江戸城(皇居)東御苑 カワヅザクラ 2013-03-07
*ナオミ・クライン『ショック・ドクトリン』を読む(63)
「第5章 まったく無関係 - 罪を逃れたイデオローグたち -」(その3)
世界人権宣言と「良心の囚人」
チリの最大の人権擁護団体である平和委員会は、野党の政治家や弁護上、教会指導者などによって構成されていた。
彼らは終生にわたる政治活動家であり、拷問をやめさせ政治犯を釈放させるための活動が、それよりはるかに広範な、国家の富は誰のものかをめぐる戦いの一部であると認識していた。
だが軍事政権の次の犠牲者になることを回避するため、彼らはブルジョア階級打倒という従来の旧左翼的スローガンを捨てて、「普遍的な人権」という新しい表現を習得した。
富める者と貧しい者、強者と弱者、北と南という言葉をきれいさっぱり脱ぎ捨て、北米やヨーロッパで社会に広く浸透している「人権」という言葉を用いて、彼らはただひたすら、すべての人間は公正な裁判を受け、残酷で非人道的な処遇から解放される権利を持つと主張した。
なぜそうなのかは問わずに、ただその事実を前面に押し目した。
法律用語と人間への関心とが混じり合った言葉で人権を語ることによって、彼らは拘留された同志たちが、世界人権宣言第一八条と第一九条で保障された思想と言論の自由を侵害された、「良心の囚人」にほかならないことを知った。
独裁政権下で生活している人々にとって、この新しい言語は本質的に暗号の役割を果たした。
音楽家が隠喩(メタファー)によって歌詞にひそかに政治的メッセージを込めるように、彼らは法律用語を装って左翼思想を表現した。
政治について語ることなく政治にコミットしていた。
* このように用心してさえ、人権擁護活動は国家テロの手を免れ得なかった。
チリの刑務所は人権弁護士で溢れ、アルゼンチンの軍事政権はベテランの拷問担当官に身内を失くして悲嘆にくれるけ親のふりをさせ、「広場の母親たち」に潜入させた。
一九七七年一二月、「母親たち」に強制捜査が入り、同団体のリーダー、アスセナ・デ・ビセンティを含む一二人の母親と二人のフランス人修道女が連行され、彼女たちは二度と戻らなかった。
急速に拡大する国際人権擁護運動が、ラテンアメリカの軍事政権によるテロ・キャンペーンに矛先を向けたとき、その活動家たちにもまた-事情はまったく異なるがー政治的言語を回避しなければならない理由があった。"
フォードの存在
フォード財団:人権運動に巨額の資金を投じる世界最大規模の慈善財団
国家テロとその背後にあるイデオロギー・プロジェクトとの結びつきを不問に付すというのは、この時期のあらゆる人権擁護関連の文献に共通する特徴だった。
アムネスティが沈黙したのは、東西冷戦下で中立的立場を守るためだったと理解できるが、他の多くの団体にとっては、もうひとつ別の要素が働いていた-カネである。
人権運動に群を抜いて大きな資金を提供していたのは、世界最大の規模を持つ慈善財団、フォード財団だった。
六〇年代、同財団が人権運動に提供した資金はごく僅かだったが、七〇~八〇年代にはラテンアメリカの人権問題に関する活動に三〇〇〇万ドルという巨額の資金を投じている。
資金の提供先はチリの平和委員会のようなラテンアメリカの組織もあれば、アメリカズ・ウォッチのようなアメリカに拠点を置く団体もある。
「エリート階級の近代化なくして国家の近代化はありえない」
:とりわけ強い右翼傾向が見られたわけではない
軍事クーデター以前、南米南部地域におけるフォード財団の主な活動は、経済学と農業科学の分野の研究者を国務省と緊密に協力しながら養成することだった。
国際部部長代理のフランク・サットンは、同財団の考え方を「エリート階級の近代化なくして国家の近代化はありえない」と説明している。
マルクス主義の革命思想に代わるものの育成・促進という冷戦時代の論理の枠内にがっちりはまってはいたものの、フォード財団の研究助成金に、とりわけ強い右翼傾向が見られたわけではない。
助成金を得たラテンアメリカの学生たちは幅広くアメリカの大学で学び、大学院への助成金も、左寄りの評判を持つ大規模な公立大学を含む多様なラテンアメリカの入学に交付されていた。
シカゴ学派拡大への最大の資金提供
だが注目すべき例外もいくつかあった。
