2024年7月28日日曜日

大杉栄とその時代年表(205) 1896(明治29)年9月1日~8日 漱石夫妻、北部九州を汽車旅行 白馬会結成 子規、鉄幹ら新体詩人の会に参加 一葉の許に副島八十六来訪 「余は、、、下層社会の救済の急務なるを説くや、彼女最も熱心に之に同意し彼女亦予に説く所多かりき」 渡良瀬川この年2度目の大洪水 鉱業停止請願の方向に大きく展開   

 

白馬会同人

大杉栄とその時代年表(204) 1896(明治29)年8月1日~31日 一葉、医師より最早全く望みは無いと宣告される 『読売新聞』が「一葉女史病に臥す」を報じる 宮沢賢治生まれる 第2次伊藤内閣総辞職 陸羽地震(マグニチュード7.2、死者209、負傷779) より続く

1896(明治29)年

9月

シベリア鉄道建設中のロシア、ハルピン経由の東清鉄道、大連までの支線・満州鉄道建設交渉に関して、この月、清露条約調印。

12月、東清鉄道条例、公布。一漁村の大連が要地となる。

9月

与謝野鉄幹、落合直文の門下となり、直文の紹介を得て鷗外を知る。

直文は1903年12月没するが、以後鴎外は、鉄幹・晶子夫妻に協力を惜しまず。『明星』に「ただ中は蓮華にかふる牡丹の座仏しれりや晶子曼荼羅」の歌など発表。観潮楼歌会で鉄幹をひきたて、根岸派との融和を計ろうとする。『スバル』では晶子は啄木らと内部執筆者になっているが、鴎外は鉄幹らと外部執筆者になっている。

9月

与謝野鉄幹・大町桂月、新体詩人の交流のため新詩会設立。月1回の会合、詩集「この花」出版。直文、信綱、子規、湖処子らが集る。

9月

鴎外(34)「雲中語」(「めさまし草」)

9月

漱石、妻鏡子と一緒に鏡子の叔父を博多に訪ね、北部九州一円の汽車旅行をした。


「しかし鏡子は、「夜具の襟なども垢だらけで、浴槽はぬるぬるすべつて、気持の悪い」九州の宿屋や温泉宿を不愉快がって、この旅行をあまり楽しまなかった。彼女はおそらく、人の出入りも多く、万事派手好みの中根家の生活から、夫婦に下女一人という地方都市の地味な学究の生活に突然移植されて、とまどいもし、また疲れてもいた。彼女は熊本に帰って間もなく病臥した。」(江藤淳『漱石とその時代1』)

9月

穴沢清次郎が第二高等学校合格の報をもって一葉を訪れる。病臥していた一葉は喜んで起き上がったが、顔は真っ青で頬だけが赤らんでいた

9月

大山巌、陸軍大臣辞任

9月

ラフカディオ・ハーン、帝国大学文科大学英文科教師となる。(明治36年3月まで)

9月

黒田、久米らは明治美術会を脱退し、白馬会を結成

9月

~1907年7月。ロレンス、オックスフォドのハイスクールに在学

9月1日

東海道線の新橋~神戸間、急行旅客列車の運行開始

9月2日

子規に鉄幹与謝野寛から「新体詩人の会」設立の案内状が届く。

佐佐木信綱、大町桂月、武島羽衣と鉄幹の連名で4人が発起人、ほかに子規、宮崎湖処子ら6人を招いた、という。

9月2日

鉄幹の母初枝(57)、没。

9月2日

スーダン、イギリス=エジプト軍と回教徒軍との戦闘開始。回教徒軍は約1万1千の戦死者とほぼ同数の戦傷者を出し撤退。遠征軍の戦死者48人で戦傷者も400人未満。

9月5日

子規、与謝野鉄幹ら新体詩人の会に人力車で参加

■子規の新体詩

「子規は、明治三十年三月まで新体詩づいた。しかし明治三十年三月二十七日に自宅で腰の切開手術を受けたのちは、その数が極端に減じ、明治三十一年いっぱいでほぼ新体詩をやめた。

新体詩への情熱もまた、子規の「野心」のほとばしりであった。

(略)

・・・・・子規の「野心」も結局新体詩では実を結ばずに終り、明治三十一年正月から、関心ははっきりと和歌に移ってゆく。」(関川夏央、前掲書)

9月6日

一葉の許に基督教青年会の副島八十六が伊東夏子の紹介状を持って来訪。一時間程会談。

副島八十六の日記にある病床の一葉を訪問した記録。

「女史病をつとめて隣室に予を延ひて会談せり。談話は殆ど一時間に亘りき。予は予の閲歴の多困多難なりし次第をかたり、下層社会の救済の急務なるを説くや、彼女最も熱心に之に同意し彼女亦予に説く所多かりき(「日記鈔-一葉女史に関する記事抜萃-」新世社版『樋口一葉研究』昭和17年4月 新世杜)とある。

一葉は、横山や副島との交流の中で、「二葉亭四迷が、下層社会へ接触して、社会主義と結びついたと同じコースを一葉は歩いていた」(和田芳恵『樋口一葉』昭和47年5月 講談社新書)との指摘もある。

尚、副島八十八「日記鈔」には金子喜一に関する記述もある。。

「帰途本郷台町北辰館に金子喜一を訪ひ八時半に到る迄快談にふける。彼は一種の抱負を有するもの、将来永く交るに値せり。特に彼は一葉女史の真の知己たり。女史を追憶するの情更に一層切なるを覚ゆ」(明治29年12月3日)

6月に小説の指導を求めて一葉を訪れていた小原与三郎の手紙によると、金子喜一はしばしば一葉を見舞っていることがわかる。

金子喜一は、明治8年神奈川県久良崎郡笹下村(現、横浜市)生まれ。明治学院に学び、一葉と交流のあった頃はジャーナリスト。一葉没後、毎日新聞掲載の追悼文は「K・K」のイニシャルで書かれている。

「憶ひ起す、今夏七月余が笹下の草庵に厭きて再び都に上らむとし、端なく君を訪れし時」とあり、しばしば病床を訪れて、母について語り悲しむ一葉のことばを「終焉の辞」と書く。

「吾人は女史を通じて到底忘るべからざるもの一あり、何ぞや、曰く女史の同情これなり、女史が製作を読みし者は知らむ、彼が作る所の文字は悉くこれ同情の涙なるを」(『毎日』明治29・11・26)

金子は、一葉の没後明治31年に組織された社今王義研究会に入会、翌年には渡米してハーヴァード大学に在学、当地で結婚、帰化し、米国社会民主党員となる。ハーヴァード大学では、有島武郎に思想的影響を与えることになる。

9月8日

渡良瀬川でこの年2度目の大洪水。この洪水を契機に、被害村は示談仲裁の取消しを求め、鉱業停止請願の方向に大きく展開

この年7月、正造の警告にも拘らず、安蘇郡植野・界・犬伏3ヶ町村代表は、旧仲裁委員横尾輝吉に仲裁を依頼、9月10日に永久示談交渉を行う予定となっていた。

15日、田中正造起草「足尾銅山鉱業停止請願(草案)」、被害地に配布。鉱業停止請願行動強まる。

(正造日記による方針転換の様相)

27日、梁田郡全村、請願に決する。10月2日、安蘇郡全村(植野村除く)、請願に決する。14日、安蘇郡植野村、請願に決する。


つづく


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