2024年7月22日月曜日

大杉栄とその時代年表(199) 1896(明治29)年7月13日~15日 7月15日付け一葉日記(1) 緑雨、一葉の作中に「冷笑の心」が充満していると指摘 「世人は一般、君が『にごり江』以下の諸作を、『熱涙もて書きたるもの也』といふ。(略)さるを我が見るところにしていはしむれば、むしろ冷笑の筆ならざるべきか。(略)おもては笑をふくみつつ、(略)優しげにいふ嘲りもあり。君が作中には、此冷笑の心みちみちたりとおもふはいかに。」

 

築地本願寺;1901(明治34)年に再建された本堂

大杉栄とその時代年表(198) 1896(明治29)年7月4日~12日 東京美術学校西洋画科が設置(黒田清輝) 漱石、教授(高等官六等、月俸百円)となる 一葉の許に緑雨来訪 与謝野鉄幹(23)第1詩集「東西南北」 一葉の許に横山源之助来訪 「(緑雨のことを)さ計の悪人とはみえざりき」という より続く

1896(明治29)年

7月13日

一葉、父則義の墓参を兼ねて、本願寺にお中元を持参する。妹邦子と二人で新調した一重ものの着始めである。

茶飯を炊いて姉久保木ふじ子を招く。上野兵蔵・清次父子と西村釧之助も来る。星野天知来訪。上野父子は帰宅。釧之助と姉は茶飯を食べてゆく。星野天知はひどく荒々しい物言いで打ち解けないような様子で不審だった。原良造より文章の添削を請われる。


「星野君いとあらゞかに物うちいひて、うちとけぬほどの素振、いとあやし。量(りやう)いとせばき人ならずや」

7月14日

一葉の許に、佐藤梅吉が中元の礼に来る。

読売の記者、平田骨仙が、川上眉山の紹介で女学に関する雑誌「大倭心」への小説の依頼に来訪(依頼を受けたが病状悪化で書けなかった)

7月15日

一葉の許に、早朝、兄虎之助と久保木秀太郎が来て、一日入る。雨が降ってきて帰りにくく、歯痛に苦しんでいることもあって、そのまま泊まることになる。

桃水が中元の例に来たが、門口で帰る。

皆が寝てから、頼まれていた『智徳会雑誌』の原稿を書こうと机に向かうと、緑雨が「毎日新聞」を借りに来る。山梨の芦沢家に送っていて、手元にはないというと、それなら他で借りると言う。29年2月から半年ほどの文界のことについて文章を書くとのこと。

緑雨は、一葉の作中に「冷笑の心」が充満していると指摘。緑雨こそが一葉を正しく理解し、一葉もそのことを理解している。


「人々かへりて、夜いたう更ぬ。座敷の次にかやつりつ、兄君の歯痛にてなやみ給ふまゝ寐(ね)せ参らせつ。おのれは、かねてたのまれの『智徳会雑誌』の原稿かゝばや、と机に打むかふほど、かどに車とゞむる人あり。「このおぴたゞしき雨ふりに、大路(おほぢ)行人(ゆくひと)かつふつなく、車は我家より日(に)ほん橋まで、四拾銭の高科(かうれう)にても猶行く物のなしといふ今宵、そもそもたれかは訪ひよりたる」と見るに、正太夫ぞ立たりける。おどろきてむかへ入るるに、猶弱げなるおももち、いたましきさましたり。「いよいよ文界の総まくり書かぼやと決心しつ。材料ことごとく取集めつる。君がもとにも借り参らし度ものありて、もう来つる」といふ。「何事ぞ」といへば、あとの月の『毎日新聞』をなりけり。早くより山梨のあし沢がもとに送りやりて、我がもとには一枚もとどめぬなれば、其事いひて断るに、「さらばほかにてかり申すべし。此度はいよいよ君が事、悪く申候ぞ」とて笑はるるに、「いかやうとも唯かたじけなき事に思ひ居るべく」と笑へば、「こも役目なればいかがはせん。我が御もとを訪ひつること、世間一体しらぬものなく成りて、「正太夫が観破したる処の一葉はいかなる物ぞ」の質問、いとおびただしくて、うるささ堪へがたし。きのふ坪内に逢ひしに、かれもしか尋ねにき。かく、口々の質問に一々こたへんもいと佗し。筆にしてこそと思ふ。わが此度かかばやといふは、此年二月より半としがほどの文界のことをなり。ことごとくしるさば、『めざまし草』一冊書うづむとも足るまじきながら、さのみはとて、五、六十頁にとどめんとす。その六分の一は君の事なりとて冷やかに笑ふ。」

(人々もみな帰って、夜もすっかり更けた。座敷の次の間に蚊帳を吊った。兄が歯痛で苦しんでいるので其処に寝させる。私は頼まれていた「智徳会雑誌」の原稿を書こうと机に向かった時、門口に車を停める人がある。この大雨に通りには全く人もなく、車は我家から日本橋まで四十銭の高料金を貰っても行こうという車屋もないという今夜、そもそも一体誰が訪ねて来たのかと出て見ると、斎藤緑雨氏が立っていた。驚いて迎え入れたが、弱々しい顔つきで哀れな様子をしている。

