2012年10月4日木曜日

長保元年(999)11月1日 道長女彰子が入内し、和歌屏風が作られる。

東京 北の丸公園
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長保元年(999)
11月1日
道長女彰子が入内し、和歌屏風が作られる。
午後6時、彰子一行は西の京の連理邸を出発。
これを送る公卿は、大納言源時中(彰子の外叔父)以下12人。
藤原実資は、「末代の公卿、凡人に異ならず」(末代(末世)の公卿は一般人と変わらない扱いを受ける)と日記に嘆く。実頼の孫で小野宮流の藤原公任が、検非違使別当という取締りの元締めの重職にありながら、西の京と一条院を往復して世話を焼いたことが気に障ったらしい。
一行の公卿12人は牛車に乗り、多くの従者を従えていたと推測され、殿上人の数もそれを上回るものであったと思われる。
彰子自身は、女房40人、童6人、下仕(しもつかえ)6人を従えている。盛装の女房4人までは1車に乗れたといわれるので、女房の車だけでも10輌になる。

彰子に従う女房たちは、「いみじう選りととのへさせたまへるに、かたち・心をばさらにもいはず、四位・五位の女(むすめ)といヘど、ことに交らひわろく、成出(なりいで)きよげならぬをば、あへて仕うまつらせ給ふべきにもあらず、もの清らかに、成出よきをと送らせたまへり」(『栄花物語』「かがやく藤壷」)と、厳しく人選された。
定子の女房が何人だったか不明だが、この時の40人は、以後妍子・威子など入内、東宮参入時の基準となった。
この時はまだ紫式部は彰子の女房として出仕していないようだが、この定子と彰子を中心とする女房のサロンが、王朝文化の最高点であった。

行列が一条院内裏に到着すると、ここで彰子に輦車(てぐるま)の宣旨というのが下される。
宮城内へ乗車のまま入ることを許可する宣旨で、輦車は、輿に車をつけ、正装した従者がこれを引く車のこと。これに乗って内裏の門を出入することを許された。
こうして彰子が完全に入内を終えて自分の部屋に落ち着いたのは、午後10時だったという。

内裏に参入するということは、天皇を婿に迎えるところを、天皇は内裏を離れられないので、内裏の中に家の出張所を作ってそこに天皇を迎える形になる。
従って、内裏内の彰子の室の設備は、道長が世話をし、彰子付きの女房たちも道長の側で一切準備することになる。

和歌屏風
『栄花物語』「かがやく藤壷」の冒頭。

「屏風よりはじめ、なべてならぬさまにし具せさせたまひて、さるべき人々、やむごとなき所どころに歌は詠ませたまふ(中略)。大殿やがて(即座に)詠みたまふ。また花山院詠ませたまふ。
また四条の公任宰相など詠みたまへる、藤の咲きたる所に、
紫の雲とぞ見ゆる藤の花いかなる宿のしるしなるらむ
また、人の家に小さき鶴ども多くかいたる所に、花山院、
ひな鶴を養ひたてて松が枝の蔭に住ませむことをしぞ思ふ
とぞある。多かれど片端をとて、書かずなりぬ。」

絵は大和絵の第一人者飛鳥部常則(『源氏物語』にもみえる)によるもの。この時既に常則は没しており、道長はこの日のためにかねて用意しておいたと考えられる。

道長はこの屏風のために多くの人々に作歌を依頼し、主人の道長のほか、花山院、藤原公任、藤原斉信、源俊賢、藤原高遠など公卿層が和歌を奉り、道長が撰定して決定した。
そして道長の命をうけた行成は、公務のあい間をぬって数日かけて、彰子のいる西京二条の太秦連雅宅へ出向いて色紙形に和歌を清書した。

『小右記』によると、この時道長は公卿と非参議の歌人に題を与えて和歌を求めたらしい。
中納言実資にも再三の催促があったが、歌を奉らなかった。それは、実資に歌才が乏しかったためだけでなく、「上達部、左府の命に依りて和歌を献ず。往古聞かざる事なり」と記し、花山法皇にいたっては論外だと批判している。
公任は検非違使別当という特別の職なのに道長に追従して、実頼一門の恥だと痛憤し、また公卿が名前を色紙形に記したのも「後代己に面目を失ふ」とあきれている(花山院はさすがに「読み人知らず」と書かれた)。
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11月7日
・従三位藤原彰子を女御と為すという宣旨が下る
その夜、天皇は初めて彰子の直廬(じきろ)へ渡御(とぎよ)し、道長以下多数の公卿が迎えて盛宴を張った。
藤原実資もこの時は列席したが、管絃あり歌舞あり、一同大酔し、夜、天皇を送ったあと、道長は実資の手を取って彰子の室に戻り、数々の豪華な衣裳や調度を見せたという。

彰子の室は一条院の東北の対屋であって、正式の内裏になぞらえて藤壷と呼ばれた。
天皇の御座所は一条院の北の対であったらしく、寝殿(正殿)は紫宸殿にあてられていたと思われる。
他の女御の室は西の対にあったようである。
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11月7日
・中宮定子、待望の第一皇子、敦康(あつやす)親王を産む。
第一皇子誕生とあって天皇の喜びも大きく、彰子の入内も無事終わったこともあり、道長もなにくれとなく世話した。しかし、定子と彰子では既に勝負はついていた。
敦康親王は、聡明で、人柄も評判よく、天皇にも道長からも大切に扱われ、定子歿後は中宮彰子が面倒をみたが、後見の不足のため、3回にわたって東宮に立つ機会を逸し、寛仁2年(1018)12月、20歳で没す。
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12月9日
・常陸介平維叙は、主従関係を結んでいた藤原実資を介して、従弟の平維幹(これもと、常陸大掾氏の祖)が花山院の年給に預かることを依頼(『小右記』長保元年12月9日条)
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12月15日
・法家勘申に任せて行なうことを公卿が陣定で定める。
維衡・致頼両名死罪との内容と思われる。
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12月27日
・最終的に致頼は位階を剥奪、隠岐に還流、維衛は五位を帯しながらの淡路への移郷と定まる。
27日検非違使の官人により配流が行われ、致頼は肱禁(こうきん、罪人の両ひじを綱で結びつけておくこと)のうえ、維衡は肱禁なしであった。罪に軽重があったのは、致頼側が先に兵を動かした、維衡が過状を提出したのに致頼は拒否した、などの理由による。


天皇は道長に維衡等を遠流にすることを問い、道長は「遠所に遣(つか)はすべき人々の事、ただ叡慮に在り」と天皇の決定のままと答え、さらに維衡については位階を奪わない移郷にしたいとの天皇の意向について、参入した右大臣顕光は、移郷については配所の決定のため陣定を行なう必要あるが、参入した公卿が3人と少なく憚りがあると言っている(『権記』)。

死罪の勘申、決定を最後の段階で天皇が「殊に思しめすところあり」と叡慮で減刑して(勅による死刑減刑は律にも規定がある)、遠流+迫位記(除名じよみよう)とするのがこの時代の慣例。
薬子の変以降、平安時代を通じて死刑は執行されなかったが、律の規定通り死刑の判決は多く下されていた。
また移郷のためあらためて陣定が必要ではと顕光が考えていることも、陣定の重要性を示している(この時は検非違使別当である公任と2人で定めるのなら問題ないということになった)。

長保3年(1001)致頼は召し返され、翌年本位に復する。維衡の方も程なく召還されたと考えられる。
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