(1/7)福島県内のある大学教員が「脅迫電話が多い」と言っていた。「福島は危険」と訴えてきた彼への脅迫だ。3.11が日常を大きく変えたのに、僕たちはなお日常を続けようとする。日常を日々意識的に選択することはほぼないので、それはいわば「空気」のようなものだ。
— 住友陽文さん (@akisumitomo) 2013年3月11日
住友陽文 @akisumitomo
(2/7)日常を続けたい人にとっては「空気」は大事だから、反対にその「空気」を潰そうとする人はすぐにバッシングを受けたり脅迫を受ける。「空気」を護持する翼賛体制に思想は関係ない。それゆえとても厄介で強靱だ。自分たちが共有している足場なのだから。
住友陽文 @akisumitomo
(3/7)かつて全共闘運動が資本主義や帝国主義に抵抗しようとした時、その資本主義や帝国主義を根本的なところで支えているのは自分自身だということを悟って苦悩したのと同じ構図がある。「空気」を変えることは自己否定にならざるをえない。とても不快な事だ。
住友陽文 @akisumitomo
(4/7)「不快」だから、みんな自分と切り離して他者だけを一方的に非難する(ヘイトスピーチ)。自分がえぐられない批判は批判じゃないが、そんな自虐的な行為は好まれない。そして、非難の言葉の攻撃性とは裏腹に、それはいとも可愛い自分への単なる癒しとなる。
住友陽文 @akisumitomo
(5/7)そんなことを2年前に大阪府大のODであった林尚之くんと話をしていた。林くんは、「宮台真司がオウム事件の頃に言った“終わりなき日常を生きろ”というのは、実は“終わりなき日常を終わらせろ”という意味だったのではないか」と言い、こう続けた。
住友陽文 @akisumitomo
(6/7)「オタクというのは、自分がオタクであることを自覚していて、蔑まされた眼差しにさらされていることを自覚したうえでそのことを込みでオタクであることを楽しんでいる。それがオタクというものだ」と。自己否定する自己を“楽しむ”ということか。
住友陽文 @akisumitomo
(7/7)3.11は世の中を変えたはずだ。しかし根本的な所が変わっていないとすれば、こういう自己否定する自己を“楽しむ”という自己にみんな耐えられないということなのかもしれない。他人を下げて自分が癒される「空気」がむしろ強まっていると感じる時、そういう念がぬぐい去れない。
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