2024年7月21日日曜日

大杉栄とその時代年表(198) 1896(明治29)年7月4日~12日 東京美術学校西洋画科が設置(黒田清輝) 漱石、教授(高等官六等、月俸百円)となる 一葉の許に緑雨来訪 与謝野鉄幹(23)第1詩集「東西南北」 一葉の許に横山源之助来訪 「(緑雨のことを)さ計の悪人とはみえざりき」という          

 

与謝野鉄幹『東西南北』

大杉栄とその時代年表(197) 1896(明治29)年6月21日~7月2日 一葉家族の家計逼迫 嫌っていた春陽堂から予約金を受け取る 「此月、くらしのいと侘しう、今はやるかたなく成て、春陽堂より金三十金とりよす。人ごゝろのはかなさよ。」 一葉、この頃から高熱続く 渡良瀬川大洪水 朝鮮で独立協会結成(徐載弼ら) より続く

1896(明治29)年

7月4日

一葉が先月30日に野々宮菊子に頼んでおいた着物を野々宮が持参。伊勢崎銘仙一疋で8円60銭

7月6日

一葉、奥田栄に対して42円の預り証を渡す

7月8日

東京美術学校(後、東京芸大)、西洋画科が設置。フランス帰りの黒田清輝を嘱託教員に、若手の藤島武二・岡田三郎助・和田英作を助教授に迎える。創立当初は応募者少ない。大正2年(100人)、14年(200)、昭和5年(400超)。町には太平洋画会研究所・川端画学校・同舟舎など民間画学校ができ美校予備校の役を果たす。

この年、黒田清輝・久米桂一郎ら、「明治美術会」から独立し「白馬会」創立。明治美術会(1889年結成)は明治10年代からの国粋主義・洋画排斥運動に抵抗、啓蒙しようとして洋風美術家が大同団結し活躍するが、欧州から帰国した黒田・久米らを中心とした新思想派と小山正太郎らの既成勢力である旧思想派の対立が激しくなり分裂。白馬会の作家達は、光のあたる部分に黄・明るい緑・赤系統の色を使い、また、影の部分にも光の反映を認め紫系統の色を使用し、見たままの自然を明るく描写する外光派的な写実主義で社会的に大きな反響を与えた。その紫系の色の多用により、白馬会は「紫派」と呼ばれる。対して、明治美術会の作家たちは、脂(やに)色を主調とし,陰影を暗黒色にしたので「脂派」と呼ばれる。白馬会は美校主流となる

7月8日

漱石、子規に句稿その十五を送る。

7月9日

漱石、講師から教授(高等官六等)となる


「七月九日付で、金之助は講師から教授(高等官六等)に昇任した。月俸は百円であるが、その一割にあたる十円は建艦費として天引きれた。これは明治二十六年(一八九三)二月十日の、向後六ヵ年内廷費を節約して年間三十万円を海軍拡張のために下附し、文武百官も特別の情状あるものを除いて、同じ期間中月俸の十分の一を返上して建艦費にあてるべきこと、という詔勅の趣旨に添ったものである。この年海軍は、甲鉄戦艦四、一等巡洋艦四を根幹とする新鋭艦隊の建造を目標に、第十一回拡張策を帝国議会に提出していた。スエズ運河を通過できない巨艦をつくって欧州からの侵攻を阻止することが、日清戦争以後、三国干渉の圧迫の下にあった政府の戦略思想の基本をかたちづくりつつあった。

手取り九十円の月俸のなかから、さらに金之助は、例によって七円五十銭を文部省貸費の返済分に、十円を父夏目小兵衛直克への仕送りにあてていた。それに加えて彼は、異母姉高田房にも月三円の仕送りをはじめた。高浜虚子に送っていた学費は、彼が大学撰科入学をとりやめたので数ヵ月で打ち切られ、その額もあきらかでないが、おそらく月二十円の本代のなかから捻出されていたものと思われる。つまり新夫婦が生活費としてつかうことのできる金額は、月に四十九円五十銭であった。当時中学教員の平均給与は二十四、五円、巡査の月給は十六円だったから、まず中の上程度の、幾分かは余裕のある生活である。」(江藤淳『漱石とその時代1』)

7月9日

一葉、谷中の田中みの子を訪ねるが留守であった。一葉の留守中に緑雨が来訪。病気であった由で、痩せていた人が骨ばかりになって玄関に立ったという。


「九日 谷中に田中ぬしをとひしが、留守成しほどに、正太夫来訪したりし由。「いたく煩ひて、生死おぼつかなきやう成しかば、つひにかくは打おこたりて参らざりき」とて、さらでも痩せたる人のいとゞしく骨計に成(なり)つ、人らしき色もなくて来つる由。「明日は姉も在宅なるぺければ」と国子のいひしに、「あすは参りがたかるべし。又そのうちにこそ」とて帰られしとか。あかず口をし、と我れはおもふ。」

7月10日

夜ふけ、緑雨がまた来訪。腸を患って2週間ほどほぼ絶食していたとのことでやつれようがひどい。「国民新聞」のことで噂の出所を探っていたという。


「よもとおもひしに、其明けの日、夜ふけて来訪されき。げに国子のいひつる如く、声などもいと力なく成りて、消えん計の有さま、いたましうみえぬ。「何をか病み給ひし」ととへば、「腸の痛みはげしくして、やうやう注射に日を送りつ。絶食成しこと、ほとほと二週日(にしゆじつ)」といふ。「まだいと弱げにおはすなるを、表に出給ひてよかるべきか」と危みて問へば、「医師よりはまだ外出とどめられて居るなれど、いと怠屈のたへがたければ、きのふよりかゆの湯少しゆるされたるを喜びて、かくは出ありく成り」といふ。 

