2014年12月9日火曜日

1786年(天明6年) 天候不順・諸作物に被害 長州藩山間部一揆(出奔と蜂起) 全国人口減少 脱農貧農層の都市流入⇒都市貧民層の増大と先鋭化 農村手工業地域の形成 林子平『海国兵談』 【モーツアルト30歳】

江戸城(皇居)二の丸雑木林 2014-12-09
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1786年(天明6年)
・この年も天明3年と同様に春の訪れは遅く、土用中も雨が降り続き、8、9月の大風雨は田畑の諸作物を直撃し、早稲・晩稲に大きな被害を与える。
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・1786~88(天明6~8)年の3年間、長州藩山間部請紙生産諸宰判を中心とする百姓一揆の時代。
山間部一揆の特質は、「只今の通りニてハ、御百姓取続きがたき」(徳地一揆「覚」天明6年)ため、集団的出奔と一揆蜂起との密接不可分の結合。
典型的事例は、180人の出奔を伴う徳地宰判柚木・川上中・刀禰・小野諸村の一揆、20人の出奔を伴う奥阿武宰判生雲村の一揆、50~70人の出奔を伴う徳地宰判馬神村の一揆。
出奔・一揆農民は、「宿元立帰り候ても、わらび・葛根を掘り候ばかりニてハ、余分の家子取続き得仕らず」(徳地一揆「覚」天明7年)と訴え、説得に当る村役人に「飢飯米」支給を要求。藩は、これらの宰判建直しのために御宥免楮(こうぞ)・御救御恵銀・難渋者修甫飯米・折下米・当分米・楮植付飯米などを次々に支給しなければならない。
洪水・旱害・飢饉・出奔人の展開は、宝磨検地の年貢増徴策を破綻させ、惹起される藩財政の一層の悪化は、更に治水・飢饉対策を破綻させる悪循環を生み、天明百姓一揆に激発させる。
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・1780(安永9)年~この年迄の6年間、全国人口は140万人減少。
脱農貧農層の都市への流入。⇒都市貧民層の増大と先鋭化。

宝暦~天明期、地主制が進展し、領主・地主の二重の苛酷な収奪に、没落乃至は農業離脱する貧農層が輩出し、彼らは大都市に流入する。
しかも、こうした矛盾激化により、上層大高持の地主経営すら深刻な動揺に見舞われる。
下層農民の脱農化の増大は、農業労働力不足、奉公人給金・日雇賃銭の高騰を招き、地主手作或いは質地地主経営自体をも危機に追い込む。

「在かた人別多く減じて、いま関東のちかき村々、荒地多く出来たり、やうやう村には名主ひとりのこり、その外はみな江戸へ出ぬ」。(人口減少について)、「減じたる人みな死ぅせしにはあらず、只帳外となり、又は出家山伏となり、又は無宿となり、又は江戸へ出て人別にもいらずさまよひありく徒とは成りにける」(松平定信「宇下人言」)。

都市の社会構造も変貌。
都市内部の固有の階層分化による没落小商工業者の貧民化と、農村の階層分化に伴う農業離脱貧農層の都市流入という、二重の契機による都市下層貧民層の増大と、反体制的社会階層として質的転化。
彼らの主体は、この期には、領主階級や特権的都市民層と鋭く対立する存在となる。
1787(天明7)年、全国各地の主要都市にほぼ同時的に激烈な打毀しが勃発。
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・市場構造も大きく変化。
従来都市手工業に独占されていた技術が、地方へ伝播し、畿内以外の地域にも商品(特産物)生産が急速に展開。最終加工工程はなお多く都市に残しているとはいえ、分業関係の進展により、中間加工の一部が農村内に定着し、農村手工業地域の形成がみられる。

このことは、商品流通・カ格形成の在り方に変化をもたらし、畿内(とりわけ大坂)の経済的地位の相対的低下、或いは米価低落(「米穀下底」)と諸物価高騰(「諸色高直」)という乖離現象が生じる。
米価低落は、領主財政窮乏化を背景に、幕藩領主による畿内等中央市場への集中的窮迫販売を一つの要因とするが、「諸色高直」現象は、原料生産地から加工業地化へという生産構造の変化が、都市特権問屋商人の不当な買叩き値段を否定し、生産者価格が中央市場価格に反映するようになった結果と考えられる。
そしてそこに、生産者と直結する在郷商人や、都市における非特権の仲間外商人の活躍する素地が形成され、既成の流通市場に動揺をもたらす。

本百姓経営の維持とその上に体制的に一定度の地主制を容認することによって、年貢増徴を成功させてきた享保改革の基調と、商品生産発展の成果を、都市商業資本を介して吸収せんとした田沼政策の基調も、宝暦~天明期を通しての社会・経済基盤の変動と、その諸矛盾の爆発としての階級闘争の激化によって、挫折を余儀なくされる。
このような幕藩制社会の全構造的な危機の克服をめざすものとして、寛政改革が要請される。
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・林子平『海国兵談』完成。全16巻。1788年、第1巻のみ刊行。

(改行、段落を施す)
「海国の武備は海辺にあり。海辺の兵法は水戦にあり。水戦の要は大銃にあり、是れ海国自然の兵制也。
昇平久き時は人心弛む。人心弛む時は乱を忘るゝ事、和漢古今の通病なり。是を忘れざるを武備といふ。
蓋し武は文と相並んで徳の名なり。備は徳にあらず事なり。変に臨て事欠さる様に物を備置を云なり。
当世の俗習にて、異国船の入津は長崎に限りたる事にて、別の浦江船を寄する事は決して成らざる事と思へり。実に太平の鼓腹する人と云うべし。
既に古は薩摩の坊の津、筑前の博多、肥前の平戸、摂州の兵庫、泉州の堺、越前の敦賀等え異国船入津して物を献じ、物を商いたること数多あり。
是自序にも言し如く、海国なるゆえ何国の浦へも、心に任せて船を寄せらるゝことなれば、島国なりとて曾て油断は致されざる事也。
是に因て思へば、当世長崎の港口に、石火矢台を設て備を張が如く、日本国中東西南北を論せず、悉く長崎の港の如くに備置きたき事、海国武備の大主意なるべし。

さて此事、為し難き趣意にあらず。今より新制度を定て漸々に備なば、五十年にして、日本の惣海浜堂々たる厳備をなすべき事、得て期すべし。疑ふこと勿れ。
此の如く成就する時は、大海を以て池と為し、海岸を以て石壁と為し、日本といふ方五千里の大城を築き立たるが如し。豈愉快ならずや。
竊に憶へば当時長崎に厳重に石火矢の備有りて、却て、安房・相模の海港に其備なし、此事甚不審。
細かに思へば、江戸の日本橋より唐・阿蘭陀まで境なしの水路なり。
然るを此に備へずして、長崎のみ備るは何ぞや。
小子が見を以てせば安房、相模の両国に諸侯を置て、入海の瀬戸に厳重の備を設けたき事なり。
日本の惣海岸に備る事は、先ず此の港口を以て始と為べし。是海国武備の中の又肝要なる所なり。
然と云とも忌諱を顧りみずして有の侭に言は不敬なり。言はざるは又不忠なり。此の故に独夫、罪を憚らずして以て書す」(「海国兵談」)。
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