江戸城(皇居)乾門近く オオカンザクラ 2013-03-15
*元亀3年(1572)
7月
・フランス、アルバ公、反撃開始。ヴァランシエンヌよりユグノー軍を追い払う。
ルイ(オラニエ公ウィレム1世弟)とユグノー軍、アルトワ、モンスに籠城。
アルバ公、息子ドン・フェデリコ指揮スペイン軍6千にモンス包囲を命令。
コリニー、兵士4千を徴募しモンス解放に差し向けるが、7月スペイン軍に突入、反撃され潰滅。
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7月1日
・信長、松永久秀へ、7月7日に江北小谷城への出撃命令。城塞構築のため兵に鋤・鍬を持参させることなど命令。(「願泉寺文書」)。
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7月3日
・信長、勝龍寺城守備の細川藤孝へ、石山本願寺への通行者が商人に偽装・往復していることにつき、注意を喚起し、不審者は捕獲するよう命令(「米田氏所蔵文書」)。前年1月、横山城木下藤吉郎にも同様指示。
「大坂へ通路の者、商人に相紛れて往還の由、其聞え候。然らばその地に於いて、堅く相改めらるべく候。不審の輩に於いては、搦め捕り、注進有るべく候。油断なく申し付けらるべきの条、件の如し。七月三日信長(朱印)細川兵部大輔殿」
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7月7日
・朝倉先兵援軍、小谷着(「信長公記」)。
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7月7日
・ポーランド王ジグムント2世、男子後継者を残さず没(位1548~1572)。ヤギェウォ朝終る。空位期~'73。
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7月7日
・アンリ・ド・ナヴァールとコンデ公、騎兵800名を従えパリに到着。
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7月13日
・信長、美濃専福寺へ宛てて「今度天下に対し、本願寺の造意を企てる次第、前代未聞、是非なく候。所詮分国中の門下の者、大坂へ出入り停止せしむべし。然らば代坊主の儀、先ず立て置くべく候。脇々の寺内は来る十五日を限りで引き払うべし。両条とも以って違背の族(やから)あらば成敗さるべきの条、件の如し。」(「専福寺文書」)
専福寺は尾張・美濃にまたがる羽栗郡一帯に多くの末寺を持つ。
早くから信長に屈した冨田聖徳寺と木曽川を隔てた対岸にあり、伊勢・長島とは至近。
この命令では、自分の領国の門徒の大坂での出入りを禁じて、代坊主を置き、末寺は15日までに門徒を寺内から立退かせる、従わないものは成敗すると厳命(「武家の論理」)。
専福寺住職が門徒を率いて大坂に駆けつけた模様。
岐阜城にも近いこの一帯での状況は、信長にとって憂慮すべき事態。
また、石山本願寺往還を絶つことは、彼にとっては重要課題。
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7月17日
・フランス、キエブレン(キエヴラン)の戦い。
ユグノー軍、スペイン軍により粉砕。捕虜の身柄からシャルル9世の「4月27日付の手紙」が発見。
カトリーヌ、シャルル9世にユグノー軍と関係を断つことを懇願、シャルル9世、コリニーのもとに走る。
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7月18日
・ドルトレヒト12州代表会議(ホラント州議会)、オラニエ公ウィレムをホラント・フリースラント・ゼーラント・ユトレヒト頭領に選出。
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7月19日
・小谷城包囲戦。
信長6万余、信忠(16、初陣)を連れ岐阜を進発。赤坂(岐阜県大垣市)に1泊。
20日、横山城着。
21日、信長、ひばり山・虎御前山(小谷城南2km)に兵を置いた後、佐久間信盛・柴田勝家・羽柴秀吉・丹羽長秀・蜂屋頼隆が小谷城下の町を焼き払う。
浅井軍が攻撃を仕掛けるが、織田軍は小谷城の水源を奪い城下に陣取る。
22日、柴田勝家・稲葉一鉄・氏家卜全・伊賀伊賀守が小谷城を囲んでいる間、羽柴秀吉が阿閉貞征の篭る山本山城を攻撃。150人を討ち取る。
23日、織田勢、 越前との国境に近い余呉・木之本一帯、地蔵坊(木之本町の浄信寺)・堂塔伽藍・名所旧跡を焼き払う。
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7月24日
・織田軍(羽柴秀吉・丹羽長秀軍)、小谷城裏側の草野谷(東浅井郡浅井町草野川渓谷)を焼き払い、大吉寺(草野川上流野瀬奥地、坊50余の大寺)に陣取る一揆軍を夜襲し皆殺し。
