2024年7月13日土曜日

大杉栄とその時代年表(190) 1896(明治29)年5月29日~31日 斎藤緑雨の二度目の来訪(2) 緑雨の人物評 「この男かたきに取てもいとおもしろし。みかたにつきなば猶さらにをかしかるべく、眉山、禿木が気骨なきにくらべて、一段の上ぞとは見えぬ。逢へるはただの二度なれど、親しみは千年の馴染にも似たり。」

 

齋藤緑雨全集第一巻

大杉栄とその時代年表(189) 1896(明治29)年5月29日 斎藤緑雨の二度目の来訪(1) 一葉「われから」の作意、実事(密通)の有無などについて緑雨の問いかけ 問題意識の限界 より続く

1896(明治29)年

5月29日

斎藤緑雨の二度目の来訪(つづき)


「正太夫としは二十九、痩せ姿の面(おも)やうすご味を帯びて、唯口もとにいひ難き愛敬あり。綿銘仙の縞がらこまかき袷に、木綿かすりの羽織はきたれど、うらは定めし甲斐絹なるべくや。声ひくなれど、すみとほれるやうの細くすずしきにて、事理(じり)明白にものがたる。かつて浪六がいひつるごとく、かれは毒筆のみならず、誠に毒心を包蔵せるのなり、といひしは実に当れる詞なるべし。世の人さのみはしらぎるべけれど、花井お梅が事につきて、何がしとかやいへる人より五首金をいすり取りたるは此人の手腕(はたらき)なりとか。其眼(そのまなこ)の光りの異様なると、いふことごとの嘲罵(てうば)に似たる、優しき口もとより出ることながら、人によりては恐しくも思はれぬべき事也。「われに癖あり、君がもとをとふ事を好まず」と書したる一文を送られしは、此一月の事成き。斯道熱心の余り、われを当代の作家中ものがたるにたるものと思ひて、諸事を打ちすて訪ひ寄る義ならば、何かこと更に人目をしのびてかくれたるやうの振舞あるべきや。「めさまし草」のことは誠なるべし。露伴との論も偽りにはあらざらめど、猶このほかにひそめる事件のなからずやは。思ひてここにいたれば、世はやうやうおもしろく成にける哉。この男かたきに取てもいとおもしろし。みかたにつきなば猶さらにをかしかるべく、眉山、禿木が気骨なきにくらべて、一段の上ぞとは見えぬ。逢へるはただの二度なれど、親しみは千年の馴染にも似たり。当時(いま)の批評壇をのゝしり、新学士のもの知らずを笑ひ、江戸趣味の滅亡をうらみ、其身の面白からぬ事をいひ、かたる事四時間にもわたりぬ。「暮ぬれば」とて帰る。車はかどに待たせ置つる也。」

(斎藤緑雨、としは二十九歳、痩せ形で、顔つきは凄味があるが、ただ口元には何ともいえない愛敬がある。木綿の銘仙の細かい縞柄の袷に、木綿絣(かすり)の羽織は着ているが、裏はきっと甲斐絹であろう。声は低いが澄み透るような細く涼しい声で物の道理をはっきりさせて話す。かつて村上浪六が、彼は毒筆であるはかりでなく毒心を内蔵している者だと言ったのは、実によく言い当てた言葉であろう。世の人はあまり知らないだろうが、花井お梅の事件の事で何某とかいう人から五百円をゆすり取ったのはこの人の腕だとか。その眼の光が異様であり、言うことがすべて嘲りののしる言葉であり、しかもそれが優しい口元から出るとは、人によっては恐ろしく思われるのは当然のことだ。「われに癖あり、君がもとを訪ふ事を好まず」と書き送ってきたのはこの一月の事でした。文学に熱心のあまり、私を今の作家の中で語るに足る者だと思って、万事を差し置いて訪ねて来ようと言うのなら、何も人目を避けて隠れて振る舞う必要があろうか。「めざまし草」の事は本当であろう、露伴との論争も嘘ではないだろうが、まだこの他に隠れたことがないとは言えない。こんな事を考えると、世の中はますます面白くなってきたようだ。こゐ男は敵に廻しても面白いし、味方に付けたら一層面白いだろう。眉山や禿木が気骨がないのに比べて、一枚上の男と思われた。逢ったのはただの二度だが、千年の馴染のような親しみを覚える。現今の文壇の有様を罵り、新学士が無知なことを笑い、江戸情緒の滅びゆくのを恨み、また自分自身のつまらなさなどを話し続けることが四時間にも及んだ。日暮れになったからと言って帰る。車は門口に待たせてあった。)


緑雨は一葉の作品を研究し、その作品に魅せられ、一葉と会うことにより一葉に心を寄せるようになる。また、一葉のほうも緑雨を特別な人物と見始めている。

5月30日

第9議会で戦後経営予算が通過し、終了後のこの日、陸奥は結核治療に専念するため外相辞任。西園寺臨時代理が正式外相となり、従来の文相も兼任。

5月30日

この日付け馬場孤蝶宛て書簡。無沙汰と「うらわか草」に新作を出せなかったことを詫び、体調の悪さを訴える(1月に孤蝶に会って以降、微熱と倦怠感が次第に増してきたと訴える)。

「私は日々考へて居り候。何をとの給ふなただ考へて居るのに候。大底の人に思ふ事をうち明けたとて笑ひごとにされて仕舞ふべきに候まゝ私は何もいはぬ方が酒落て居ると独りぎめにして居り候。」"

5月30日

(露暦5月18日)ホドゥーインカの惨事。モスクワ北西部ホドゥーインカ原で、ニコライ2世即位記念の贈り物の分配に群集殺到。死者1389、負傷1300。

5月31日

榊原家に仕える長瀬いさ子の友人、中沢ぬひ子が入門。入門礼金として50銭送られる。母が、今月から返済開始となる金を菊池隆直の許に持参。


つづく


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