北の丸公園 ヒマラヤヒザクラ 2013-03-11
*明治36年(1903)
10月8日
・日清両国間の追加通商航海条約調印。奉天大東溝の開放を清国承認。1904年1月11日批准交換。
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10月8日
・菅野須賀子(22)、反戦小説「絶交」(「基督教世界」第1050号掲載)。
宇田川文海の紹介で「大阪朝報」に入社、「絶交」を書いたときは三面主任。
この年、大阪婦人矯風会へ入会し、半年後には文書課長に推薦され、矯風会講演会で島田三郎に、社会演説会で木下尚江らに面会、感激している。
さらに、天満教会で長田時行牧師から洗礼を受ける。
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10月8日
・この日、ロシアの第3期撤兵期限の日。
政府系「東京日日新聞」以外の諸新聞は一斉に主戦論主張。政府に最終決断を迫る。
非戦論は黒岩周六「萬朝報」、島田三郎「東京毎日新聞」、地方の「滋賀日報」「牟婁新報」、雑誌では社会主義協会機関誌「社会主義」(片山潜)、「六合雑誌」。
「萬朝報」もこの日夕方、開戦論に転換(進歩党系の円城寺天山にひきずられ、黒岩社長も営業政策上、これに同意)。
円城寺天山の論説「戦は避く可からざるか」
「吾人は我国忠良なる良人の一部として、五千万と共に熱心なる平和の希望者なり。吾人が如何の心事をもって平和を希望するかは、世の諒するところなるペし。
しかれども今は風雲ようやく急にして、戦のあるいは避く可からざるものあらんとす。事すでにここに至る。吾人は当局者の無能、能く平和を樽俎(そんそ)の間に維持しえざることを責めざるべし・・・」
この日、夜勤の堺利彦が夕刻に出社すると、地方版が刷り上がってきた。
そこには、大きな見出しで『萬朝報』は開戦を主張するという短い宣言文が載っていて、明らかに社長の黒岩涙香が書いたものだった。
昼間の編集の締め切り後で、涙香がそこだけを差し替えさせたのだ、と堺は直感した。
幸徳秋水はこの日、昼の仕事を終えてから社会主義協会主催の社会主義非戦論大演説会(神田青年館)に出かけているが、もしこの宣言文を知っていれば、黙って出かけるはずがない。
堺が演説会場である神田青年館へ行くと、幸徳秋水、安部磯雄、片山潜、西川光二郎、木下尚江らの弁士がそろっていて、みな『萬朝報』の態度の急変に驚いた。
演説会終了後、堺は秋水と共に自転車で秋水の家に行き、ほとんど徹夜で話し合って朝報社退社を決めた。
翌9日朝、2人が自転車で内村鑑三の家を訪れて退社の決意を告げると、内村も退社より他はないという意見であった。
3人はその日午前に黒岩涙香に面会して退社を申し出た。
黒岩涙香は3人をなだめ、留任してほしいと熱心に頼んだ。
一種の騙し討ちをして主戦論に鞍替えしたが、3人が泣き寝入りしてくれるのではないか、と考えていたかもしれない。
同席していた円城寺も、自分が退社するので3人は残って社長を助けてくれと言う。
しかし、既に新聞に発表したことなので、やはり自分たちが辞めるのが順当だと秋水が力説し、涙香もあきらめて退社を承認した。
翌10日、堺は2ヶ月分の月給を受け取り、4年余り勤めた朝報社に別れを告げた。
この日、内村鑑三は家に帰って、「聖書之研究」を続刊できるかどうかと、妻シズ子に相談すると、彼女は3ヶ月は持つと言う。
鑑三は餓死するようなことがあっても「聖書之研究」は続けようと覚悟する。
すると、ドイツのスツットガルトの書店から、旧著「余は如何にして基督信徒となりし乎」のドイツ訳版初版3千部の印税1千マルクが送金されてきた。
その上、この出版が動機となって、出版者の息子が、宣教師として日本へ派遣されるという嬉しい便りも届く。
師岡千代子『風々雨々』によれば、『萬朝報』を去る際、秋水は妻の千代子に今後の生活がいかに苦しくなるかを語り、厳粛な面持ちで覚悟を要求したという。
堺利彦の場合は、病気が完治していない妻と、その年に生まれたばかりの娘を抱えての失業であり、秋水以上に悲痛な決意をしていたはずである。
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10月10日
・清国、日本正金銀行より借款。
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10月10日
・イギリス女性参政権運動家エミリーン・パンクハースト夫人(45)、マンチェスターの自宅で女性参政権獲得を目指す戦闘的組織・女性社会政治同盟(WSPU)結成。
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10月10日
・平木白星「征露の歌」(この日付「読売新聞」)。
白星は愛国的詩人ではあったが、以前はロシアとの戦争には反対の立場を取っていた。アジア地域の平和的発展が日本の国益になり、それにはロシアとの友好関係が不可欠としていた。
