2024年7月12日金曜日

大杉栄とその時代年表(189) 1896(明治29)年5月29日 斎藤緑雨の二度目の来訪(1) 一葉「われから」の作意、実事(密通)の有無などについて緑雨の問いかけ 問題意識の限界

 

樋口一葉『われから』口絵

大杉栄とその時代年表(188) 1896(明治29)年5月16日~28日 子規、虚子の不勉強ぶりを痛烈に非難 斎藤緑雨、一葉宅を初めて訪れる 「五月廿四日、正太夫はじめて我家を訪ふ。ものがたること多かり。」 一葉『通俗書簡文』(博文館) 「小生の顔はなんと御たてくだされ候や」(子規から虚子へ) より続く

1896(明治29)年

5月29日

一葉宅への齋藤緑雨の二回目の訪問。

この日の一葉の日記(「みずの上日記」)。

「二十九日 横山源之助来訪。はなす事長し。うちに正大夫来る。ひそかに通して座敷の次の間に誘ふ。源之助はやがて帰る。

わが近作「われから」の評、「めさまし草」「三人冗語」の間に、大いに見解を異にせる由、これにつきては正太夫の責任を明らかに、一論文をしたためて世に出さんの目論なれども、「わがいふ処尤もなるか、露伴の思ふ処当(あた)れるか、一応君が所存を聞きて、しかして我れは一文を草さんと思ふ也。よって昨日も二度まで御宅を訪ひ参らせしなれど、御来客と見えしかは、一度は帰りぬ。二度目も同じ事にていと甲斐なかりし。まづ其事とはゞや」とて、「我れから」の作意につきてとひをおこす。

「一(ひとつ)、いなりの社前に、奥方物おもひを生ずる処あり。あれは親の世よりの事につきて、明(あけ)くれ物を思ひ居り、我れもいつしか母と同じき運命に廻り逢ふ事なからずやとの念、かしこに至らぬ前より有しものならんか。

一(ひとつ)あの奥がたの性(さが゙)として、さる事常日頃おもひ居るべきにあらず。真(まこと)に偶然の出来事として描かれたる物なるべし。

といふ二つなり。この二議(ぎ)のうち、作者が当時(いま)の心は如何成しか、それによりて我が論は成立すべきにこそ、と正太夫いふ。「誠にこれは偶然の出来事なり。しかれども常々おのれも知らぬ心のそこに、怪しうひそむ物のありて、心細き感は常々有しに相違なかるべく、さて此事は偶然におこりたるなるべしといふ。正太夫、「そは困りし事かな。さては二論の中間に君は居給ふ成けり。前の説は露伴のとく処、あとなるは我が論じつる也。こは難儀なる事よと、しばしゑむ。」

(私の近作「われから」の批評が「めざまし草」の「三人冗語」で意見が分かれたこと。緑雨氏はこれについて責任をはっきりさせて論文を書き発表する計画だが、自分の考えと露伴の考えと、どちらが当たっているかを一応作者に聞いた上で書こうという。そこで昨日も二度も訪ねたのだが、一度目も二度目も来客中で甲斐がなかった。この点をまず聞きたいと言って、「われから」の創作意図について質問してくる。

一、庭の稲荷社の前で妻の町子が物思いにふける場面がある。あれは、親の代からの事を常々考えていて、自分も母と同じ運命に遭うのではないかという考えを、あの場面に来る前から持っていたのではないのか。

一、妻の町子の性格として常日頃からそう思っているはずはない。全く偶然の出来事として書かれたものであろう。

「この二つの意見のうち、作者の考えはどうであったか、それによって私の論を進めたいと思うのです」と緑雨氏は言う。

「全くこれは偶然の出来事です。しかし、常々自分も知らないうちに心の底に何かひそむものがあって心細い思いをいつも持っていたに違いないのです。そして、その上で、この事は偶然に起こったものです」と答える。

「それは困った事になったものだ。するとあなたは二つの論の中間にいるのですね。前の説が露伴の考えで、後の説が私の持論です。これは難問題だ」

と、緑雨氏はにこにこして言う。)

