2024年7月30日火曜日

大杉栄とその時代年表(207) 1896(明治29)年10月1日~31日 台湾総督(桂太郎→乃木希典) 漱石、転職の気持ちを持ち始める 一葉、青山胤通の診察を受ける 雲龍寺に栃木・群馬県鉱毒事務所設置

 

雲龍寺

大杉栄とその時代年表(206) 1896(明治29)年9月9日~28日 一葉最後の外出(萩の舎9月例会) 漱石、正七位に叙せられる 土光敏光・ 村山槐多生まれる 第2次松方正義内閣 より続く

1896(明治29)年

10月

台湾、田中長兵衛(釜石鉱山田中製鉄所)・藤田組、夫々金瓜石・瑞芳各金山の採掘権を得て、牡丹坑金山(1897年発見)を入手した木村組とともに、台湾銀行による資金供給・産金買収契約に支えられつつ拡張を重ね、1902年には同行への売却高が100万円台に達する。台湾産金は朝鮮産金と並んで日本の金本位制を支える。

10月

台湾総督桂太郎、在任5ヶ月で辞任。この月、中将乃木希典が新総督に就任。「朝日新聞」は、すぐにも赴任しょうとする乃木が、「余不日台湾に渡らば先ず土匪を征伐せんよりは暴官汚吏を征伐せん」と知人に語ったことを伝え、「此決心あり統治初めて庶幾すべし」と、乃木に期待。

10月

「宮内大臣」(雑誌「二十六世紀」21号)。山県系の(大隈らへの)反撃。

宮内大臣(明治20年9月~)土方久元と伊藤博文の関係を取り上げ、「土方伯は宮内省に坐して、常に伊藤侯その人の顔色を伺い、指縦を受けて、しこうして事を執り来らざるか。今公けの秘密として民間に伝え、人々の知らざるなき事実の二、三例を列挙せんか」と宮内省の疑惑を指摘。疑惑は、伊藤だけに天皇拝謁を取り次ぐような専断、日清戦争の功労で土方が伊藤の為に恩賜金10万円を奏請し、伊藤は土方の5万円を奏講するような馴れ合い、宮内人事の私物化、皇室御料鉱山・御料林原野の払下げにの問題など。新華族への下賜金100万円を捻出する為、宮内省御料局管轄の佐渡金山・生野銀山・大阪精練所を民間に払い下げる計画は根拠薄弱と、佐渡金山などの現場はこれに反対している事実を挙げる。

東西「朝日」も、岩村通俊御料局長が4月末の帝室経済会議へ提出した3事業所の収支計算書が実際を隠した変造書類で宮内省でも大問題になったこと、払下げ反対の3事業所の関係技師が辞表を懐に、土方を面詰したことを伝え、さらに数回ずつ長文の反対論を掲載。

宮相土方久元が伊藤博文と結び宮中を壟断していると土方を攻撃。土方が、老臣中反長閥とみられる大隈・谷干城(貴院懇話会)・曾我祐準(同上)らを天皇を不当に中傷したとして非難。

10月

漱石、転職の気持ちを持ち始める


「十月にはいると、金之助は岳父中根重一にあてて、ふたたび転職依頼の手紙を書いた。

金之助はあらためて自分の教師としての適性を疑いはじめていた。それに東京在住は、もともと中根家から持ち出された結婚の条件でもあった。・・・・・

中根からいって来たのは、外務省の翻訳官の口である。・・・・・

しかし金之助がこの報告に逡巡を示したのは、いざ具体的な話がはじまってみると、急に外務省勤めが自分に向いていないような気がしはじめたからである。彼には法律の知織もなく、外交文書の慣用文をあつかった経験もなかった。三十歳になんなんとする男が、ようやく専門的な機構を整備しつつある明治の官界で方向転換をするのが容易ではないことを、彼は切実に思い知らされずにはいられなかった。しかも彼は、自分がいったいなにを欲しているのか、明確に知っているというわけでもなかった。」(江藤淳『漱石とその時代1』)


「この前後、漱石は、帝国図書館なるものができるようだが、そこへ就職できぬかと中根重一に依頼する。中根重一は、文部次官牧野伸顕に会って事情を聞いたところ、第二次松方正義内閣成立(九月十八日(金))の直後で、どうなるやら夢のような話だという。その旨を伝えてくる。」(荒正人)


10月

一葉、青山胤通の診察を受ける。

斎藤緑雨の連絡を受けた鴎外の働きで一葉は青山胤通の診察を受ける。妹邦子は、この時に初めて病名が結核であることを知らされ、治癒の手段を尽くしても回復は絶望的と聞かされた。家族は入院させたいと言ったが、青山医師は最早無効だと断じた。

10月1日

川崎造船所(のちの川崎重工業)、設立

10月5日

田中正造、群馬県邑楽郡渡瀬村早川田雲龍寺(鉱毒激甚地のほぼ中央)に栃木・群馬県鉱毒事務所設置。

雲龍寺は、さらに足尾銅山鉱業停止請願事務所として栃木、群馬、埼玉、茨城の4県鉱毒被害民の闘争本部となる。また、明治34年(1901)12月28日、三つ作られた足尾鉱毒被害者救済施療所「救現堂」の一つが雲龍寺にも設けられた。

10月5日

一葉、小原与三郎から原稿「霜夜の月」を博文館に送ってくれたことを感謝される。

10月11日

孫中山、ロンドンにて清朝官憲に拘束

10月11日

オーストリア、作曲家ブルックナー(72)、没。シェーンブルン。

10月12日

松方首相、地方長官会議で、新施政方針を明らかにする。戦後経営の眼目である軍備拡張、教育、産業振興、人材登用、言論・出版・集会の自由の保障を盛り込む。

翌月、内閣の試金石となる「二十六世紀事件」が起きる。

10月14日

石阪昌孝辞任を受けて衆議院議員補欠選挙。森久保作蔵と青木正太郎が争う。森久保、初当選。

10月15日

川崎造船所(後の川崎重工業)設立

10月16日

東武鉄道㈱、設立

10月17日

チェーホフ「かもめ」、サンクトペテルブルクで初演

10月23日

第一次エチオピア戦争、エチオピア帝国の勝利で終結

10月26日

鷗外、子規庵句会へ二度目の参加。この日の参加者は碧梧桐、把栗、子規、鷗外、虚子、秋竹、露月、鳴雪である。鷗外の句は「水落す音に寐心よき夜かな」。(「句会報」)

10月26日

伊東夏子からの手紙で一葉の病状が絶望的であることを知った副島八十六が見舞いに来る。妹邦子が応対し、病状を知る。

10月28日

有明文吉より北里博士に診て貰うことを勧められる。

10月29日

アルバート・アインシュタイン、チューリッヒ連邦工科大学入学資格を与えられ、チューリッヒに転居。学友は、マルセル・グロスマン、ミレーヴァ・マリッチら。高等学校で教える資格を得るための教職コースで勉強を始める。

10月31日

ゴンパーズの書簡。高野房太郎(27)が運動に参加できないことに遺憾の意を表し,機会が来たら活動を始めるように勧告

10月

田山花袋、初めて渋谷村に国木田独歩を訪ねる。11月末にも訪れるが、独歩は留守で、机上にあった発行されたばかりの四迷「かた恋」を読みふける。独歩は四迷に影響されて「武蔵野」を書く。


つづく


0 件のコメント: