2024年7月10日水曜日

大杉栄とその時代年表(187) 1896(明治29)年5月3日~15日 子規、「松蘿玉液」で一葉『たけくらべ』を賞讃 「一行を読めば一行に驚き、一回を読めば一回に驚きぬ」 「西鶴を学んで佶屈に失せず、平易なる言語を以て此緊密の文を為すもの、未だ其の比を見ず」 「一葉何者ぞ」 一葉「われから」(『文藝倶楽部』)    

 

『われから』

大杉栄とその時代年表(186) 1896(明治29)年5月1日~2日 与謝野晶子(18)、堺敷島会に入会 禿木と秋骨が一葉を訪問、鴎外の「たけくらべ」激賞を喜ぶ 「われはたとへ世の人に、一葉崇拝のあざけりを受けんまでも、此人にまことの詩人といふ名を送る事を惜しまざるべし」(鴎外) 一葉自身は、「そは槿花の一日の栄え」に過ぎず、「たヾ女子なりといふを喜びてもの珍しさ」に騒いでいるのだと冷ややか より続く

1896(明治29)年

5月3日

漱石、虚子のために坪内逍遥と狩野亨吉に宛てて紹介状を書く。

また、水落露石宛手紙で、無事帰ったことを喜び、熊本市に来た時には、なんの風情もなくて汗顔の至と書き送る。なお、「駄馬つゞく阿蘇街道の若葉哉」(「めさまし草」)と付す。署名は愚陀佛。第五高等学校は、阿蘇街道の発端に臨み、南側の清正並木の若葉を通して、遥かに阿蘇の噴煙が見える。

5月4日

この日以後(推定)、漱石、熊本市下通町103番地(現・熊本市下通町1丁目7番16号または17号、光琳寺町)に一戸を構える。(熊本での第二回めの住所)庭は、青桐と椋の木がある。家質は8円。松島とくという老女に家事を手伝って貰う(松島とくは、長女筆の生れるまでいる)玄関に続いて10畳・6畳、茶の間が長4畳で、湯殿と板蔵もあり、離れは6畳と2畳である。(蒲池正紀)

5月4日

子規、「松蘿玉液」(『日本』)に小説について書き、すぐれた作品に出あえば、薬よりも病気に効能があると、一葉『たけくらべ』を賞讃する。


「『たけくらべ』という。汚穢(をわい)山のごとき中より一元の花を摘みきたりて清香を南風に散ずれば人皆その香に酔うて泥の如し。我は全篇の趣向をも褒めず事情に通ぜるにも感心せず、しかも一行を読めば一行に驚き一回読めば一回に驚きぬ。文章に付きていわんか、西鶴を擬する者あるいはこれあらん、佶屈(きつくつ)を以て懈弛を免るる者あるいはこれあらん、西鶴を学んで佶屈に失せず平易なる言語を以てこの緊密の文を為すものいまだその比を見ず。その一部の趣向に付きていわんか、あるいは笑いあるいは怒りあるいは泣きあるいは黙する処において終始嬌痴(きょうち)を離れざるは作者の技倆を見るに足る。その欠点は必ずしもいわず、枝葉広がりて幹短きもその一なるべし。われかつて閨秀小説の語を厭う。これを読むを欲せず人これを評するを聞くをだに嫌えしなり。一葉(いちえふ)何者ぞ。」(「松蘿玉液」5月4日)

5月4日

芹沢光治良、静岡県沼津市我入道の網元の家に誕生。次男。1915年3月、学力優等者、在5ヶ年間精勤者として沼津中学を卒業。1916年9月、20歳、第一高等学校文丁(仏文科)入学。