織田軍別働隊(打下(高島町打下)の土豪林与次左衛門・明智光秀・猪飼野甚介・山岡玉林・馬場孫次郎・居初又二郎)、湖上より船で海津浦・塩津浦・余呉の入海・竹生島を砲撃、放火。
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7月25日
・狩野松栄(直信)、「瀟湘(しょうしょう)八景図」を描き、正親町天皇に進める。
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7月26日
・武田信玄、天台座主山城曼殊院門跡覚恕の斡旋で天台宗権僧正任ぜられる。延暦寺衆徒保護の功績。
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7月27日
・織田勢、虎御前山に築城開始(付城戦術)。8月中に完成。
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7月27日
・浅井長政、越前に使者を送る。
朝倉義景、小谷城救援のため兵1万5千を率いて出陣
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7月27日
・信長、上杉謙信へ、「越甲御間和与」斡旋の義昭「上意」を受けての幕府使者に織田側よりも2名を添える、和睦に応じ「天下之儀」を馳走を希望すると通達。詳細は松井友閑・佐々権左衛門尉に伝達させる。(保阪潤治氏所蔵文書「筆陳」2)
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7月29日
・朝倉軍1万5千余、小谷に到着し大嶽山(浅井町・湖北町間の山、原文「大づく」)に着陣。
織田軍は朝倉軍に対してはゲリラ戦を行う。
朝倉軍、動かず。
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7月晦日
・武田信玄、この日付けの奥平定能宛て判物。東三河は三河三方衆に渡し、西三河の奥平氏の本領と遠江の旧領あたこ領(浜松市)を安堵。
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8月
・北條氏、羽生城を攻める
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・この頃、中川重政、柴田勝家と所領問題で争い刃傷事件を起こし改易される。
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・フランス、シャルル9世、スペイン王フェリペ2世に宣戦布告。
カトリーヌがパリを離れた機会に、コリニーがシャルル9世に圧力、布告させる(カトリーヌ、娘ロレーヌ公妃クロードをシャロン(パリ東150km)に見舞う。クロード、マルグリッドの結婚式参加のためパリに上る途中シャロンで病気に)。
イングランドのエリザベス女王、アルバ公と交渉してフェリーペ2世の政策を支持(エリザベス、新教徒といえどもフランス人がネーデルラントに根を下ろすのは許せない)。
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8月1日
・デヴレート・ギレイ率いるタタール人12万とロシア・ヴォロトィンスキー公との戦い。モスクワ50km地点。タタール人の惨敗。
イヴァン4世(雷帝)はモスクワ帰還後、「オブリーチニナ」解散を決意。
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8月4日
・フランス、カトリーヌ・ド・メディシス、腹心のイタリア人ゴンディとビラーグより「宣戦布告」を知らされ、その日のうちにパリに帰る。
諮問会議によりシャルル9世、スペインとの戦争を断念。
コリニー以外の出席者全員、平和路線を支持。コリニー、自分の意見に従わなければ「内戦」が生じると威嚇。
カトリーヌ、コリニー殺害を決意。
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8月8日
・朝倉方前波吉継父子3人、信長陣に降伏。
9日、朝倉軍冨田長繁・戸田与次・毛屋猪介ら、信長に投降。
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8月9日
・織田勢、虎御前山・横山間の八相山・宮部郷(浅井郡虎姫町)に砦を築き宮部善祥坊を配置、道筋に高さ3m・長さ5kmの塀(防護壁つきの軍道)と水堀を築く。朝倉軍に使者(堀秀政)を送り決戦を申し込む書状を送る。朝倉方の返答はなし。羽柴秀吉、横山城入り。
虎御前山要害、完成。
北方には大嶽山の浅井・朝倉勢、西方には琵琶湖・比叡山、南方には志賀・唐崎(大津市下坂本町の唐崎神社)・石山寺(大津市石山寺辺町)、東方には伊吹山・不破の関が見える。虎御前山から後方の横山迄は3里あり、途中の八相山と宮部郷にも連絡用砦が築かれる。
