2014年12月6日土曜日

寛治5年(1091) ロゲリウス1世によるシチリア統一。 源義家と源義綱が兵を構える(「義家朝臣と舎弟義綱権を互いにし、両方威を争うの間、攻伐を企てんと欲す。天下の騒動、これより大なるはなし」)。 藤原清衡が関白師実に馬を献上。

北の丸公園 2014-12-05
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寛治5年(1091)
この年
・源義国、義家3男として誕生。幼名を普賢丸と言う。(1082年誕生説あり)
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・アプーリア公ロゲリウス・ボルサ、叔父シチリア伯ロゲリウス1世にパレルモの半分の領主権と町の行政権を割譲。
ロゲリウス1世の支配地域(シチリア島、カラーブリア)。
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・ボニゾン・ド・スートリ、没。教会法学者、叙任権闘争時代に反皇帝の論陣を張る。
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1月
・源義綱、藤原師実が節会に参内する際の行列の前駆をつとめる。
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1月6日
・地震あり。
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2月
・シチリア統一。
シチリア伯ロゲリウス(ロジェ)1世(58)、シチリア攻略戦争終了(1060~1091)。
シチリア島イスラム最後の拠点ノト(ノート、ヴァル・ディ・ノト、東側南部)陥落。余勢をかってパンテレーリア島・マルタ島(シラクサ島南の島)攻略。
ロゲリウス1世は南イタリアの実力者となる。
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2月17日
・上皇、高野山に参詣。
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2月17日
・中宮職、若狭などの諸節・旬贄は内膳司を経由しないで直接収納したいとの申請。
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3月
・コルドバ住民、セビーリャ王ムータミド息子に反乱。ムラービト朝に城門を開く。
ムラービト朝軍隊は、カルモナ占領、セビーリャ包囲。
(スペインのイスラム諸王は共同戦線をはってモロッコからのムラービト朝アミールに対抗。効果なく、カスティーリャ王アルフォンソ6世に援助を求める)。
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3月5日
・地震あり。
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3月8日
・清水寺焼失。
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3月10日
・東大寺、若狭封戸からの米20石の代物の仮納返抄を出す。
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5月
・スコットランド王マルカム3世、ウイリアム2世に臣従礼。
ウィリアム2世のノルマンディ出征の隙をつき、マルコム3世がノーザンブリア州へ侵入、ほぼ同時にウェールズ国境でも紛争勃発。
ウィリアム2世はノルマンディ公と共にイギリスへ帰還、まずウェールズ国境紛争を処理し、陸海軍を大動員して北上。艦隊は嵐に遭遇し壊滅。
マルコム3世は、ウィリアム2世北上の報に軍を動員して南下。
ノルマンディ公ロベールが仲介、両王は和睦し戦いは回避。
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6月12日
・源義家の郎党藤原実清と源義綱の郎党藤原則清、河内の所領の領有権を争い、源義家と源義綱、兵を構える。
朝廷、宣旨を5畿7道に下し、この戦いの為に兵が上洛するのを禁じる。
また、田畑の公験を源氏に寄せることを禁止(源義家への荘園寄進禁止)。
2人の主人の関白藤原師実が調停。

「宣旨を五畿七道に給い、前陸奥守(源)義家隋兵の入京并びに諸国百姓田畠公験を以て好みて義家朝臣に寄する事を停止す。件の由緒は、藤原実清と清原則清、河内国の領所を相論するの間、義家朝臣と舎弟(源)義綱権を互いにし、両方威を争うの間、攻伐を企てんと欲す。天下の騒動、これより大なるはなし。」(「百練抄」同日条)。

直接の原因は、河内における郎従相互の所領争い。
河内国における両者の郎従、藤原実清と清原則清(どちらが義家の郎従か不明)との所領をめぐる相論にあったという。
しかし、より大きな原因は、両者の政治的立場にあった。
後三年合戦以後、朝廷の信頼を失って低迷する義家と、京にあって立場を上昇させた義鋼との、河内源氏嫡流をめぐる軋轢が介在していたと考えられる。

この衝突未遂事件では、後三年合戦の失策に続く不祥事であったためか、あるいは義家の非が認められたのか、義家に対してのみ処罰が加えられている。
義綱は、事件の影響もなく活躍を続ける。
摂関家の深い信頼を受けていたことが関係している。

義家には、五畿七道に対し「随兵」人京と、彼に対する諸国百姓の荘園寄進の禁止が命ぜられた。
入京を禁じられたのは、『後二条師通記』(寛治5年6月12日条)に「国司随兵」とあるように、受領郎従として下向していた軍事貴族たちと考えられる。
藤原輔通(資通)が豊後権守に就任していたし、藤原景通も河内源氏が受領を経験していない加賀国の介に就付して「加藤」を名乗っている。このように、義家の郎従である軍事貴族たちは、義家以外の受領のもとで任用国司・受領郎従・目代等に任じられて各地に下向していた。そうした者たちが義家の合戦の風聞を聞いて駆けつけることを禁じた。

