2024年7月17日水曜日

大杉栄とその時代年表(194) 1896(明治29)年6月8日~10日 漱石、熊本の借家で結婚式 山県・ロバノフ協約 原敬(40)、外務次官→特命全権公使(朝鮮国駐箚) 

 

大杉栄とその時代年表(193) 1896(明治29)年6月2日~7日 6月2日付け一葉日記(3) 「(緑雨は)たゞ天然にすねたる生れなりぬべきやも計られぬを、例の弱きもの見過しがたき余り、いと物がなしくながめらる」(一葉日記) 東京美術学校西洋画科発会式(根津神泉亭) より続く


1896(明治29)年

6月8日

夕刻、中根重一と鏡が到着するので、漱石、上熊本停車場迎えに行く。二等待合室で新聞を読みながら待つ。汽車が新いたと思っていると、中根重一と鏡が現れる。「家に参りませんか」と誘うと、中根重一は「いやあ、いろいろ仕事もあるし、今日は又疲れてもいるから、いずれ改めて…」といって別れる。中根重一と鏡は、旅館研屋(熊本市船場町下1丁目8番地、現・熊本市船場下1丁目8番地。現在、旅館研屋、とぎやホテルの呼称を併用)に泊る。

6月9日

漱石、熊本市下通町に家を借り直した家で、結婚式をあげる。


「鏡子は父に伴われて、六月八日に熊本に着いた。鏡子によると漱石の借家は二度目の、市内光琳寺にあり、母屋が十畳、六畳、長四畳に湯殿と板蔵、離れは六畳と二畳だった。式はこの離れで行われ、新郎・新婦と中根の父以外は客は誰も呼ばず、服装も漱石だけが一張羅のフロック・コート、鏡子は持参した振袖で、父は着て行った背広、手伝いの婆やと人力車夫が給仕のかたわら客の代理を務めたという。三三九度の盃が一つ足りず、結婚後かなり時を置いて、鏡子が漱石にそれを話したところ、彼は道理で喧嘩ばかりする夫婦が出来上がったはずだと笑ったそうだ。」(十川信介『夏目漱石』(岩波新書))


製艦費として月額十円、月給の十分の一、貸与金(奨学金)の返済月額七円五十銭、父直克への仕送り月額十円、姉ふさ(房)への仕送り月額三円のほか、書籍代月額約二十円を差し引くと月額五十円足らずが家計費である」(荒正人、前掲書)

「子規には結婚式の翌日《中根事去る八日着昨九日結婚略式執行致候》と知らせ、

衣 更 へ て 京 よ り 嫁 を 貰 ひ け り

という句を添えた。同時に東京の斎藤阿具と狩野亨吉にも同じような手紙を出した。子規からは折り返し、

秦 々(しんしん)) た る 桃 の 若 葉 や 君 娶 る

という祝いの短冊が届いたが、引っ越しの多かった漱石の手許には残っていない。官命でドイツ留学中の大塚保治にも漱石は、

「…‥当六月より兼て御吹聴申上置候女房附(つき)と相成申候へば御荷物携帯で処々をぶらつくも何となく厄介なるのみならず随分入費倒れの物品に候へば釜中(ふちゅう)の苦を忍んでぐずぐず致居候

御笑ひ被下度候…‥ 」(明治二十九年七月二十八日付)

と結婚を知らせた。漱石は面白がって《釜中の苦》といった漢語を使って生活の苦しさを誇張しているが、七月には教授に昇任し高等官六等に任ぜられ月俸も百円になった。これは松山中学校に較べても二十円も高いし、子規が東京で親子三人が月に四十円で暮らしていることを思えば、漱石の待遇は決して恵まれていないわけではない。」(『子規断章』)


6月9日

一葉日記より(体調の悪さが推測できる)

「九日 中島の月次会(つきなみくわい)なれど、断りいひ、ゆかざりし。三宅たつ子ぬしよりたのまれの『書簡文』、この日持参の約成しかど、えゆかぬなれば、博文館にたのみてかなたよりおくらす。

