2024年7月29日月曜日

大杉栄とその時代年表(206) 1896(明治29)年9月9日~28日 一葉最後の外出(萩の舎9月例会) 漱石、正七位に叙せられる 土光敏光・ 村山槐多生まれる 第2次松方正義内閣 

 

松方正義

大杉栄とその時代年表(205) 1896(明治29)年9月1日~8日 漱石夫妻、北部九州を汽車旅行 白馬会結成 子規、鉄幹ら新体詩人の会に参加 一葉の許に副島八十六来訪 「余は、、、下層社会の救済の急務なるを説くや、彼女最も熱心に之に同意し彼女亦予に説く所多かりき」 渡良瀬川この年2度目の大洪水 鉱業停止請願の方向に大きく展開 より続く

1896(明治29)年

9月9日

一葉、頭まで結核に冒されて頸に湿布の包帯をした姿で萩の舎の9月例会に出席。一葉、最後の外出

「明治二十九年の九月の九日の初秋の歌会にも、夏ちゃんに逢ひたければと身重き身を、人の止むるを強いて許を得て行きしも、この君の勝れぬよし聞て心もとなかりし故なり。この日夏ちゃんは咽喉を巾に巻きて、顔色すぐれず、何かと病苦を訴へ給ひつつ、書簡文集を書きしが、気分すぐれねば思はしくもかきがたかりきなど物語り給ひ」(花圃『一葉女史を憶ふ』)

(遅くとも4ケ月前に脱稿したはずの『通俗書簡文』が思わしく書けなかったと、一葉が口にしたという。緑雨には見られることも恥ずかしが『通俗書簡文』のことが気に懸かっていたらしい。)

9月9日

ユタ州、合衆国加盟(45番目)。

9月10日

「峯の残月」などを著して、一葉につぐと言われた女流作家田沢稲舟(23、いなぶね)、没。自殺と伝えられる。

9月10日

高野房太郎(27)、ゴンパーズ宛書簡。アドヴァタイザー紙翻訳者として働いていること、日本でストが頻発していることなどを通報。

9月10日

漱石、正七位に叙せられる。正七位高等官六等は陸海軍武官でいえば大尉に相当する官等である。

9月15日

土光敏光、誕生。

9月15日

村山槐多、横浜神奈川町に誕生。父は中学校の教師。

9月18日

第2次松方正義内閣、成立

伊藤の後継首班候補者は、山県及び松方で、伊藤と自由党との提携に反撥した勢力は、山県による超然内閣を期待し、山県の奮起を促す。国民協会と密接な関係を持つ京都府知事山田信道は、京都無隣庵に滞在する山県を説得するが、山田が描く山県内閣構想は、かつて大選挙干渉を主導した第1次松方内閣の最強硬派を主力とし、これに山県を首班とするもの。しかし、山県は伊藤の意向が松方に傾いているの知っており、元老会議では、従来の薩長政権交代の慣行に従い、進んで松方を推す。

この内閣は薩長両派に加え、大隈を外相として入閣させ、進歩党も与党とする内閣。しかも進歩党との提携は、貴院の親進歩党勢力の三曜・懇話両会派との提携ももたらす。この内閣での進歩党の比重は決して小さくなく、松隈内閣と云われる。

この内閣の2つの顔

①薩長両派閣僚、就中内相樺山資紀に代表される超然内閣的側面。品川弥二郎が「蟹の甲の如き堅固ナル人物」と評す樺山は、政府内外の正統派超然主義者の期待を一身に集め、松方内閣に強い懸念を抱く山田信道も、「樺山内務拝命是ハ大ニ人得申候」と述べる。品川は松方に対し強い不信感を持ち、その非政党内閣主義の立場についても「例ノグラグヲの事故、イツドの様ニ変更スルカ何事ヲ云ハルルか、決行の上ならでは信用出来ぬなり」と述べるが、樺山には「唯々樺山之言行一致のみを神かけて国家将来之為二祈り居候」と期待を寄せる。品川は進歩党勢力の防波堤としての樺山の困難な役割には同情を寄せ、「松方サンヲ首トシ、大隈ヲ相手ニ国家主義ヲ貫徹セントハ、嘸かし御心配ならんと御察申上候。国民協会ハ・・・決シテ理ヲ非ニ曲ゲテ現内閣ヲ攻撃スル如キ卑劣ナル事ハ致サセ申候」と樺山を支持。品川ら正統派超然主義者は、松方に代って樺山の首相就任を期待する者もあり、松方内閣はもっぱら樺山を通して、正統派超然主義者の支持を引きつけている