信長は虎御前山~宮部郷間のまで道路改修を命じ、道幅を3間半に広げ、敵地側道路脇には50町にわたり高さ一丈の築地を築かせ川水を堰入れさせる。前代未聞の陣地構築。(「信長公記」)
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8月9日
・多聞院英俊、斎藤龍興が暫く多聞山城に身を寄せていたが、旧斎藤家臣の呼応により美濃下向との風聞に接す(「多聞院日記」2)。
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8月11日
・武田信玄、北條氏政に協力して関東に出陣。
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8月13日
・武田信玄、下間頼慶へ、足利義昭より石山本願寺・信長間の和睦斡旋命令を受けたため、先ず石山本願寺へ飛脚を以て和睦締結の旨を通知。詳細は竜雲軒・堀野左馬允が伝達(「本願寺文書」)。
信玄・本願寺の提携を嫌う信長は、これを逆用して、信玄に本願寺・信長間の講和を斡旋させる戦略をとる(義昭の権威を利用して、これを信玄に命じる)。
義昭は信玄と本願寺双方に使者を送る。
信玄はやむなく、本願寺に信長との和平を勧める。本願寺もこれを受諾。
しかし、9月10日付の本願寺から信玄への書状を見ると、信玄は本願寺の返書文面までも指示していたことが窺える。
さらに、この義昭・信玄の和平斡旋はどうやら実現しなかった模様。義昭は翌9月には信長から「異見17ヶ条」を突きつけられ将軍の権威を剥奪され、信玄も10月には三河・尾張へ西上する動きをみせている(12月、三方ヶ原で信長と同盟する家康を撃破)。
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8月15日
・信長、観音寺で、観月の宴を開く(「信長公記」)。
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8月15日
・足利義尋(義昭息子)、誕生。
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8月18日
・河内の三好義継、再挙兵。
本願寺坊官の下間頼資・頼純父子、下間頼廉、頼龍らと摂津中島城幕臣細川昭元(信良)を攻撃。
「八月十八日、大阪に色を立て、三好と申合せ、一揆共二万許(ばかり)取出、中嶋の城に寄せ候。合戦に及ばず逃げ崩れ、手負い死人多し」(「年代記抄節」)。本願寺の兵力2万との記述。
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8月18日
・上杉謙信(43)、越中新庄城にに着陣。富山城の一揆勢と対峙する。
これに対抗して加賀一向一揆が玄任の要請で越中富山城へと向かう。
謙信、神保・一揆勢を鼬川の戦いで破り、また水越勝重の篭る滝山城を攻め落とす。
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8月18日
・パリ、新教徒指導者ナヴァール王アンリ・ド・ブルボンとシャルル9世妹でカトリックのマルグリット・ド・バロアとの結婚式。
ノートル・ダム寺院にはマルグリットとその家族のみ。アンリ・ド・ナヴァールとコリニー及びユグノーは教会前広場に残る。マルグリット、「夫にするか」との問いにアンリ・ド・ギーズを見つめるだけで返事せず。怒ったシャルル9世がマルグリットを拳で殴り頭を下げさせ承諾とみなす。結婚式後、騎馬試合(最後の騎馬試合、以降、バレーや花火が催されるようになる)。(結婚式のため参集した新教徒貴族の不穏な噂により11日が延期される)
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8月22日
・フランス、新教徒コリニー提督、ルーブル宮を出て屋敷への帰路、銃撃され右手人差指を失う。
母后カトリーヌとダンジュー公(シャルル9世弟)が仕組む暗殺計画。
<経緯>
カトリーヌとアンジュー公アンリ、コリニー暗殺決意。
カトリーヌ、ヌムール公爵夫人(コリニーが暗殺したギーズ公フランソワ夫人)に暗殺話をする(コリニー暗殺後、自分への嫌疑をそらせ、ギーズ一族に暗殺の責任を取らせるため。
その後、ユグノーとギーズ一族(フェリペ2世同盟者)を争わせギーズ一族も滅ぼし、王権と国内統一を目指すカトリーヌの政策を実現させる意図)。
ヌムール公爵夫人と息子ギーズ公アンリは暗殺を請う(ヌムール公爵夫人は夫暗殺以来この合図を待っていた)。
下手人モルヴェールが狙撃した家はギーズ公の元家庭教師の家(元所有者ヌムール公爵夫人)、ギーズ一族の犯行は明白。
現場に残った火縄銃はアンジュー公アンリの親衛隊が所有するもの(カトリーヌと息子アンリにとり都合悪い)。
