2024年7月23日火曜日

大杉栄とその時代年表(200) 1896(明治29)年7月15日~18日 7月15日付け一葉日記(2) 緑雨は、「『(通俗)書簡文』全体にわたりて、例の冷笑の有さまみちみちたり」といふ。」 一葉は、「か計に御手を下して細かに評し給はるなん、わが『書簡文』の面目にはあれ。いとかたじけなき事」と応じる 一葉、樋口勘次郎から恋文を受け取る    

 

樋口勘次郎

大杉栄とその時代年表(199) 1896(明治29)年7月13日~15日 7月15日付け一葉日記(1) 緑雨、一葉の作中に「冷笑の心」が充満していると指摘 「世人は一般、君が『にごり江』以下の諸作を、『熱涙もて書きたるもの也』といふ。(略)さるを我が見るところにしていはしむれば、むしろ冷笑の筆ならざるべきか。(略)おもては笑をふくみつつ、(略)優しげにいふ嘲りもあり。君が作中には、此冷笑の心みちみちたりとおもふはいかに。」 より続く


1896(明治29)年

7月15日

7月15日付け一葉日記(2)

「「何かは、さまでの深き処存あるにもあらず。ただ時の拍子にてかき出るものどもなれば、きびしき御尋ねにはこたへ参らすべき趣意もあらず。いと恥かしき事」といへば、「いな、さる事はあるまじ。我が異見はかくかくと、上下(かみしも)きていはれよ、とにもあらず。されど何事かの論なき事はあるまじ。心なくして彼計(かばかり)のもの作り出らるゝとなれば、真に真に大偉人とも申(まうす)人なるべし。君こそはその偉人なるべきかしり侯はねど、大かたの人心(ひとごころ)に理論のはなるゝものなし。観察の目すでに此尺度より生ずるにあらずや」と、勢ひたけく物がたる。

「君が『書簡文』のこと論ぜんとて、かくしるしつけて来たりぬ。秘密のものなれど、見せ参らすべし」とて、小づゝみ引ときて、取出す。はじめより終りまで、ことごとく朱墨入れつゝ、一々の註釈いとこまやかなり。「此『書簡文』全体にわたりて、例の冷笑の有さまみちみちたり」といふ。「何ゆゑにか」と問へば、「又いふ折もあるべし。われは左おもふなり。我れ君がもとを訪ふ前後幾度、いまだにいかにしても君しる事のかなはぬは、いかなるゆゑならん。解しがたきは君が人となりにおはすよ」と打笑ふ。「このうたがひとくる世になれば、我れは再度御宿とはぬ事とも成るべし。たゞ此論のたて度計に、研究しにと参るなり。こも役目なればいたしかたなし」とて笑ふ。「世人、我が名を聞くより、やがて皮肉家の大将とやうに覚え込み居るを、君が事のみいはであらんは、其さまあやしうみゆべき事なり。正太夫の一分(いちぶん)かくてすたらんとす。ゆるし給へ、わるロはわが本職なれば」といふ。「とまれ、か計に御手(おて)を下して細かに評し給はるなん、わが『書簡文』の面目にはあれ。いとかたじけなき事」といふに、「その御ロよ。それぞ冷笑の御しるし」といはれて、「何かは左(さ)あらん。誠にかく覚ゆるなるを」とて笑ふ。」

(「私に、どうしてそんな深い考えなどあるものですか。ただその時の拍子で書いたものばかりですから、厳しいお尋ねにお答え出来るような考えなど持っておりません。全く恥ずかしいことです」

「いや、そんなことはないでしょう。自分の意見はこれこれだと、きちんと改まって話して下さいと言っているのではないのです。しかし、何らかの理論がないことはないでしょう。そういったものがなくてこれほどの物を作られるとならば、それこそ本当に大偉人とも言うべき人でしょう。あなたこそその偉人かもしれませんが、誰だって心の中に理論がないことはないのです。物を観察する目というものは、すでにこの物差しから出ているのではありませんか」