先述したとおり、何百人というラテンアメリカ出身のシカゴ・ボーイズを輩出したシカゴ大学のラテンアメリカ経済研究研修プログラムの主要な資金は、フォード財団が提供していた。
フォード財団はまた、隣接する国々の学生をチリのシカゴ・ボーイズのもとで学ばせることを目的とした、サンティアゴのカトック大学の同様のプログラムにも資金を提供した。
これによってフォード財団は、意図的であるかどうかは別にして、シカゴ学派のイデオロギーをラテンアメリカ全域に広めるうえで、アメリカ政府をもしのぐ最大の資金提供者となった。
チリでもインドネシアでも
砲火の雨の降るなか、シカゴ・ボーイズがピノチェト将軍とともに権力の座に就いたことを、フォード財団は苦々しい思いで眺めていた。
シカゴ・ボーイズへの資金提供は、「民主的目標をより大きく実現するために経済械関を改善する」という同財団の使命の一環として行なわれてきた。
ところが今や、同財団の助成によってシカゴとサンティアゴに設立された二つの機関はともに、チリの民主主義を転覆するうえで中心的な役割を担い、そこで学んだ学生たちはアメリカで受けた教育を衝撃的な残虐性という文脈で応用しようとしていた。
さらに同財団にとって厄介なことに、助成の恩恵にあずかった者が暴力的な手段を介して権力を掌握するという事態は、これで二度目(しかもほんの数年の間に)だった。
最初のケースは、一九六五年にインドネシアでスハルト将軍が起こした流血のクーデターによって権力の座に就いた「バークレー・マフィア」である。
フォード財団に向けられた民衆の怒り(インドネシア)
フォード財団はインドネシア大学にゼロから経済学部を創設するために資金を提供したが、スハルトが権力を握ったとたん、「このプログラムで学んだ経済学者のほぼ全員が政府の要職に就いた」と同財団の記録には書かれている。
学生の指導にあたる教師は大学からほとんどいなくなってしまった。
一九七四年、インドネシアで「外国人による経済破壊」に反対するナショナリストの暴動が起き、フォード財団にも民衆の怒りが向けられた。
同財団こそ、インドネシアの石油や鉱物資源を欧米の多国籍企業に売るよう、スハルト政権の経済顧問らに教え込んだ張本人だというわけだった。
フォード財団への批判とフォード財団の素早い変身
チリのシカゴ・ボーイズとインドネシアのバークレー・マフィアの両方に関して、フォード財団には良からぬ評判が立ちつつあった。
同財団の二つの看板プログラムの卒業生がどちらも、世界でもっとも悪名高い残虐な右派独裁政権の中枢で支配権を握っているというのだ。
むろん、卒業生たちが習得した理念がそのように野蛮な形で実行に移されるなど、フォード財団の知るよしもないことだった。
しかし、平和と民主主義に貢献すべき財団がなぜ独裁主義と暴力の泥沼にはまってしまったのかという、いささか気まずい疑いの声が、あちこちから噴出したのである。
第三世界における人権活動に対する主要な資金提供者
パニック状態に陥ったのか、社会的良心のためかーあるいはその両方か-はさておき、フォード財団はこの問題に対していかにも優等生らしく、先を見越した対応をした。
七〇年代半ば、同財団はいわゆる第三世界に対する「技術的専門知識」の提供者から、第三世界における人権活動に対する主要な資金提供者へと変身を遂げた。
この方針転換はとりわけチリ、インドネシア両国にとって不快なものだった。
両国の左派がフォード財団の力を借りて成立した政権によって消し去られたあと、その同じ政権によって拘束された何十万人という政治犯の解放に尽力する新たな改革派弁護上たちに資金を提供したのは、ほかでもないフォード財団だったからだ。
限定的な人権活動支援
批判の矢面に立つことの多かったそれまでの歴史を考えると、フォード財団が人権問題へと舵を切った際に、その領域を可能な限り狭く定義したことは十分うなずけよう。
同財団がとりわけ肩入れしたのは、自らの活動を「法の支配」「透明性」「良い統治」を求めて法を尊重しつつ戦うことだと位置づけている団体だった。
ある財団幹部の言葉を借りれば、チリでの同財団の姿勢は、「政治には極力関わらない」というものだった。
それは、フォード財団が本質的に保守的な体質(すなわち米政府の外交政策と同一歩調を取り、それに反することはしない)を持っていたからだけではない。
