2024年7月22日月曜日

長保2年(1000)12月15日 左大臣道長、病に倒れる(2ヶ月後復帰) 皇后定子(25)没し、中宮彰子の地位が確固不動のものとなる 「夜もすがら契りし事を忘れずはこひむ涙の色ぞゆかしき」(定子の辞世の歌)(『後拾遺和歌集』「哀傷」五三六)

東京 北の丸公園
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長保2年(1000)
3月
・永宣旨料物制を定める。
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4月7日
・この日、中宮彰子は改めて一条院に参内。
今回は女御ではなく、中宮という資格であるから、御輿をはじめ、諸道具も改められた。ことに大床子(だいしようじ、高さ2尺ばかりの大きな台)が御座として設けられ、御帳台(みちようだい)の前には獅子・こま犬の置物が置かれる。これは天皇の御座と同様で、中宮となったための新しい設備であり、天皇から賜わるのである。
庭には衛士の詰所が建てられ、諸事一段といかめしくなって、天皇も、今まではいかにも気安かったが、中宮にもなったし、ぐんと前よりおとなびてきたし、へたすると叱られそうだと冗談が出て、人々もくすくすと笑った。
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4月27日
道長は突如病に倒れる。
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5月8日
・この日付『権記』。
天皇から、昨年の新制官符を下しても、取締りが緩やかで、人々が禁令を嘲っているという話だ、これは検非違使が仕事をしないからだという旨が、検非違使別当の藤原公任に伝えられる。

この日、当時病気でずっと引き籠っていた道長のところに、蔵人頭行成が連絡にやって来た。
その時、道長は行成に、ほぼつぎのようなことを奏上するよう命じた。
「病気引き籠り中、検非違使別当の藤原公任が参りまして、昨日蔵人菅原孝標(たかすえ)が公任に勅命を伝えて言うには、昨年官符を下して綱紀振粛を命じたが、その後一向に取締りが緩やかで、みな禁令を嘲笑っているという。これは第一に検非違使がしっかり取り締まらないからだ。よく検非違使の役人どもを誡めて、禁令を徹底させよ、との勅命がありました由、公任が申しました。これは全くお言葉の通りのことで、じゆうぶん役人を誡めて取り締まらせるべきだと存じます。ところがこの話のついでに、中宮彰子のところの従者たちが禁制の絹の袴をはいているということが、女房の話として天皇のお耳に入ったと孝標が申していたということで、これはまったく驚き入った中傷でございます。いったい誰がそんなでたらめを申し上げたのでしょうか、早速よく調べようと存じます」
行成は早速参内してこの旨を奏上したが、絹袴云々の件については天皇は、「なにも聞いていない、どういうことなのかな」ということで、行成はまた道長のところに戻ってこの旨を伝えている。
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5月9日
道長、重病により左大臣の辞表を提出。一条天皇は、これを裁可せず大赦や病気平癒の祈願を行わせる。
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5月14日
・検非違使が取締り案三ヵ条を天皇に奏上して裁可を求め、蔵人頭行成を通じて道長に諮問があり、僧侶の車宿りのこと、美服のことについては、色のことと袴の幅のこと、六位以下の乗車については車を破却し、螺鈿の鞍を用いて乗車する者は鞍を破却すること、などでよいのではと道長は奏上している。

検非違使では別当が天皇のお叱りを蒙ったので恐縮して、早速三箇条の取締り案を作って天皇に提出したらしい。
この日、行成はまた勅命を受けて道長のところに赴き、この三箇条を示して彼の意見を徴した。

これに対する道長の奉答は、
一、僧侶が町なかに住宅を構えることについては、禁令に背く者を書き出して処分を決めたい、
二、華美の服装の件は、それぞれ具体的に指示するが、袴の幅は二尺と制限したい、
三、六位以下で車に乗る者は、その車を破壊し、牛は本人に返すこととしたい、
とのことで、行成はこの道長の奉答を持って参内、奏上した。
以上の三箇条は大体その通りに、6月5日付で検非違使にたいする官宣旨という命令書をもって下命された。

その後、蔵人孝標が新調の華麗な服で御前に出たところ、天皇のご機嫌が悪く、御前を下がって慌てて日頃着ていた粗末な服に着替えたこともある。
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6月27日
道長、病が回復して復帰する
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10月11日
・一条天皇、新造内裏に遷御
長保元年(999)6月に内裏が焼失し、この月に内裏の新造がなり、この日に一条天皇遷御が行なわれた。
この時、行成が内裏諸門と殿舎の額字を書いたのが、書の面での活躍の最初の大きいものであった。
この年7月、内裏殿舎の門額を自宅に運ばせ、書き始めた。
遷御の当日、先立って額をかけ、内膳司の竈神を移していることからも、額は重要なのだろう。
さらに清涼殿東庇の色紙形(昆明池障子であろう)を書き、翌年5月には晴涼殿母屋の五間の御障子の本文(漢文)も書いた。
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12月
・この月、仏師康尚、内裏仁寿殿の仏像、観音・梵天・帝釈天三尊を造り奉っているが、これは去年造った仏像が天皇の気に召さず造り改めたものという。
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12月15日
皇后定子(25)、媄子(びし)内親王出産に際して没する。
事実上、二后並立の期間は1年にも満たなかった。
中宮彰子の地位は確固不動のものとなる。
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12月27日
定子、鳥辺野陵に埋葬、伊周・隆家ら中関白家の人々が参列。一条天皇はしきたりにより立ち会えなかった。
「野辺までに心ばかりは通へども わが行幸とも知らずやあるらん(せめて心だけは埋葬に立ち会っているつもりだが、朕の心が来ている事に定子は気付くだろうか)」
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