2013年3月21日木曜日

1767年(明和4年)1月~4月 上杉治憲(鷹山、17歳)、米沢藩主となり藩政改革に着手。 スペイン、イエズス会を追放。  【モーツアルト11歳】

北の丸公園 3012-03-19
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1767年(明和4年)
この年
・灯油原料の統制。
「一、明和四丁亥年、小網町二丁目多田屋直三郎外一名、官に請願して綿実買問屋を命ぜらる。而して関東八ケ国に於て産出の綿実は、坂府輸出を除くの外、悉く該両名へ売却し、これを他に売買することを禁ず。而して其の物品は、相州足柄下郡早川村に於て、絞油稼人等へ売却し、これを製造して再び江戸油問屋へ売渡すべきことを布令せしめ、また同七庚寅年、摂・ 河・泉に於て絞油人の株式を定め、而して該営業者が絞草買集の産地を定めらる。」(「日本財政経済史料」)。
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・小浜藩町人学者板屋一助(材木商)、「稚狭考」10巻を完成。
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・「明和四〔一七六七〕年には人参に上中下の品を分って、それに印を付けて、品種の別を定め、上中の品には印を付け、下の物には印を付けず、国々商人二十八人を定めて、この発売を許された。これによって貧困なる病者を救う事を得たが、一方には、この人参の発売をするところの商人の手代どもが、国々に行って御上の威光を仮りて、強いて売付けることになったので、明和八(一七七一)年にはその手代どもが罰せられた事がある。」(辻善之助『田沼時代』)
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・水戸藩、漆方役所を不振のため廃止し、江戸米会所を設置して領内米の江戸販売をはかる。
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・大口屋治衛が札差を廃業。
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・太田南畝「寝惚先生文集」初編、刊行。
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・富山藩、反魂丹役所を設置して、富山売薬の専売を始める。
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・田沼意次、従四位下に叙せられ更に5千石の加増を受け、2万石の知行となる。
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・本多利明(24歳)、江戸で塾を開く。
本多利明は、延享元年(1744〉越後国村上に生まれる。宝暦11年(1761)江戸へ出て関孝和の門下今井兼延に和算を学び、また千葉歳胤に天文学を学ぶ。
彼が考えを書物としてまとめるのは、松平定信の寛政の改革が始まる頃からであるが、その思想を形成したのは、明和の頃から。
彼は、蝦夷地の開発に注目し、国内の物産を開く方法を建議し、また外国貿易についても熱心であった。
「日本は海国なれば、渡海運送交易は固(もと)より国君の第一の国務なれば、万国へ船舶を遣(や)りて、国用の要用たる産物及び金銀銅を抜取て日本に入れ、国力を厚くすべきは海国具足の仕方なり。自国の力を以て治(おさま)る計(ばか)りにしては国力次第に弱り、其弱り皆農民に当り農民連年耗滅するは自然の勢なり」(『経世秘策』)
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・スペイン、東フォークランド島のフランス植民地(ポルト・ルイ)購入。東フォークランド島の領有権確定、ソレダード島と名付ける。
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・ウルグアイ、イエズス会、教化村にグアラニー族15万を組織。バンディランテスの襲撃に対し武装強化。イエズス会の勢力伸張を恐れたスペイン、新大陸からのイエズス会の追放を決定。教化村資産は植民者により掠奪される。
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・ゲーテ(18)、戯曲「恋人の気まぐれ」を書き、レッシングの芝居「ミンナ・フォン・バルンヘルム」に出演。
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1月
・この年の初め、モーツアルト(11)、バイエルンのゼーオンにあるベネディクト修道院を訪問。
院長から3月21日のベネディクト祭用の奉献歌を依頼され、さっそく窓に寄りかかって聖ベネディクト祭の奉献歌「天の住居に昇れハ長調」(K.34)を鉛筆で書き上げる。
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3月
・「三月上旬、伊勢両宮を拝せんとて小浜より群行おひたたし」(「稚狭考」)。お蔭参り(抜け参り)の流行。
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・幕府、関八州と甲斐へ、博徒など不良の者の逮捕を命じる。
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・前年12月~この年3月12日、モーツアルト、ザルツブルク大司教ジギスムントの依頼でオラトリオ(宗教的ジングシュピール)「第一戒律の責務(第1部)」(K.35)作曲。
12日、大司教宮殿騎士の間で初演。男性2・女性3人の歌手で上演、女性歌手の1人マリア・マグダレーナは後にミハエル・ハイドン夫人となる。