九日、大橋佐平、新太郎の両名にて、「九周年の祝ひ致すべきにつき十四日午後より両国柳橋亀清まで御はこび有りたし」との招待状来たりしかど、もとより行くべきわざにもあらわば、断りいひや」

6月9日

山県・ロバノフ協約調印。朝鮮財政共同援助、軍隊創設、電信線管理、秘密条項で派兵の際には用兵地域を確定することなど。漢城を境に日本・ロシアの勢力圏を南北に分割。日本の対朝鮮外交の大幅な後退、対ロシア譲歩

6月10日

原敬(40)、外務次官辞任。特命全権公使(朝鮮国駐箚)。~翌1897年(明治30年)2月。

6月10日

漱石の子規宛て手紙。


「中根事(こと)去(さ)る八日着、昨九日結婚略式執行致候。近頃俳況如何に御座候や。小生は頓と振はず当夏は東京に行きたけれど未だ判然せず。俳書少々当地にて掘り出す積りにて参り候処、案外にて何もなく失望致候。右は御披露まで、余は後便に譲る。頓首


衣更へて京より嫁を貰ひけり  

                                      愚陀仏

子規様」


子規から届いた結婚祝いはいくつかの短冊。


「蓁々(しんしん)たる桃の若葉や君娶る」


と詠んでいる。


漱石は結婚して間もないころ、鏡子につぎのように語ったという。


「俺は学者で勉強しなければならないのだから、お前なんかにかまつては居られない。それは承知してゐて貰ひたい」(『漱石の思ひ出』)。

6月10日

一葉日記より(平田禿木が来訪、途中から川上眉山が来訪)

「十日の夜、平田ぬし来訪。「ほし野君のあやしき事に邪推をなして、我れと戸川と日ごとの如く君がもとに入りぴたり居るやうに小言をいひき。されば戸川は、『又ふたゝび君がもとを訪はじ』などいひ居る」とかたる。「そは困りし事かな。御余波(おなごり)をしう」といへは、「いな、かくはいへれど、何かは訪はであらるべき。今やがて参るべし」などいふ。しばしかたるほどに、やがて川上ぬしが上に移りつ。「御父上うせさせ給へる後、君はかの君とひ給へりや」といへば、「いな、まだ弔ひの文をだにやらず。いといひわけなき事」といへるに、「行て参らせ給へかし。唯一人なる父君におくれて、さこそは物こゝろ細うおはすべきに」などいひいひ、「君もし、かしこを訪ひ給はゞ、我が罪をも詫び給はれ。『御悔みの文をだに』など思ひつゝ、いつしか時避ぬれば、今さらにあやしうてえ奉らず成ぬ。その詫びいひ給ひてよ」などいへば、「近きにかならず行て訪ひみべし。さて同人ともなひ、御もとを訪はゞや」などいひ居るほどに、門に人のあし菅聞え初ぬ。「お家にか」といふ声は、さながら其人なるに、「あな川上ぬしにこそ」とて座をたてば、平田ぬしも同じく席をはなれて迎ふ。おもひがけぬ人の座にあれば、川上ぬしはあきれたるように打まどひにき。おもての色のいと赤く、酒気浅からぬほどゝみえたり。かれこれ共に悔みなどいふに、「定まりたるにこそは。さても其後のせはしさよ。淋しなどいふ事かけてもなく、日々夜々(ひびよよ)にさまざまの相談事などいとうるさう、負債のぬしよりせめはたり来るなども多く、やる方なき暇(いとま)なさなり」といひて、さのみは憂(うれ)はしげにもなく打笑ふ。「逢ひ参らせぬこと、ほとほと一年なるべし」と川上ぬしいふに、平田君えたへずかゝと打笑ひて、「何かはさる事あるべき」といふに、あはてたるやうのせきたる声して、「いないな、逢ひみぬほどゝいひしにはあらず。此やどりに参り初めしより、一年計にや成りぬらん。こぞの此頃よりとおぼゆるなり」といふに、「誠に前の月の二十六日よりこそおはしまし初めつるなり」と我れいへば、「さりとはいとよく覚え給へる事よ」といふ。「このほど御目にかゝらざりしは二月(ふたつき)計か」と我がいふに、「左までにはあらじを」といふいふ指折かゞなべて、「左こそ日数をふりにけめ。人一人うせぬるほどの事なれば」といふ。何とはなしにかたる事いくばく時間をつひやしけん、平田ぬし、「いざ我れは御暇(おいとま)にすべし」といふ。川上ぬしも、「共に」と立つを、「君はかへるさいと近かるを、今三十分も語り給へ。我れは遠ければ」と物ありげにいはれて、「何かは、跡に残りてものいふ事もなし。たゞもろともに」とて出づ。十時半成き。」