チリにおける弾圧の背後にある目的について、いかなる形であれ本格的な調査を行なえば、それがわが身に返ってくるのは必然だった。
同財団がチリの現在の指導者に経済原理主義を吹き込むうえで重安な役割を果たしたという事実が問われるのは、目に見えていたのだ。
*一九五〇年代、フォード財団はしばしば、反共の立場を取る研究者やアーティストに、CIAの資金を本人にも資金源を知られないように提供する偽装団体の役目を担っていた。
このプロセスについてはフランシス・ストーナー・ソーンダーズ著『文化の冷戦』に詳しい。
アムネスティはフォード財団から賢金を受け取っていないし、ラテンアメリカでもっともラディカルな人権擁護団体「五月広場のけ親たち」も同様だ。
フォード財団とフォード・モーター杜との避けられない関係
両者の関係は、とくに現場の活動家にとって複雑なものだった。
今日、フォード財団はフォード社やその相続人とはまったく切り離された独立の組織だが、五〇~六〇年代にアジアやラテンアメリカの教育プロジェクトに資金を提供していた時期には、そうではなかった。
フォード財団は一九三六年、ヘンリー・フォードと息子のエドセルを含むフォード・モーター杜の三人の役員によって創設され、その後財団の資金が拡大するに従い独立して運営されるようになった。
しかし、同社の出資金が財団から完全に引き上げられたのは一九七四年(チリ・クーデターの一年後、インドネシア・クーデターの数年後)になってからであり、理事会には一九七六年までフォード家のメンバーが含まれていた。
奇妙な矛盾
南米南部地域においては、なんとも奇妙な矛盾が生じた。
フォード社は敷地内に秘密拘留施設を持ち、自社の労働者を行方不明にすることにも手を貸していたとされ、テロ装置ときわめて密接に結びついていた。
そのフォード社の持つ慈善活動の遺産が、最悪の人権侵害を終わらせるための最大のチャンス(唯一のチャンスであることもしばしばだった)を提供した。
この時期、フォード財団は人権活動家に資金を提供することで、多くの人命を救った。
米連邦議会がアルゼンチンとチリに対する軍事支援の削減を決めたのも、少なくとも一部は同財団の功績だった。
これにより、南米南部地域の軍事政権による極悪非道な弾圧政策は、徐々に規模縮小へと追い込まれていった。
ただし、人権問題には関わるが、「政治には関わらない」
だが、フォードが救いの手を差し伸べたとき、そこには大きな犠牲が伴った。
すなわち、人権擁護運動の持つ知的な誠実さが-意識的であるかどうかは別にして-失われてしまった。
同財団が人権問題には関わるが、「政治には関わらない」という決断を下したことによって、暴力がなぜ起きているのか、それは誰の利益になるのか、という肝心の問いを投げかけることは不可能になってしまった。
新自由主義経済の暴力性を語らぬ人権団体
このことは、自由市場革命の歴史を歪んだ形で伝えるという結果を招いた。
自由市場経済の誕生を取り巻く途方もなく暴力的な状況については、これまで殆ど言及されてこなかった。
シカゴ大学の経済学者が拷問について何も語らなかった(彼らの専門領域とはなんの関係もなかった)のと同様、人権擁護団体もまた、経済的領域で起きていた過激なまでの変化について殆ど語らなかった(彼らの関心の対象である狭い法律分野の埒外だった)
ブラジルの真実和解委員会
この時期に、弾圧と経済改革とが一つ統一的プロジェクトだったことを示唆した主要な人権問題報告書は、『ブラジル - 二度とくり返すな』だけだった。
意味深いことに、これは国家とも外国の財団とも関係なく独立して出版された唯一の真実和解委員会報告書だった。
基になったのは軍の裁判所の記録であり、それはブラジルがまだ軍政下にあった時期に勇気ある弁護士や教会の活動家たちが、長い年月をかけてこっそりコピーしたものだった。
背筋の寒くなるようないくつかの犯罪について詳述したあと、著者らは他の報告書では慎重に回避された核心的な問題-どうしてこのような事態になったのかという問い-を提起する。
そして淡々とした調子でその問いにこう答える。
「国民のもっとも多数を占める階層においてこの経済政策がまったく不人気だったために、この政策は力ずくで実施される必要があった」
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