当時、復活祭前40日間の四旬節にはオペラ上演が禁じられ、代りに宗教音楽・宗教劇が演奏。
ザルツブルクでは大学の学校劇が伝統的に盛んで、この曲もこうした状況の中から生まれる。
全体は3部に分かれ、当時のやり方で3人の音楽家が1部づつ担当・作曲。第1部をモーツァルト、第2部をはミハエル・ハイドン、第3部をは宮廷オルガン奏者アードルガッサーが作曲。

この頃、大司教や大学や町の金持ちなどからの注文殺到。
ミハエル・ハイドン、エーベルリンの作品に親しみ、フックの教本から対位法を学ぶ。
復活祭に、教会の礼拝堂などにキリストの埋葬を型どった「聖墓」が作られ、そこでキリストの受難と復活の宗教劇が演じられ、そのために葬送曲(パッション・カンタータ)「聖墓の音楽」(K.35a (42))作曲。
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3月6日
・フランス、シャルル・ジャン・マリ・バルバルー(物理学者、マルセイユ連盟兵組織者、ジロンド派国民公会議員)、マルセイユで裕福な商人の子として誕生。
父が西インド諸島グアドループで没後、オラトリオ修道会で教育を受け、ここで抜群の成績を修める。法学学位を取る一方、科学分野でも数々の実験結果を学会に発表。物理学者として活動していたマラーを追ってパリに出て研究を続ける。
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3月21日
・幕府、大坂送り分を除いた関東産綿実の集荷問屋を、江戸小網町と神奈川宿の2ヶ所に定める。

「翌(明和)四年の三月二十一日には、関東において得るところの棉の実を江戸の小網町と神奈川とに問屋を定めたによって、すべてそこに納む可し、その買取った棉の実は相模国足柄郡早川村において油に製して江戸の方へ売出すにより、関東の棉の実は、大坂に運び出す外は、小網町および神奈川の問屋へ売る可しという事に定められた。この油専売は大分弊が出て来たと見え、ややその法令の潤飭(じゅんちょく)をして明和七(一七七〇)年八月には、大坂の外、摂・河・泉の国々に水油を造ることを許している。また摂津国菟原・八部・武庫の三郡において水車を以て油を造るものは綿実は大坂を除いて、外の地より買入れ、菜種はその郡中において買入れて製造すべしという事を命じた。また摂・河・泉において人力を以て油を造るものは大坂の外は、いろいろの国々から買上ぐ可し、また大坂の油商はたとい問屋でなくとも諸国から油種を買いまた畿内の中で買うとも心に任す可し、すべて摂・河・泉の外では、自分の自家用のために油を製することは許されるけれども産業とすることは禁ぜられることとした。」(辻善之助『田沼時代』)
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3月25日
・ジョアシャン・ミュラ(ナポレオンのミュラ元帥)、ロート県ラ・バスティド村で旅篭屋を営む家の12人の子供の末っ子として誕生。
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3月28日
・タイ、アユタヤ、ビルマ軍の侵入受け廃墟に。アユタヤ朝滅亡
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3月29日
・ザルツブルク、コロレド侯フランツ・デ・パウラ・グントアッカル1世(後のザルツブルク大司教、当時グルクの司教ヒエローニュムス・コロレド伯の兄)の歓迎の祝宴。音楽(「ターフェルムジーク」)で技を競った「当時の少なからぬ名手たち」の中にナンネルルとヴォルフガングが加わっていたと推測できる。
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4月
・上杉治憲(はるのり、鷹山、17歳)、米沢藩主となり藩政改革に着手。
米沢藩の藩政改革の課題は、
①藩財政の窮乏、
②家臣団内部の対立、
③農村の疲弊・荒廃
などであった。