「いよいよ『文壇総まくり』という評論を書こうと決心したのです。材料は全部集めたのだが、あなたか

らも借りたいものがあったので、こうして出かけて来たのです」

「それは一体、何をですか」

「先月の毎日新聞をお借りしたいのです」

と言う。とうの昔に山梨の芦沢の所に送ってしまって、家には一枚もないので、そう言って断ると、

「それでは他所から借りることにしよう。今度はいよいよあなたのことを悪く書きますよ」

と言って笑っている。

「どのようにでもお書き下さい。あなたに書かれるのなら有難いことと思いますよ」

と、私も笑うと、

「これも仕事だから止むを得ないことです。私がお宅を訪ねたことは、世間誰でも知らぬ者はない程に

なって、緑雨が見た一葉というのはどんな人物かという質問が次から次に来て、うるさくて仕方がない。昨日坪内逍遥に逢ったら、同じことを聞くのです。一人一人の質問に一々答えるのもいやだから、書いて発表しようと思うのです。私が今度書くのは今年二月からの半年間の文壇の様子です。詳しく書くと『めざまし草』一冊全部を埋めてもまだ足りないと思われるが、そんなに書くわけにもいかないので、五、六十頁にとどめようと思うのです。そのうち六分の一はあなたのことですよ」

と言って冷ややかに笑っている。)


「此日記しるししは七月二十日。午前十一時ごろよりはじめて、二時にいたらぬほどに一冊書終る。正太夫との物がたり猶かゝばやとするほどに、幸田露伴、三木竹二君と打つれて来られしに、えしるさず成ぬる也。十五日のつゞき猶別冊にしたゝむ。」


「七月十五日のつゞき。
「君が性質見あきらめばやとて、われはまこと此日頃訪ひ寄るなり。ことばの中にか、身のふるまひにか、我がおもへるに合ひたる所あらば、さて我が論は成り立つべきなり。世人は一般、君が『にごり江』以下の諸作を、『熱涙もて書きたるもの也』といふ。こは万口一斉の言葉なり。さるを我が見るところにしていはしむれば、むしろ冷笑(あざわらひ)の筆ならざるべきか。嘲罵(てうば)の詞も、真向よりうつてかかるあり。おもては笑みをふくみつつ、「君はかしこうこそおはせ、いとよき人におはします」と優しげにいふ嘲りもあり。君が作中には、此冷笑の心みちみちたりとおもふはいかに。されど、世人のいふが如き涙もいかでなからざらん。そは泣きての後の冷笑なれば、正しく涙はみちたるべし。まこと同情の涙もて泣きつつ、これを書くものとせんか、さのみ悲しみの詞をつらねて、涙の歴然と顕はるるやうの事あらんや。人一度は涙の淵に身もなぐべし。さて其後のいたり処は何処ぞや。泣きたるのみにとどまるには非じ。君は正(まさ)しく其さかいとおぼゆる物から、御口(おくち)づからもれたる事なければ、如何あらん。君がかつてあらはし給ひし『やみ夜』といへる小説の主人公、うらめる男の文おこししに、憤りはむねにみちつつ、猶そしらぬ顔にかへししたたむるの条(くだり)ありき。あれこそはつつみなき御本心なるぺけれ。我がみる処あやまれるか、世人のみる処相違なきか、いかがおぼすぞ」と笑みつついふ。」
(「あなたの本性を見極めようと思って、私はこうして日頃お訪ねしているのです。あなたの言葉の中にか、あなたの身のこなしの中にか、私の考えているものと一致する所があれば、私の理論は成立するのです。世の一般の人は、『にごりえ』以下の諸作をあなたは熱涙をもって書いたものだと言っている。これは万人が万人みな言っている言葉です。しかし私が見たところで言えば、むしろ冷笑をもって書いたのではなかろうか。嘲り罵る表現の仕方を考えてみても、真正面から打ちつける嘲りの言葉もあれば、表面は笑みを含みながら、賢い人だ、善い人だと、いかにも優しそうに言う冷笑の言葉もあるのです。あなたの作品にはこの冷笑の心が満ち満ちていると思うのですがどうでしょうか。しかしまた世間一般の人が言う熱涙もないわけではありません。それは熱涙を流して泣いた後の冷笑なのだから、本当は涙が一杯なのです。仮に同情の涙をもって泣きながら書いたとしてみょう、どんなに悲し
みの言葉を並べて書いたとしても、涙がはっきり顕れるとは限らないでしょう。人間一度は涙の渕に沈むこともあるでしょうが、然しその後はどうするのですか。泣いたままで終わるわけにはいかないでしょう。あなたの世界はまさしくその境地と思われるのですが、あなたご自身の口で説明なきったこともないので、本当はどうなのでしょうか。前にお書きになった 『やみ夜』という小説の主人公のお蘭が、恨めしく思っている男が手紙をよこしたのに対して、怒りは胸に溢れつつも、そ知らぬ顔で返事を書く場面がありました。あれこそはあなたの隠さないご本心なのでしょう。私の見る所が間違っているのか、世間の人が見る所が正しいのか、どうお考えですか」
と笑いながら言う。)

つづく

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