5月4日

従軍していた大杉栄(11)の父・東が新発田に帰還。片田町に引っ越していた。10番目の家。

5月4日

イギリスのタブロイド紙「デイリー・メール」創刊

5月6日

泉鏡花が、桐生悠々に書生の口を勧めて彼を怒らせたことを伝える。

5月6日

天文学者アミュエル・ラングリー(62)、蒸気機関を動力とする模型飛行機を3千フィート飛行成功

5月8日

一葉に対して、榊原すみれより、江留中学校教員で結成された文学社(郷土文学会)への寄稿依頼

5月9日

「夏来れり 狭き庭を見れば葵は乳のあたり迄伸び出で青薄はや風を受けて乱れ初めたり。薔薇は赤き枝の若きが只すいすいと長高く、赤き葉、赤き棘(とげ)のうつくしき中に莟の紅を含みていくつも並びたるなかなかに開き尽したるよりは見処多し。上野の山は低き垣の上に見えて物古りたる杉木立の間に若葉少し漏れて日に照されたるもすがすがしく覚ゆ」(子規「松蘿玉液」5月9日)

5月10日

『文藝倶楽部』第2巻第6編に一葉「われから」を掲載。一葉最後の発表小説。明治28年11月の作品(斎藤緑雨の判断)であり、4月掲載にむけて3月中には大橋乙羽に届けられたが、「たけくらべ」一括掲載の事情もあり遅れて掲載されたと推測できる。

樋口一葉『われから』(青空文庫)

樋口一葉小説 第二十二作品 「われから」のあらすじ

〈あらすじ〉

二十六歳のお町は家付き娘で、少壮政治家の金村恭助の妻である。

美貌で派手な性格で、物惜しみをしない鷹揚さが人目をひくが、内面では愛に飢えている女性である。

子供もいないし、恭助が留守がちなので、その空虚感をまぎらわすために、書生の千葉に親切にしたりするのである。

このお町の父金村与四郎は、かつて大蔵省の下級官僚で、月給八円の生活に満足していた。

が、妻の美尾はそんな彼をふがいなく思い、己の美貌を生かしうる栄華な世界にあこがれていた。

そして母の誘いにのり、従三位の軍人の妾になり、生れたばかりのお町を捨て、母と共に家を出てしまった。

妻のこの裏切りに憤怒した与四郎は金の亡者となり、五十前に死ぬまでに莫大な財産と豪邸を保有するに到ったのである。

こうした母の血がお町にも流れているか、お町は財産に恵まれても、何かしら不安で飢餓感に苦しむのである。

そうした彼女をいっそう不安にしたのが、恭助がこの十年間妾をもち、子を産ませていた事実である。

彼女は不安をかき消すためか、千葉にいっそう親切にする。

しかし、それが噂として広がり、ついに恭助から絶縁、別居押籠めを言い渡されてしまうのであった。


5月12日

第7師団(旭川)創設

5月12日

この日付け子規の伊藤半次郎あて手紙

「・・・四五日前より歩行出来申候ように相成り、大いに愉快を感じ候。ただし東京にいながら花も見ぬ次第なれば病気ほど無風流なものはこれなく候


藤て聞けば上野の花のさわざ哉」

5月13日

甲府地裁判事別所別、突然、新潟県佐渡郡相川区裁に転補。裁判所構成法第73条で当該判事の意思に反する転所を禁じるのをもって、辞令受け取り拒否。控訴審である大審院での懲戒裁判所で無罪。

5月14日

朝鮮、小村=ウェーバー協約調印。露公使ウェーバー、朝鮮駐留軍増加自粛

5月14日

子規の虚子宛ての手紙。若い虚子が「面会日」などを大仰に決めたことをたしなめる。

「めったなこと他人にいうて世のもの笑いとなりたまいそ。もし友人と談話して時間を費やすことおしくば自らは閑居して外出せずにいたまえ。さすれば人の来ぬ間にいくらでも勉強できもうすべく、それでもなおいかんとならば人が来た時に学問上のためになる話したまえ。もし話なき人ならば書物を出してきて、その人と一所に読み一所に評したまえ。学問嫌いの人ならばさっさといとま乞いしてもはや二度とは来たらざるべし」

「あまり生意気なこと也」

5月中旬

加藤雪腸から一葉に、俳句や小説に関して教えを乞いたいとの手紙が博文館宛てに届くが、浅学を理由にやんわりと断る


つづく

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