(十日の夜、平田氏来訪。

「星野天知が妙に邪推して、私と戸川が毎日お宅に入りびたっているように小言を言った。そこで戸川はもう二度とお訪ねしないと言っている」

と話す。

「それは困ったことですね。お名残惜しい」

と言うと、

「いや、そうは言っても、来ないではおれないでしょう。すぐ来ますよ」

と言う。しばらく話すうちに、川上眉山の話に移って行った。

「父上を亡くされた後、あなたはお訪ねになりましたか」

と言うと、

「いや、まだお悔みの手紙さえ出していません。全く申し訳ないことです」

と言うので、

「行っておあげなさい。ただ一人の父親に亡くなられて、どんなにか心細いことでしょうよ。・・・もし行かれた時は私のご無礼もお詫びして下さい。お悔みの手紙だけでもと思いながら、いつの間にか時が過ぎて、いまさらあげることも出来ないでいるのです。そのお詫びを申しあげて下さいよ」

など言うと、

「近いうちに必ず訪ねて行ってみます。そして彼をつれて一緒にお宅をお訪ねしたいと思います」

などと言っているうちに、門口に人の足音が聞こえてきた。

「おいでですか」

という声は紛れもなくその人の声なので、

「あっ、川上さんですよ」

と言って座を立つと、平田氏も同じく席を立って迎える。川上氏は思いもかけぬ人が来ていたのでと惑っている。顔の色は赤く、かなり酒気を帯びているように見える。あれこれ二人一緒にお悔みなど言う。

「葬儀その他はきまった通りに行ったのですが、その後の忙しさといったら、寂しいなどと言うひまもなく、昼も夜も色々の相談事がうるさく、おまけに債権者から請求に来るのが多く、どうにもならない忙しさでした」

と言って、それほど悲しい様子も見せずに笑う。

「お逢いしないことが、殆ど一年にもなるでしょうか」

と川上氏が言うと、平田氏は可笑しさにこらえきれず

声を立てて笑い、

「なに、そんなことがあるものか」

川上氏は慌てて、声を咳きこませて、

「いやいや、お逢いしない間と言ったのではない。此処へ伺うようになってから一年ばかりにもなったでしょぅか。去年のこの頃からと思うのですが」

と言うので、

「たしかに前の月の二十六日からお見えになり始めたのです」

と私が言うと、

「それにしても、よく覚えていますね」

と言う。

「このうちお目にかからなかったのは二月ほどでしょうか」

と私が言うと、

「それほどではないでしょう」

と言いながら、指を折り数えて、

「もうそんなに日が経っていたのか。人が一人亡くなったりしたのだからね」

と言う。何とはなしに話すうちにどれほど時間がたったろうか、平田氏が、

「さあ、私はもうお暇しよう」

と言う。川上氏も、では一緒にと立つと、

「君は家が近いので、あと三十分もゆっくりしなさい。私は遠いので」

と、何か思わくありそうに言われて、

「いや、後に残って話すようなことは何もない。やはり私も一緒に帰る」

と言って出る。十時半でした。)


つづく


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