コリニー、ギーズ一族を名指しで非難、カトリーヌとアンジュー公アンリに対する疑念を述べる。
・午後、シャルル9世、コリニー提督を見舞う。カトリーヌとアンジュー公アンリ同行。シャルル9世、コリニーに恨みを晴らす約束。
コリニー、真犯人はギーズ公アンリであると指摘。
コリニー、人払いをさせてシャルル9世に、「シャルル9世の権力は母カトリーヌの手にかかって寸断。シャルル9世にとってもフランス王国にとっても全ての不幸はそこから生じている」と言う(シャルル9世はコリニーに従属)。
・午後、ギーズ公アンリ、シャルル9世の了承を得てパリを離れ、夜、パリに戻り私邸に閉じ篭る。
・午後、カトリーヌ、コリニーの陰謀計画を入手し、シャルル9世にユグノー殺害を説得(タリア人顧問ヌヴェール・ピラーグ・ゴンディ兄弟・タヴァンヌ元帥を召集。ユグノーに派遣したスパイのブシャヴァンヌとグラモンよりコリニーの陰謀の情報を入手)。
コリニーの寝室でのユグノー側の「開戦会議」(パリ近辺武装勢力は合図あり次第パリに突入。殺害計画:シャルル9世、カトリーヌ、王家全員、アンリ・ド・ナヴァール)。
カトリーヌ、シャルル9世にコリニーのモーでの待ち伏せを思い出させ捨て身で説得(カトリーヌのコリニー暗殺計画など)。
カトリーヌ、20余名の処刑者を選定(殺害対象者;コリニー、テリニー(コリニー娘婿)、ラ・ロシュフコー、モンゴメリー他。処刑者;ギーズ公アンリ、オマール公クロード(ディアンヌ娘婿)、アングレーム(庶子、国王異母兄弟))。
パリ市長クロード・マルセルとパリ副市長シャロンを呼び、城門閉鎖、民兵動員、セーヌ川の船の鎖での係留を命じる(2人は戦闘的カトリックでギーズ一族。カルヴァン主義者全員の殺害を決意)。
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8月23日
・松永久秀・久通、山城木津城攻撃。
27日、大和木津表へ手勢を派遣、苅田を強行、翌日、引き払う。
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8月23日
・フランス、聖(サン)バルテミーの虐殺、第4次ユグノー戦争(宗教戦争)開始。
シャルル9世母メディチ家出身カトリーヌ・ド・メディシス(アンリ2世母)とギーズ公の命令。
全国の新教徒(ユグノー、カルヴァン派)の家を次々に襲い虐殺。
コリニー提督殺害。コンデ公、ナヴァール王逮捕。王の親友ラ・ロシュフーコー公殺害。
指導者のみでなく手の届く限りの貴族・平民・老若男女のユグノーを殺害 → <<穏健派カトリック(政治家)とユグノーの統一>>
サン・ゲルマン・ロセルルワ教会の鐘が1時間半前に鳴りだし虐殺開始。
①午前4時、ギーズ公アンリとオマール公クロード、コリニーを襲撃。殺し屋ベーム(本名ヤネヴィッツ、チェコ人)、コリニーをベッドで殺害。
②アンリ・ド・ナヴァールとコンデ公アンリ、シャルル9世が保護、改宗とミサ参加を強要。アンリ、カトリックに改宗(9/26)。コンデ公、改宗拒否。
③ラ・ロシュフコー、自邸でシコ(国王道化役の弟)により暗殺。
④テリニー(コリニー娘婿)、屋根に登ったところを火縄銃で撃たれる。
⑤モンゴメリー、ロンドン逃亡。
地方の状況(虐殺が3ヶ月間継続)。
<虐殺が行われた地方>ユグノーの掠奪・迫害に悩まされ、統制不十分の地方。
8月末~9月初め、モー、トロワ、オルレアン、ブールジュ、アンジェ、ソーミュール、ラ・シャリテ、リヨン。
秋、南西部の都市(ボルドー、トゥールーズ、ガイヤック)。
<平穏な地方>シャンパーニュ、ブルゴーニュ(ギーズ一族が掌握の地方)。低(バス)ノルマンディ(マティニョンが強力に制御の地方)。ドーフィネ、プロヴァンス、オーヴェルニュ(統治の行き届いる地方)
虐殺の犠牲者。
パリ、ジャン・オリユー説は約2千(オリヴィエ・クリスタン説3千)。ユグノーは787名のみ、残りは庶民同士による虐殺の被害者。地方、約1万。イングランド・ドイツ・ジュネーヴ等外国への亡命者 。カトリックへの改宗者(特に北フランスに多い。ルーアン、住民1万6千中改宗者3千)。
ローマ教皇グレゴリウス13世、虐殺の報を受け祝賀大祭行う。
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8月27日
・トスカナ大公フランチェスコ・デ・メディチ側室ビアンカの夫ピエトロとその愛人マドンナ・カッサンドラ、殺害される。
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8月28日
・大暴風雨。朝倉軍、柴田勝家陣地に放火。(島記録)
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8月28日
・シャルル9世、王国におけるユグノーの説教・集会の廃止を宣言。
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