②大隈の存在。地方長官に対する首相の基本方針表明演説で、「内は国民の輿論を考へ、外は外国の形勢に察し、以て戦後の経営を画し、帝国議会をして協賛を完うせしめ、上下一致の効を図り、至尊に対し大政の責に任ぜんとす」との趣旨をのるが、大隈の意見によりこの中に「国民の輿論」を重視する趣旨が入る。大隈によれば、松方演説は、「国務大臣ノ責任ハ直接ニハ君主ニ対シ、間接ニハ議会ニ対シ有スルノデアル。即チ議会ニ多数ヲ制シテモ責任ガ立タヌハ当然デアル」ことを明らかにしたもの。しかし大隈とは逆の解釈もあり、松方演説の翌日、樺山内相は同じ地方長官に対し松方演説の意味を説明し、内閣がもっぱら天皇にのみ責任を負うものと強調。山田京都府知事は、「十二日に松方演舌有之。・・・十三日樺山より右演舌を敷延して是帝室内閣の軍団ヲ確メ実ニ愉快ヲ究メ申候」と書く。松方は同演説で、財政整理を前提とした軍備拡張・産業育成等を説き、大隈の意見を容れて「言論出版の自由を保障すること」をあげる(具体的には新聞紙条例改正による内務大臣の発行停止権廃止を含意する)。山田京都府知事・松平正直熊本県知事ら反政党内閣論者はこの方針に強い衝撃をうけ、2日後松平と共に松方を訪ねた山田はこれについての松方の弁明について書く。「松方演舌第三項集会出版云々の人格論ニ至り、聊凝点有之健ニ付松平同席ニ而種々質問候所、新聞停止等の事件ハ同氏も大ニ苦心之模様ニ相見エ、其意を察スルニ大体論ニ於テヒドク隈之頭ヲ抑キタレハ、人権論ニ於テ譲レル丈ハ譲ラサレハ将来団結ヲ欠クとの恐レより苦心セル者と認メ候而、停止権ノ如キ一度放棄スルトキハ再ヒ取戻出来不申候。行政施行上外交軍機及風俗壊乱等如何とも不能勢ニ立至可申相考候間、深御考慮有之度旨ニ而相別申候」。

「大阪朝日」主筆格高橋健三は内閣書記官長として、神鞭知常法制局長官と共に、政綱、施政方針を担当し、文章は「大朝」客員内藤湖南が引受ける。「東京朝日」は長州閥を一掃した新内閣を「太く短かかれ」と激励し、藩閥政府の積年の弊の改革を期待。

9月20日過ぎ(推定)

漱石、同市合羽町237(現坪井2丁目)に転居する(熊本での三回目の住所)。


「鏡子が回復すると間もなく、金之助は下通町から合羽町二百二十七番地の借家に移転した。熊本は、二十年を経てまだ西南戦役の戦災から癒え切っておらず、借家払底で、彼はようやく新開地の合羽町に、建って日の浅い間数の多い角屋敷を借りたのである。・・・・・家賃は十三円であった。「かかる処へ来て十三円の家賃をとられんとは夢にも思はざりし」(九月二十五日付)と、彼は病む子規に書き送っている。

・・・・・

・・・熊本在住の四年のあいだに、彼は五度引越しをしているが、そのうちの少くとも三回は、鏡子のためにおこなわれた転居と考えられる。彼女はあるいは、彼女自身が自覚していた以上に緊張の多い結婚生活を送りはじめていたのかも知れない。」(江藤淳『漱石とその時代1』)

この頃、漱石の同僚長谷川貞一郎、山川信次郎が漱石の家に下宿する。

"

「明治二十八年八月に赴任した長谷川貞一郎同居する。同居した月日は分らぬ。明治二十九年秋ではないかと想像される。毎晩、刺身その他いろんなご馳走出され、お銚子も一本つく。(長谷川貞一郎)下宿料は五円。長谷川貞一郎は、帝国大学文科大学史学科を明治二十六年七月(第五回卒業)に卒業、斎藤阿具と同級である。後に、明治三十年四月に赴任した同僚の山川信次郎と住む。下宿料は、後に七円になる。山川信次郎は、明治二十八年七月、帝国大学文科大学英文学科第三回卒業である。玉蟲一郎一と同級生である。」(荒正人、前掲書)


「この下宿料も、皆さんの方は、ただ厄介になつて食ふといふいはれはないと仰しやるし、夏目の方では友人から下宿料をとる奴があるものかといふわけで、両方で頑張つて言ひあひをしてゐるのを、それでは果てしがつかないので、たしか私が中に入つて、では五円も戴いて置きませうといふ事でけりをつけたのでした」(『漱石の思ひ出』ー四「新家庭」)

9月21日

イギリス・エチオピア連合軍、ドンゴラ占領。イギリス、スーダン再占領。

9月25日

漱石、子規宛てに手紙を送る。句稿を送り、俳壇の様子を教えてほしいことと転居のことなど報告。


「正岡子規宛の句稿その十七に、「内君の病を看護して」として「枕邊や星別れんとする晨(あした)」とある。悪阻の看病ではなく、ヒステリーの発作によるものかと思われる。(高木文雄)」(荒正人、前掲書)

9月26日

漱石、正岡子規宛手紙に、『故人五百題』・『七部集』(以上、活字本)購入したいので高浜虚子に頼んで欲しいと伝える。「竹の里人」とは、正岡子規の別号かと尋ねる。

9月28日

赤痢病予防および渡良瀬川大洪水(8、9日)対策のため臨時群馬県会開会。石阪昌孝、開会式出席、開会の辞朗読。10月3日、閉会。石阪昌孝、臨場し閉会の辞朗読。


つづく


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