、食事をした記録はあるが、何を食べたかの詳しい記述がない。

「女中のはなし」(昭和13年)には荷風を思わせる先生が出てくるが、彼の朝食は、「焼パンとコーヒーと、西洋蜀活(ウド)の缶詰」とごく簡単なもの。

「ひかげの花」(昭和9年)の芝桜川町の裏通りに住む私娼お千代の朝の食事はせいぜい牛乳か卵で、それさえ抜きにしてしまうこともある。
「つゆのあとさき」(昭和6年)の山の手の夫人朝子でさえ、朝食は、毎朝牛乳にトーストである。

晩年の荷風の、親しい知人相磯凌霜との対談『荷風思出草』。
いちばん好きな食べものはなにか、と聞かれ「そういわれても、特別にこうというものは、どうもないな」と答えている。

「断腸亭日乗」の中の食べものの記述。

大正8年1月1日
「曇りて寒き日なり。九時頃目覚めて床の内にて一碗のショコラを啜り、一片のクロワサンを食し、昨夜讀残の疑雨集をよむ」
ショコラは銀座の三浦屋でフランス製のもの、クロワッサンは尾張町ヴィエナカッフェーというアメリカ人の店で買う。当時の日本人の食生活から見ればハイカラだが、同時に、このフランス風食事は、一人暮しの身には手間のかからないもの。

朝にショコラを飲むことはこのころからの習慣になったようで、昭和2年1月1日には、「快晴、九時頃に夢より覚めたり、直に枕頭の瓦斯爐に火を鮎じショコラを煮る、これを啜って朝餉に代ること、築地僑居以来十年間変ることなし」とある。

昭和7年3月11日
「枕頭の瓦斯爐にてショコラを煮る時、窓の外なる椎の梢に鷺来りて鳴く」とある。

昭和初年、銀座の銀座食堂と新橋の金兵衛で食べたもので、「日乗」にでてくる料理。
蛤の吸物、蜆の味噌汁、胡瓜もみ、ずいきぜんまいの煮付、章魚(タコ)の甘煮、塩鱈の煮付、玉子焼に茶漬飯、鱸(スズキ)のフライ、蓮と筍の甘煮、鮎の塩焼、あなごの蒲焼、鱧の蒲焼、玉子雑炊、蜆汁、アイナメの照焼、たけのこご飯、など。
山形ホテルに通って洋風の食事をしていたころに比べると、好みはずっと日本的なものに変っている。

銀座の銀座食堂や、新橋の金兵衛など名のある料理屋ではないところで、なんでもない和風の食べものを食べては「美味なり」と感激する。

「晡時お歌来る、昏黒相携へて銀座に出で銀座食堂に飯す、蛤の吸物味甚佳なり」(昭和4年1月10日)、
「黄昏お歌来る、倶に銀座に往き銀座食堂に飯す、蜆の味噌汁味殊に佳なり」(同年3月31日)、
「晩間銀座食堂に飯す、章魚の甘煮味佳なり」(昭和6年11月12日)、
「燈刻銀座に往き銀座食堂に飯す。アイナメの照焼味佳し」(昭和10年4月14日)

「蜆の味噌汁や章魚の甘煮やアイナメの照焼をうまい、おいしい、といっているのだから荷風の味覚は庶民的である。」(川本)

「昏暮雨の小降りを窺ひ金兵衛に至りて例の如く玉子雑炊に青刀魚を食す」(昭和9年10月6日)、
「日暮れて後雨歇む。銀座に往き蕎麦屋よし田にて茶漬飯と饂麺を食してかへる」(同年10月17日)(銀座のよし田は現在も健在)、
「芝口佃茂(*金兵衛)に夕餉を食す。土用蜆味正に佳し」(昭和12年7月31日)、
「淺草に至り丸屋に飯す。鱚の盬焼味佳なり」(昭和13年9月27七日)

昭和3年2月3日
新橋の玉木屋の佃煮がうまいと激賞。
「阿歌芝口玉木屋の味噌佃煮を購ひ来る、余十年前築地に仮住居せし頃には日々玉木屋の煮豆味噌などを好みて食しぬ、是日たまたま重ねて是を口にするに、その味十年前と更に異る所なし、玉木屋はさすがに江戸以来の老舗なる哉、何年たちても店の品物を粗悪になさゞるは当今の如き世に在りては誠に感ずべきことなり」
"
「万事に質素だった荷風にとって唯一の贅沢は甘いものだろうか。荷風は酒も飲んだがどちらかといえば、甘党である。」(川本)