明治34年刊行『片袖 第二集』には、白星の「望北の歌」「日本国歌」「亜細亜」が寄せられているが、「日本国歌」では日清戦争以降の日本の発展ぶりが讃美され、さらに人類共同による世界国家建設への理想的夢幻が語られている。
「亜細亜」では、韓国、清国、インド、フィリピンなどのアジア諸国の憂うべき現状と、シベリアという未開拓の地平に思いを馳せ、日露両国が憎悪と猜疑の感情を棄てて、世界平和の礎を築くことへの希望を訴えている。
「望北の歌」でも、愛国の至情を漲らせつつ日露の親和を主張。
このように明治34年当時には非戦論に立っていた詩人・平木白星も、明治36年になると、しばしば条約を一方的に反故にして、満州を不法占拠し続けるロシアに絶望し、主戦論へと意見を変えていた。
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10月12日
・この日付け『萬朝報』一面トップに、内村鑑三の「退社に際し涙香兄に贈りし覚書」、堺利彦と幸徳秋水の「退社の辞」、それに対する涙香の「内村、幸徳、堺、三名の退社に就て」が掲げられた。
この日夜、朝報社の友人達が築地の精養軒で送別会開催。築地精養軒。
13日、堺が麻布宮村町の秋水宅を訪問、週刊新聞発行を決める。
退社の辞
予等二人は不幸にも対露問題に関して朝報紙と意見を異にするに至れり。
予等が平生社会主義の見地よりして、国際の戦争を目するに貴族、軍人等の私闘を以てし、国民の多数は其為に犠牲に供せらるる者と為すこと、読者諸君の既に久しく本紙上に於て見らるる所なるべし。然るに斯くの如く予等の意見を寛容したる朝報紙も、近日外交の時局切迫を覚ゆるに及び、戦争の終(つい)に避くべからざるかを思い、若し避くべからずとせば挙国一致当局を助けて盲信せざる可らずと為せること、是亦諸君の既に見らるる所なるべし。
此に於て予等は朝報社に在つて沈黙を守らざるを得ざるの地位に立てり。然れども永く沈黙して其所信を語らざるは、志士の社会に対する本分責任に於て欠くる所あるを覚ゆ。故に予等は止むを得ずして退社を乞ふに至れり。
予等の乞に対し、黒岩君は寛大義侠の心を以て切に勧告せらるる所ありたれども、事茲(ここ)に至りては亦奈何ともすること能はず、予等は終に黒岩君其他社友の多年の好誼に背きて一たび此に袂を別つに至れり。但、朝報紙編輯の事以外に於て、永く従来の交情を持続せんことは、予等の深く希望したる所にして、又黒岩君其他の堅く誓約せられたる所なり。
敢て情を陳じて、読者諸君の諒察を仰ぐ。
堺 利彦
幸徳伝次郎
堺利彦『予の半生』では、このときの退社を「予の生涯に於ける一大段落であった」と述べている。
この日昼、横須賀海軍工廠の造船見習工だった荒畑勝三(寒村、16歳)は、昼の弁当を食べながら弁当箱を包んでいた『萬朝報』を広げ、「退社の辞」を読んだ。
「火花が眼を射たような衝撃を感じた」勝三は、社会に広がる主戦論に抗して敢然と非戦論を主張し『万朝報』を去った2人の「退社の辞」に身が震え、生涯を社会主義者として生きる決意をする。『寒村自伝』には、「明治三六年十月十二日の感激は、永久に私の心から消え去ることはあるまい」とある。
「この「退社の辞」は特に青年に大きな影響を及ぼし、当時まだ横須賀海軍造船工廠の少年見習工だった著者(*荒畑寒村)は、これを読んで感奮して社会主義者たる意を決した。また、かつて社会党委員長であった故河上丈太郎は、中学校在学中にこの一文から非常な感激をうけたといわれる。」(「寒村自伝」)
「二人(*幸徳・内村)にくらべれは、堺はズッとおくれて入社し、月給の額なども幸徳は六十五円(主筆の松井柏軒が月給百円の当時)、堺は五十五円であった。しかし非戦論の態度たおいては、堺が一番強硬で退社問題についても断然二人をリードし、幸徳も内村も堺にひきずられて退社にふみ切った気味が多分たあったと、これも石川(*石川三四郎、黒岩社長の秘書役)が記している。後に石川が退社の際における堺の勇気を称したら、堺は「僕が強いわけじゃない、月給の一番安い境遇が強かったのサ」といって笑ったそうだ。
当時の堺は、夫人、ミチ子が久しく肺患療養のために転地し、一女真柄はまだ襁褓(むつき)の裡(うち)にあり、三人のうちもっとも悪い境遇にあった。普通ならばこういう場合は、月給の一番安い位置にある者がもっとも弱いのが常であるから、堺の強かったのは別に因るところがあったのでなければならぬ。」(「寒村自伝」)
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10月12日
・桂首相、内相兼任。児玉源太郎台湾総督兼参謀次長就任(田村少将没による後任)。
黒龍会幹部杉山茂丸が山県元帥に推薦、山県が桂に勧め、対露強硬論者の児玉を参謀本部へ送り込む。勅任官である参謀次長では格下げになるため、親任官の台湾総督も残す。
参許本部総務部長井口少将の日記。
「児玉男爵内務大臣ヲ去ツテ参謀本部次長ノ職ニ就カルルニ会ス。以テ、天ノ未ダ我帝国ヲ棄テザルヲ知ル。何等ノ喜悦、何等ノ快事ゾ」
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