上杉家第10代藩主の鷹山は、1751年(宝暦元)に日向国高鍋藩主秋月種美の二男に生まれ、10歳の時に米沢藩主上杉重定の養子となった。
1767年(明和4)4月、鷹山は17歳で藩主となり18年間藩政を主導した。
35歳で隠居したのちも、跡継の治広の後見役として藩政に関わり、1822年(文政5)3月に72歳で没す。治憲が鷹山と号するのは、1802年(享和2)である。
鷹山の藩政改革は、竹俣当綱(たけまたまさつな)を中心とする明和・安永期(1764~81)の前期と、莅戸太華(のぞきたいか)を中心とする寛政期(1789~1801)の後期の二期に分けることができる。
前期の政策として、1774年(安永3)6月以降本格的に展開した農村の備荒貯穀制度がある
。この制度により、のちの1833年(天保4)の大飢饉の際に、米沢藩領では1人の餓死者も出さなかったと言われる。
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・モーツアルト、7歳のときに訪れて神童としてもてはやされたウィーンを再び訪れるにあたり、神童ピアニストをより印象づけるための作品として「クラヴィーア協奏曲(第1番)ヘ長調」(K.37)を作曲。残されている草稿には父親の筆跡が多いため、原曲の選択や編曲の作業などにどの程度モーツァルト自身の仕事があるのか疑問。

この頃から、劇音楽の大作を手がけるようになるが、一方で、器楽曲の分野でも、西方大旅行から持ち帰った楽譜を用いて勉強を続けている。
パリで知りあい、数々の楽譜の献呈を受けたドイツ人作曲家たち、ショーベルト、エッカルト、ラウバッハ、ホーナウアーといった音楽家のクラヴィーア・ソナタの楽章を中心に、カール・フィーリップ・エマーヌエル・バッハ(1714~88)の曲も加えて編曲した4曲のクラヴィーア協奏曲(K37、K39、K40、K41)がそれである。
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4月1日
・スペイン、イエズス会追放。
スペイン首相アランダ゙伯、イエズス会士6千人を一斉逮捕、国外追放。イエズス会所有の学校120を公立化。約1万人のイエズス会士がスペインと新大陸を離れイタリアに向かう。
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4月7日
・陸中、地震発生。潰家1戸、焼失20余の被害。
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4月15日
・農民出身の代官川崎定孝が勘定吟味役に任じられる。
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4月17日
・ザルツブルク、モーツアルト、ザルツブルク大聖堂でドイツ語受難カンタータ「聖墓の音楽」 (K42) 演奏。
11歳のモーツァルトが本当に独力で作曲できるか試すために、大司教が1週間、モーツァルトを誰とも話をさせず、5線紙とテキストだけを与え、僧院の1室に閉じ込めてこの曲を作曲させたというエピソードがある。
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4月26日
・幕府の古役人戒筯の令
「・・・明和四(一七六七〕年四月二十六日を以て、幕府は一般に令を出して、その古参役人の弊風を戒めた。これは古参の者が新職に伝え教うる事が、如何にも煩瑣であって、左までない事まで、むつかしく伝え、或は費用を喰うようにしたり、しからずんば事の行届かないように計うという事が聞える。それは誠にしかる可らざることである。という趣意であった。」(辻善之助『田沼時代』)
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4月26日
・フランス、ニコラ・シャルル・ウディノ(後、ナポレオンの元帥)、ムーズ県バール・ル・デュックで醸造業者の息子に誕生。
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