「第二問は、町子と書生との間に実事(じつじ)の有しやいなやなり。一方の論者はいはく、

「跡なき風も騒ぐ世に、しのぶが原の虫の声、つゆほどの事あらはれて、奥様いとどうき身に成りぬ」といふ詞あれば、彼れは正しく実事ありたる也。

といふ。されどかたがたの論者の見る処にては、

「こは作者がこと更に読者をまよはさん為に、たくみの詞をもて遊びしのみ。実事はいまだなかりしものと言はざるべからず。

といふ争ひなり。今少し行過たる説なれど、

此処二月(ふたつき)の猶豫をあたへなば、此不義かならず成立すべきなり。

ともいはるべくや。片つかたの「実事有し」といふ論者の行き過たる証(しるし)には、実事有しに相違なきも、作者は女なれば此間のこと 僅りて態(わざ゙)と暖味にせられたるものなるべし。との説もあり。君が思ひし処ハいかなるにか」と問はる。「誠にしのぶが原の虫の音に心づき給ひしこそ、我が心にてはあれ」といふに、「さては又、露伴に我れは負けにきと笑ふ。「『実事のありし』といふ方(かた)、天下の輿論(よろん)ともみなすべきさまにて、『無実』といふは天下我れ一人のみの形なり。これも『悉く実(じつ)なし」といふにはあらず。「いま二月の猶予をあたへよ。しからばまことに不義の成立をみるべし』といふの也。此度の『めざまし』には、近松が『鑓(やり)の権三』の例を引置きつれど、あれも古来実否の処たしかならず。あるものは『なし』といひ、あるものは『あり』といひ、此論容易に詮じつめがたきなり。なれども、我れをもつていはしむれば、権三おさゐ家を出てより二月(ふたつき)の間を放浪して、さておさゐは良人(をつと)の手にかゝりてしなはやと願ひ居(をり)つるをみるにも、此二月間には必らず不義の成立したりしものとみとむる也。この処を明らかにかゝざる処、作者のずるき手段にて、誠は作の巧妙なる処ともいふべく、何方(いづかた)より見るもしか見ゆる、又よかるべし。かゝる事は、作者に問ふ事をせずして、我(おの)れの見(けん)をもつて批評を試(こころ)むるこそ、誠の批評とはいふべきものなれど、我れいまだ力たらずして眼識さやかならぬを憂ひ、かく作家のもとにとふ事とは成ぬ。君としての答へには、『何方にてもよし』との給(たまふ)がこそ当れるにはあらめ」などかたる。」

(「第二の問題点は、町子と書生の千葉との間に関係の事実があったか否かという点。一方の論者(上田敏)は、『跡なき風も騒ぐ世に、忍ぶが原の虫の声、露ほどのこと現れて、奥様いとど憂き身に成りぬ』とあるから、正に事実があったのだという。然し片方の論者(大橋乙羽)の見る所では、これは作者が読者を迷わすための技巧の言葉であって、関係の事実はまだなかったと言わねばならない、という論争です。さらに、も少し立ち入った説(緑雨自身の説)ですが、あと二カ月の時間があればこの不倫な関係は必ず成立しただろうと言うのです。また、事実があったという説は行き過ぎだとする説では(露伴か?)、事実があったには相違ないだろうが、作者は女性なので、この間の事情を書くのを遠慮してわざと曖昧に言ったのだろうとする説です。あなたの考えはどうなのですか」

と問う。

「ほんとうに 『忍ぶが原の虫の音』という表現にお気づきになった所が私の本音です」

と言うと、

「そうすると私はまた露伴に負けてしまった」

と笑う。

「事実があったというのが天下の世論で、無事いうのは私一人のようです。もっとも全く無事だというのではなく、あと二カ月もすれば本当に不倫な関係になるだろうというのです。『めざまし草』には近松門左衛門の『槍の権三』の例を引いておいたが、あれもから事実があったか否かははっきりしない。ないと言い、ありと言って、容易に決定しがたい。しかし私に言わせるなら、権三と市之進の妻おさいは二カ月間も放浪した後、おさいが良人の手で死にたいと願っているのを見ると、この二カ月のうちに不倫の関係が出来たと認めるのです。この点をはっきり書かないのは作者のずるい手段ですが、本当は巧妙な所であって、どういう視点から見ても当然そう見えるのです。こういう事は作者に聞いたりしないで自分の考えで批評するのが本当の批評なのだが、私はまだ力不足で物を観る眼が弱いのを心配して、こうして作者のところへ聞きに来た次第です。あなたの答えとしては、どちらでもよいとおっしゃるのが当たっていることになるのでしょう」

などと話す。)