と烈しい勢いで話される。

「あなたの『通俗書簡文』のことを論じようと思って、この通り印をつけて持って来たのです。秘密のも

のですがお見せしましょう」

と言って小さい包みを解いて出す。始めから終わりまで、全部朱で書き入れをして、一つ一つの注釈も大変詳しい。

この「通俗書簡文」全体に亘って例の冷笑が満ち溢れていると言う。その理由を問うと、

「何時かまた言う時もあるでしょう。ただ私はそう思うのです。私があなたをお訪ねすることはこれまで

幾度になるでしょうか。それでもまだどうしてもあなたを知ることが出来ないのは、どういう訳でしょうか。本当にわからないのはあなたの性格ですよ」

といって笑うのでした。さらに、

「この疑問が解けたら、私は、二度とお訪ねすることはないでしょう。今はただこの論をまとめたいばかりに、研究しにお伺いしているのです。これも仕事ですから致しかたないのです。世間では私の名前を聞いただけで、皮肉屋の大将だと覚えてしまっているのに、あなたの事だけはなにも言わないでいるというのは、かえって変に思われるのです。そうなってはこの斎藤緑雨の顔がつぶれてしまうのです。お許し下さい、悪口はわたしの本職なのですから」

と言う。

「ともかく、これほどまでに手をかけて、詳しい批判を頂くのは、私の『通俗書簡文』にとっても名誉なことです。大変有難いことです」

と言うと、

「そのお言葉こそが冷笑の印なのです」

と言われて、

「どうしてそんなことがありましょう。本当にそう思っているのです」

と言って笑う。)


「涙ののちの冷笑」、これこそ一葉の本質ではなかったか。緑雨は、「生前の一葉をめぐるひとびとのうち、意識して一葉を『研究』しようとし、それ自身の重要な命題とした最初の文人」であり、その文学の本質を「『泣きての後の冷笑』(日記)において発見した。あるいは一葉の、一見つつましやかな優雅な姿態のかげにひそめられた、はげしい憤満と抗議するどいアイロニーとふかいペシミズムを発見した」人と見る(関良一(「一葉研究小史」昭和31年6月『一葉全集』第7巻)。

更に緑雨は、一葉の著書『書簡文』に細かな注釈を入れた書物をとりだし、この書簡文全体にわたって、冷笑の気がみちみちて居る、君の所には数度訪ねているが未だに君を十分知りえていない、解しがたきは君が人となりですな、言って大いに笑う。

一葉が、それはどうあれ、私の書簡文をこんなに詳しく批評して戴くのは大変有難いことだと云うと、緑雨は、その言葉が冷笑のしるしだと応える。


「「世の人いはく、「正太夫に涙なし。ただ嘲罵の毒筆をもてるのみ」と。こは皮相の見(けん)なるなからんか。おもひ余りては、涙をうちにのみこみつつ、にくき異見もいふ事あり。かれ等は、ままたきの政岡が千松の死がいいだきあげて、「流石女の愚にかへり」、と打ちなげく処にのみ涙ありと信じて、山科の由良之助が力弥を折かんする条など、「無慈悲の父よ」と見すぐすなるべし。君が『にごり江』を「熱涙もて書きたるもの」といふ。いと笑ふべし。うらにかくれし冷笑を観破するものなきをかしきよ。われはむしろ涙より以上の冷笑を喜ぶものなり。いかが答へ給へ」といふ。唯打笑ひてあれば、「いひがひなし」とや、つひにやみぬ。

いたく夜ふけて立かへる。車は例の如く、またせおきけり。」 

(「世間の人は、この緑雨には涙はない、ただ嘲罵の毒筆をもっているだけだと言うのですが、これは皮相の見解ではないでしょうか。私は思いあまって、涙をのみながら、憎らしことを言うこともあるのです。世間の人たちは、あの『先代萩』の政岡が、わが子千松の死骸を抱き上げて、母親として嘆き悲しむところにだけ涙があると信じて、『忠臣蔵』で山科閑居の大星由良之助が力弥を折檻するところなどは無慈悲な父親だと見過ごしているようです。また、あなたの『にごりえ』を熱涙で書いたものと言うのですが、全く笑うべきことです。その裏に隠れている冷笑を見破ることが出来ないとは、全く可笑しなことです。私はむしろ熱涙よりも、それ以上の冷笑を重く受け取りたいのです。どうです、何とかお答えドさい」

と言う。私はただ笑っていると、言い甲斐がないと思ったのでしょうか、とうとう話をやめてしまったのでした。すっかり夜が更けてから帰って行かれた。車は例にょって待たせてあった。)


「此の男が心中、いささか解さぬ我にもあらず」と一葉は7月22日の日記の一番最後に記す(後出)。

7月以降、一葉は病篤く、ほとんど筆を執っていない。それゆえ最後の心境は推察するのはかないが、緑雨に対する感情はおそらく変化するところがなかったであろう。一葉は最晩年に、おのれに匹敵する好敵手を見出した。それは一葉にとって幸せであったのみならず、後世の読者にとっても幸いであった。一葉最後の明治29年の日記は、1月・2月の断簡と、5月より7月までの2カ月余の記事にすぎないが、緑雨を中心に突々たる生彩を放っている。それは悲劇の最終章とするに相応しい。

7月16日

一葉の家に昨晩泊まった兄虎之助は早朝帰る。日暮れに西村つね来訪。樋口勘次郎から、20日に関西の教育会に由紀、ひと月は戻らないので、その前に訪ねたいとの手紙。18日は一日在宅と返事。横山源之助が緑雨を訪ねる。

7月17日

一葉、早朝、戸川残花の許に無沙汰見舞いをかねて様々なものを貰った礼に出かける。午前中に帰宅。午後、智徳会の泉谷氏一が「夏期附録」の原稿の催促に来る。

7月18日

一葉の許に、早朝、奥だ栄の代理で井出という弁護士が来る。一応こともなく帰って行ったが、今後の成り行きによっては家の重大事になりはしないかと危ぶまれる(借金問題であろう)。

野々宮菊子が明日の稽古の断りに来る。昼食をともに市、午後早々に帰る。入れ違いに樋口勘次郎来訪。20日には東京を発ち、まず千葉の野田町である教育会に出席し、一度帰ってから関西に赴くとのこと。暫くして帰る。上野房蔵来訪。これから野尻理作を尋ねると言う。坂本三郎から写真届く。

夜になって横山源之助から葉書。緑雨から一葉のことをいろいろ手紙で言われたので、自分から訪ねたとのこと。

皆が床に入った後、手紙2通。一通は樋口勘次郎からの恋文。もう一通は神奈川の小原与三郎から厚かましい願い事。夜は寝られず。

「人々寐やに入りて後、文二通来る。一つは神奈川の小原与三郎より、一つは樋口勘次郎より、切手二枚はりし大封じなり。けふ逢ひたる時は何事もいはで、今さら文おこすこと何の用事ならんと、のりはなちて先づこれをみるに、たゞ胸つぶるゝ事をぞ書たる。巻がみに書たる文と、原稿紙へ横たてにぬりけしもし、書きそへもしつ、したゝめたるのと、二つなり。文に曰く、

我れ勿体なくも君をこひまつれる事幾十日、たちがたきおもひ日ましに増(まさ)りて、いとやるかたなきを、「いかにしても成るべき願ひならず」と、我れと我れをいましめつゝ、坐ぜんの床にやうやう少し人心地の身になり候ひぬ。此別紙よ、やるかたなきおもひを日ごと夜ごとにしるしたる、多くのうちの一ひらにこそ。先きの夜結伽(けつか)したりし上、ことごとく火中のものとしたりし折、友のもう来て、一ひらつひにやかず成しを、せめてのかたみと参らする。けふ参上の折、御(おん)まのあたりにてと思へりしも、御おもかげみれば、煩悩の雲たちおほふて、いさぎよくは奉りもなしあへず、かき抱きて帰宅し候ひぬ。一覧給はりし後、八つざきの刑に処し給へ、

とあり。

別紙のかた、くさぐさいとおほかり。終りにぬりけしたる一首の歌あり。

のぼりゆき手折(てを)らんすべも白雲の

花にみだるゝわがおもひかな

昔しは厭世の教(をしへ)を持して、教育者不娶主義を主張したりし身の、このあとの月、事業の助けをこひまつりて、御めもじしたりし時より、か計の骨なき身とは成ぬること、いといひがひなし。

などかゝれたり。」


つづく


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