物がたりは『国民新聞』のこと成き。はじめ、正太夫わがもとをたづねつゝ、「さて此風説いづこより立出づ覧(らん)、さて其風説(うはさ)はいかなるかたちしてか、と試みつるなり」といふ。我れは「秘密」といはれしを守りて、つひにしたしう出入るたれかれにも物がたり聞えざりしかば、われしるほどの人より此うわさ聞え出づべきにもあらず。正太夫はた、鴎外君(おうぐわいぎみ)、露伴ぬしなどよりほかにえもらし聞えぬ事なれば、「『何方(いづく)よりかは立(たち)いで来(こ)ん。さは試みの矢射出さばや』とて、去月(きょげつ)の十四、五日のころや、『国民』の松原といふにその事いへるなり」といふ。「さて、それよりは此かたち大きう成て、此月はじめの『早稲田』にても抜すいしつ。やうやう此沙汰ひろまるペし」となり。「用なき事を」と我れは思ヘど、此人のこゝろには、かゝるはかな事もをかしきにやあらん、「保守派に於てもことにかたくなゝる物にいひ居らるゝ我れの、新派中随一の全盛を極めらるゝ御もと訪ひ寄たるなれば、人はさだめしことやうに感じて、いかさまにかとりなすらん。いとをかしう」と、此人はいひ居る。

いとむづかしき問題をもとり出さるれど、又ことごとく打とけたる身の上はなしなども多かり。「このわづらひせしにつけて、家(うち)といふものなからんは侘しかるペしとおもひ成ぬ」などいはれき。此夜も更けてかへる。」

(話は国民新聞のことでした。初め緑雨氏は私の家を訪ねながら、この噂は何処から出るのか、どんな形で伝わるのかを試していたのだと言う。私は秘密だと言われたのを守って、親しく交際している人たちにも話していないので、私を知っている人から漏れる筈はない。緑雨氏も鴎外や露伴以外には漏らしていないので、噂の立つところがない。緑雨氏は一つ試してみようと、先月の十四、五日ごろ、国民新聞の松原という人に話してみたという。さてそれ以来、この話は大きくなり、今月始めの「早稲田文学」に話の要約が載ると、それからどんどん拡がっていったと言う。つまらない話だと私は思うのだが、この緑雨氏にはこんな取り柄もないことも面白いのだろうか。

「保守派の中でも特に頑固者と言われている私が、新派の中でも一番全盛のあなたをお訪ねしたのだから、人々はさだめし不思議に感じて、どんな噂を作り出していくのだろうと思うと、本当に面白いことだ」

とこの緑雨は言うのでした。

他にむずかしい話もあったが、反対に全く打ちとけた身上話なども多かった。

「今度のような病気にかかってみると、やはり家がないということは侘しいことだと思うようになりましたよ」

などと話された。この夜も更けてから帰る。)

7月10日

与謝野鉄幹(23)、第1詩集「東西南北」(明治書院)発行。鴎外・直文・子規らの紹介文。8月大町桂月「「東西南北」を評す」(「帝国文学」)で絶賛。

7月11日

午前10時頃、横山源之助御来訪。緑雨を訪ねたところ、皆が言う程の悪人とは思えないと言う。昼食を共に食べ、2時過ぎに帰る。小原与三郎来訪。


「十一日 横山来訪。「正太夫のもとを訪ひたる」由かたる。「君は緑雨しり給へる由。かの人には我れはじめて蓬へるなれど、かねて聞けるには似もやらず、さ計の悪人とはみえざりき」などかたる。午前十時ごろよりして、ひる飯ともにしたゝめぬる後、二時過るまでありて帰る。」


7月12日

樋口勘次郎、再度来訪。

「その受けもてる小さき子達の写真もて来てみせなどす。かたる事もさのみはなき上、けふは人々のけい古日なれば、其由いひて断りいふ。しばしにて帰る。」

(その受持ちの小さな子供たちの写真を持って来て、見せたりした。話すこともそれほどない上、今日は人々の稽古日なので、そのことを言って断った。しばらくして帰った。)


「けふ、思ひがけず坂本君来訪。野尻ぬしの不意にとひ来しはあとの月成しが、けふも猶とひ来て家にあるはどなり。「こはめづらしき人々の会合よ」と、一同喜びてもてなしす。

けい古に来つるは、野々宮、三浦の両君なり。木村ぬしはみごもりつ。安井君は、海外留学出発の期迫れるに、語学専門にならはるゝ頃とて、此日頃打たえられしなり。

榊原家侍女たちより、中元のおくりものおこさる。江間よし子も同じこと。

此ほど、博文館の義けん小説中に、随筆やうのもの書けり。いとあわたゞしうて、みぐるしかりしか。」

(今日は思いもかけずに坂本三郎氏が訪ねて見えた。野尻理作氏が然訪ねて来たのは先月でしたが、今日もまた訪ねて来て、ちょうど居る時でした。これは珍しい人たちが一緒に集まったことよと、皆喜んでおもてなしをする。

椿古に来たのは野々宮菊子、三浦るや子さんの二人だけ。木村銀子さんは妊娠され、安井哲子さんは海外留学の出発が近いので、専ら語学を勉強中のため、このところずっと見えていない。

榊原家の侍女たちから中元の贈り物をいただく、江間よし子からも同じ。

このほど 「文芸倶楽部」臨時増刊の「海嘯義捐小説」に随筆らしいものを書いた。慌てて書いたので見苦しいものになってしまった。)


7月12日

ローザ・ルクセンブルク、パリで社会主義のリーダーたちと出会う。

27日~8月1日、ロンドンのインターナショナル第4回大会に正式代表として初めて出席。 


つづく


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