「君が「われから」の評、わが「めざまし」を先として、『明治評論』『青年文』『国民の友』『大陽』「帝国文学』など、いづれも書出る事となるべし。我れは近くに、かの奥方一身を論拠として一文を是非公にすべき心なり。さてこれより、君が初作よりの物ことごとくよみ見ばやと思ふ也。さて、作者と作との関係といふもの説かはやと思ふ。あながち我れが大発明者の真似をするにもあらねど」とて笑はる。雨いよいよ降しきりて、日やうやう暮んとす。「わる口の正太夫ぬしに参らする物は無けれど、又笑はれの材料に、柳町のすもじにてもさし上ばや」と笑へは、「いないな、何も給はる事はすまじ。ゆふペ、さる処にて少し色気のなきわづらひをしつれば」とて辞さるゝに、「さらば参らすまじ」とて、又はなしに移る。「一昨日の夜は、十一時頃より露伴と君が作を論じて、四時に及びて猶々其論尽きがたかりし。いつも、君の作につきては争論此間に起る也」などかたらる。「君は此頃、博文館の為に『書簡文」とかや、『文反古』のやうのもの作り出給ひしよし、それは誠か」ととはる。「『百科全書』の十二編として、『書簡文』かきつるは誠なれど、「文反古』などいひて小説めかしきものには非ず」といへば、「されども君の書き給へるには相違なきなるべし。さらば面白き事、直ちに帰りて拝見すべし。乙羽庵のいへるに、『通俗書簡文と題はおきたれど、終りのかたは純然たる小説なり』と語りたれど、何の彼の男が批評眼と、さのみ心にとゞめざりしなれども、君のものし給へるとならは、必らず拝見すべきものなり。いと面白かるべし」とて笑はるゝに、「いな、見給ふは嫌なり。ゆるし給へ」と侘(わぶ)るを、をかしげに見やりて、「さもあらばあれ、もはや印刷に付して世に出し給へるなれは詮なし。書店にて売居る以上は致しかたなかるべし」とて又笑ふ。」

(「あなたの『われから』に対する批評は、この『めざまし草』を初め、『明治評論』、『青年文』、『国民之友』、『太陽』、『帝国文学』などが、どれも取りとげて書き出すでしょう。私は近々、妻の町子に焦点をあてて書いたものを発表するつもりです。そして、これからはあなたの最初の作品から全部を見たいと思うのです。そして作者と作品との関係を論評しょうと思うのです。何も私が新しい文学論を発明しようというつもりはないのですが」

と言って笑っている。雨は益々ひどくなり、日もようよう暮れようとする。

「口の悪いあなたにさしあげるものは何もないのですが、またお笑いの種に柳町の鮨でもさしあげましょう」

と笑うと、

「いや、いや、何も頂きませんよ。昨晩ある所で少し色気のない病気になりましたので」

と辞退なさる。

「では、何もあげませんよ」

と言って、また話に移る。

「一昨日の夜は十一時ごろから、露伴とあなたの作品について議論し、四時になっても終わらなかった。いつもあなたの作品については議論が起こるのです。・・・あたなは此頃博文館から書簡文とかいう書簡体小説集のようなものを出されたとか、本当ですか」

「百科全書の第十二冊目として書簡文集を書いたのは本当ですが、書簡体小説集というものではないのです」

「しかし、あなたがお書きになったのには違いないでしょう。それなら面白い事だろうから、すぐに帰って拝見しょう。大橋乙羽庵は、『通俗書簡文』と題はつけてあるが終わりの方は純然たる小説だと話していたが、なあに、あの男の批評眼は当てにならないと気にもとめていなかったが、あなたがお書きになったのなら、是非とも拝見しなければならない。きっと面白いだろう」

と言って笑っている。

「いいえ、そんなことはありません。ご覧になるのは嫌です。勘弁して下さい」

と、私が困っているのを、可笑しそうに見ながら、

「それはともかく、既に印刷して世にお出しになったのだから仕方ないでしょう。本屋で売っている以上

はどうにもならないのですよ」

と言って、また笑っている。)


〈一葉・緑雨の問題意識の限界〉

「われから」は、金村恭助の妻町子が書生の千葉とねんごろになり夫に離縁される話。

これは、明治25年に改新党代議士島田三郎夫人政子が書生との仲を云々され、家付の娘であるのに離縁された事件を題材にしている。政子は萩の舎に通っていて、一葉は政子と話し合ったこともあり詳細を知悉していた

正太夫との間の問題は、夫人の母が同様の事件を起しているのを心にかけて、そうした行為に走るようになったものか、夫人と書生との間に事実上の姦通があったかどうかの二点。

この問題も、物語の構成上、重要な論点ではあるが、この作品の最も考えるべき点は、夫の不行跡は社会的な問題にならず、妻の過失のみが問題となる、そうした社会的不平等を一葉がどう考えているかという点である。

しかし、緑雨と露伴の間にも、一葉と緑雨の間にも、その点が全く論議の対象になっていない。「われから」の終末に、「美事捨てて此家を君の物にし給ふお気か、取りて見給へ、我れをば捨てて御覧ぜよ、一念がござりまする」といふ科白があるが、社会的未成熟の所為か、このあたりが全く論点にもならなかった。


つづく

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