「日乗」に登場する甘いものは、せいぜい汁粉である。
「(カフェー・タイガーの)二女を伴ひ汁粉屋梅月に憩ひ」(昭和2年1月8日)、
「南鍋町の汁粉屋梅林に立寄る」(昭和8年3月16日)、
「柳家にて汁粉を食してかへる」(同年12月13日)。

昭和17年2月2日、「金兵衛にて歌川氏より羊羹を貰ふ。甘き物くれる人ほどありかだき(ママ)はなし」

「荷風が、食べることに淡白だったのは、生来、腸が弱かったという体質的な理由もあっただろうが、それ以上に、彼が、山の手の堅実な家庭の子だったことも影響していると思う。
蕩児に見えながらも、荷風の基本は、作品世界も生活態度もストイシズムにあり(女性に対しても彼は、実は、ストイックに距離を取り続けた)、それが、食べるという快楽への惑溺を抑制したのである。
そこにさらに、彼の、零落趣味、陋巷趣味が加わって、食への耽溺にはついに向かうことはなかった。
荷風にとっては、茶漬をさらさらとかきこんでいるお雪こそが、はかなく美しく見えた。
あっさりとした、慎ましい食事をするお雪こそが夢の女になった。」(川本)

芝口(新橋駅西口広場あたり)の金兵衛。
昭和9年10月6日では「一膳飯屋」と呼んでいる。
昭和8年8月4日、「夜銀座にて高橋邦竹下萬本の三子に逢ひ芝口の金兵衛に飲む」とはじめて登場してから、昭和18年末までこの店をひいきにする。
正月も開いていたので、単身者の荷風には便がよい。

昭和13年1月1日
「日暮れて後淺草公園を歩む。群集織るがごとし。芝口金兵衛にて夕飯を喫して帰る」

昭和15年9月26日
「燈刻芝口の金兵衛に至りて夕飯を喫す。小鯵の盬焼、里芋田楽、味甚佳し。この店にては仙台より精白米を取寄する由、久振りにて茶漬飯を食し得たり」
"
昭和17年3月28日
金兵衛で食べたものが悪かったのか腹痛を起す。

それを伝え聞いた金兵衛の内儀は、31日に荷風を見舞う。感激して荷風は記す。
「午後金兵衛のかみさん料理番同伴にて病気見舞に来る。蓋し廿八日の晩同店にて夕餉を食せし時吸物椀の中にとうがんの入れありしが其為苦味甚しきを一口飲みたれど如何ともすること能はず其まゝ飲みほしたり。其夜十二時頃より俄に腹痛下痢を催したり。此事いつか金兵衛方へも知れしが故わざわざ見舞に来りしなり。かみさんの實意今の世には珍しと謂ふべし」

荷風はいよいよ金兵衛に通うようになる。
「金兵衛に夕餉を食すること毎夜の如し」(昭和17年4月3日)

『荷風恩出草』のなかで、相磯凌霜に「御飯は前と同じようにダイコンやニンジンを刻んでたく、あれをかかさずやっているわけですね。あれは栄養にはよいでしょう?」と質問され、荷風は「御飯の中に野菜をたたきこめば、おかずを別に作らずにすむもの」とおおらかに答えている。
食に情熱を持たない単身者らしいアイデアといえるだろう。
荷風は一貫して合理主義者である。(川本)
*
*
(註)
「芝口の金兵衛」:

相磯凌霜「永井荷風日記の栞」によると、
「小料理屋金兵衛の主人は築地佃煮店の老舗『佃茂』の弟で、芝口(新橋駅烏森口)に佃茂支店を出した。
ところが働き者の細君は、その向側に小料理屋を開いた。この細君は、元新橋藤都の登志という芸者で、荷風先生とは顔馴染だった。
そんなわけで、昭和十八年に店が強制疎開で取払いになるまで先生は毎晩のように夕食に通われた。
佃茂の女将原田ふみさんは、十五代羽左衛門の異母妹にあたる。ふみさんは強制疎開によって店舗を失い仙台の親戚の許へ行ったまま東京に帰らず、仙台に現存」とある。
*

0 件のコメント: