1896(明治29)年
6月21日
一葉日記より
「二十一日の夜、ふけて斎藤ぬしより文来る。「好ましからぬ事なれど、やむを得ねば」と前おきして、
さる十七日の『国民新聞』唯今人よりおくられしをみれば、「警聴蜚語(けいちやうひご)」と題したるが中に、「正太夫一葉を訪ふ」といふ項目みえき。
正太夫おもへらく、「一葉が面の皮をひんむきぬ」と、一葉おもへらく、「正太夫はからすの如き男なり」と。
右は其会話なるものゝ未に、同記者が付記したるものなり。
とありて、
是れ等のものにむかひて深く弁疏すべきの用ある事を、我れは更にみとめ申さず。唯、「からすの如きしかじか」を我れの信じざるが如く、「面の皮しかじか」をも君の信じ給はざるべしとおもふまでに、これ参らするなり。さらでだに人より快く思はれざる我が事なれは、これを種に、例の人々は「奇貨居くべし」ともいふ勢ひにて、付会し、誇張し、じゆん飾し、さまざまの心々を申ことゝ相成るべく、くわしうは逢ひ参らせん折に。
とありけり。こゝの間がら、いと物むづかしう成ぬ。」
(二十一日の夜更けに斎藤緑雨氏より手紙が来る。
「好ましくない事だが、やむを得ず書く」
と前置きして、
「さる十七日の国民新聞がいま人から送られたので見ると、警聴蜚語の欄に、『緑雨、一葉を訪う』という項目が見えた。『緑雨思うには、一葉の面の皮をひんむきぬと。一葉思うには、緑雨は鴉のような男だと』とあって、これは二人の会話の末尾に記者が付記したものと書いてあるのです。この文章に対して十分納得できるように弁解する必要があるとは、私は思いません。ただ、私が『鴉のような男』という語を信用しないように、あなたも『面の皮』をむかれたとは信じておられないだろうと思うので、この手紙を差し上げる次第です。ただでさえ人から善くは思われていない私なのですから、この新聞記事を種にして、例によって人々は、この際うまく利用してやれと言わんばかりの勢いで、こじつけたり、誇張したり、補足したりして、勝手なことを色々言い出すだろうと思われます。詳しくはお目にかかった折に申し上げましょう」
と書いてあった。さてさて文壇の事情が、これはまた面倒になってきたことよ。)
6月23日
一葉の許に、樋口勘次郎が約束通り来る。学校の教科書に小説を用いようと言う計画に難しいものを感じるが、取り敢えず預かる。
「樋口勘次郎約の如く来る。背ひくく色くろく、小ぶとりのせし品格なき人なり。左のみはものがたる事もおほからず。唯大かたに物うちたのみて、まづ手はじめに桃太郎、さるかになどの昔しばなしより着手あらまほしとて、漣(さざなみ)君のものしたる昔しばなし、そこばくおきて行く。・・・此人の趣意一あたりはおもしろけれど、学校の教科書に小説を用ひんといふやうの計画ある、いささか行はれがたき事ならずやとかたぶかる。」
「正太夫とひ来るや、とまつに、音もなくて此月くれぬ。こゝかしこの人々より、「君がもとを正太夫とひたる由」などいひ出るあり。さまざまあやしき事のあれば、「今一たび逢ひみて物いはゞや」とまつに、いとかひなし。毎日社の横山、鎌倉材木座にありて文おこす。「民友社の人と同宿し居るなり」とて、事ありげの書きぶり成き。返じやらず。
此月、くらしのいと侘しう、今はやるかたなく成て、春陽堂より金三十金とりよす。人ごゝろのはかなさよ。」
6月26日
一葉に宛てて宮沢春文から「女学草子 なでしこ」(同年7月創刊、9月廃刊)へ寄稿依頼
6月28日
中国、黄河下流利津県北岸趙家菜園で堤防250m決壊。13日、光緒帝、手抜き工事・着服で河官副将・知県免職(手抜き工事、偽領収書発行)。
6月30日
大刀会リーダ彭桂林ら、馬良集で政府軍・民軍(地主武装団)と衝突、逮捕。寵三傑らが救援に向うが、単県知県李銓・民団張安玉と馬良集の北で激突。大刀会幹部・首領30余が逮捕・殺害される。
7月1日、大刀会員岳金堂ら13人、単県に護送、訊問。処刑10・釈放3。
6月30日
古河市兵衛と沿岸農民との示談期限終了。
6月30日
一葉一家の生活、依然として苦しく、遂に春陽堂の予約金30円を受け取る。
あれほど厭がっていた春陽堂の予約金30円も受取ってしまい、「人ごころのはかなさよ」と日記に記す。
翌日、野々宮きく子に、自分と国子との衣類調達を頼む。野々宮は7月4四日、伊勢銘仙、一疋価八円六十銭の高価なものを買って来る。
「三十日 野々宮のもとに金子持参して、国子と我れとの衣類(きもの)調達をたのむ。
買ひ来たりしは、七月四日成き。伊せ崎めいせん一疋(いつひき)価(あたひ)八円六拾銭也。」
7月
フランス人、朝鮮の京義鉄道敷設権を獲得
7月
渡良瀬川、大洪水、1府5県に鉱毒被害。25cmの毒土が田畑を多い、農作物・桑園は立枯れる。製錬の為の薪炭を得るため山林を伐採、煙害による樹木の枯死が洪水被害を拡大。
7月
熊本は、東京や松山に比べて異常に暑く、漱石は学校では昼食をぬくことが多い。鏡は、殆んど気付かなかったらしい。
7月
寺田寅彦、高知市の高知県尋常中学校を卒業、熊本の第五高等学校に入学。田丸卓郎から力学と物理学を学ぶ。
7月
一葉、この頃から高熱続く。日記は7月22日で終わる。
7月
Augustus Wood (ウード)、帝国大学文科大学英文学科講師解任される。
7月
新人登竜門として人気の高い「新声」創刊。~明治36年8月。
7月1日
米、作家ストウ夫人(85)、没。
7月2日
両江総督劉坤一、塩店掠奪を重視し、大刀会を「刀匪」と規定し鎮圧命令。
7日、毓賢、姦計(官と共に土匪を鎮圧しようと持ちかけ)大刀会劉士端を逮捕、処刑。間もなく、劉士端につぐリーダ曹得礼を同様姦計によ逮捕・処刑。指導者を失い、大刀会はなりを潜める。
7月2日
朝鮮、独立協会結成。徐載弼・李商在・李完用・鄭喬・南京檍・尹致昊・安昌浩ら30数名が設立(啓蒙団体)。すぐに百数十名となる。会長安駉寿。自主独立・自由民権・自強改革掲げる。清国勅使を迎える迎恩門を破壊して、寄附により独立門を建設。また、慕華館の看板を独立館に掛けかえる。独立館では、独立協会主催の定期集会が開かれる。釜山湾外の絶景島をロシアに貸与しようとしている外部大臣閔種黙は批判され、ロシアは租借を断念(ロシアはここに貯炭所を作り太平洋艦隊の基地にする企図)。1898年3月、ソウル中心部で数千名の民衆を動員する万民共同会を開催。独立協会に対して、皇国協会が弾圧、尹致昊・李商在を拉致して政府に引渡すなどしたため、徐載弼は再びアメリカに逃亡。11月、独立協会は一時解散となるが、独立新聞は秘かに刊行。
7月2日
硯友社一同会合。片瀬の江見水蔭(28)宅。尾崎紅葉(30)、巌谷小波(27)、泉鏡花(24)、広津柳浪(36)など。
つづく
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