義家に対する諸国百姓の寄進禁止は、『百錬抄』のみにみえるが、『後二条師通記』の翌寛治6年(1092)5月に義家が立てた荘園の禁止が命ぜられており、同じ事件をさす可能性がある。これは義家による荘園寄進の取り次ぎの禁止とみられる。
摂関家・王家では、受領・家司層を仲介役として寄進された開発領主の所領を中心に、大規模な荘園が形成された。受領、そして摂関家に祇候する義家の立場はこれで、陸奥守在任中、義家は陸奥の武士と摂関家の仲介を行い、荘園を構立した。

従って、ここで禁じられたのは荘園自体ではない。荘園寄進の仲介後に、義家が保持していた荘園管理の職が奪われたものと考えられる。奥羽の摂関家領では、義家にかわって藤原清衡が荘園の管理者として登用され、奥羽の支配者としての権威を固めることになる。

この事件と禁制は、義家と郎等との主従関係の特徴をよく表している。
郎等の所領が侵害されたとき、義家は武力に訴えて保護しようとした(義綱も同じ)。
郎等の所領に対する権利は本来、納税という義務が履行されているかぎり、国衙領なら国司、荘園なら荘園領主によって保障されている。義家は、そのような公的な権利義務関係とは別に、自らの武名と実力によって郎等の所領を保護しようとした。
また地方武士が義家に公験を寄進したところで、国衙や荘園領主との権利義務関係が解消されるものではない。郎等は何かのときに守ってもらうために公験を寄進し、義家は主従契約を破棄させない担保として公験を受け取った。

後三年の役後、義家は、諸国武士と主従契約を結ぶにあたって、名簿とともに公験を提出させる新方式を案出したと考えられる。
義家の郎等になれば、所領を守ってもらえる。守ってくれるから、召集があればいつでも馳せ参じる。これが義家と郎等との主従関係である。白河院が諸国義家郎等の上洛禁止を布告したことは、実際に上洛する気配があったことを示している。公験寄進の禁止によって、所領保全だけを目的に義家と主従関係を結ぶ道は閉ざされたが、義家と諸国武士との主従関係を断ち切るものではなかった。

しかし、義家と諸国武士との主従関係は本来的に戦闘組織であり、追討官府にもとづく追討戦においてもっとも有効に機能する。戦争がなく召集されなければ、この関係は弛緩していく。

政府がこの後、義家を受領に任じず、追討に起用せず、弟義綱を抜擢していくのは、義家と諸国武士との主従関係を解体させるためであった。
動きを封じられた義家の巨大な郎等組織は、義光や義国(義家三男)に分割され、義綱に侵食され、嫡子義親の謀反事件によって崩壊するかにみえた。
しかし神話は記憶され、やがて覚醒される。
前九年の役、後三年の役の神話は、頼義・義家と苦難をともにした坂東武士の子孫に刻み込まれていた。
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7月19日
・加賀守藤原為房、帰京のため任国加賀国府を出発。
19日任国加賀国府を出発、20日朝、淡津の泊を出て日本海を海岸沿いに南下、半日で越前丹生山塊西北岸の大丹生の泊(福井市大丹生町)で小憩、夜、敦賀着、官舎に宿泊。
21日敦賀で休養。敦賀津にいる宋人の陳苛が官舎に来て「籍」(書籍か)を進め、為房は返礼として「資粮(糧)」を与える。
22日、早々に大浦山(愛発山)を越え大浦津に着、船で大松泊(滋賀県志賀町)着、宿泊。
23日、大松泊を出発、昼、大津に着、夕方京に戻る。最大限水上交通を利用(「為房卿記」)
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7月25日
・宋人尭忠、敦賀津に来着。
閏7月2日、加賀守藤原為房、使者を遣わし尭忠に方物を贈る。
「為房卿記」8月17日条に「次、参内す。唐紙等を献ず」とあり、為房は宋人尭忠に使を遣わし交易を行い、「唐紙」など「唐物」を入手し献上したことがわかる。敦賀津では院の近臣と宋人との交易活動が活発。
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8月7日
・近畿に大地震。法成寺堂塔などが破損。
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8月15日
・源義家、石清水八幡宮に銀剣及び駿馬を奉じる。
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9月
・ムラービト朝スィール(ユースフ従兄弟)、セビーリャ王国を攻略、併合。セビーリャ・アッバード朝滅亡。
セビーリャ王ムータミド(位1069~1091)を捕虜としてモロッコに送る。西はメルトラから東のアルメリーアまでの他諸王朝も間もなく併合。

・エル・シッド、バレンシアでサラゴーサ王アフマド・アル・ムスタイーン2世、アラゴン・ナバール王サンチョ・ラミーレスと相互援助同盟を締結、ムラービト朝に対抗。エル・シッド、残りの生涯をバレンシアで独力の領地の建設に費やす。
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9月24日
・東大寺、若狭封戸からの米150石の代物の仮納返抄を出す。
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11月15日
・藤原清衡、上京し関白藤原師実に東北の馬2頭を献上。『後二条師通記』
「馬二疋」の献上だが、摂関家との接触をはかろうとした清衡の思惑が見える。義家撤退後の奥州に清衡自らが影響力を強化するためには、摂関家の後楯が必要だった。
奥州産の馬は貴族にとって垂涎の的であった。
『奥州後三年記』には家衡の所持する「花柑子(はなこうじ)」なる愛馬は「六郡第一の馬なり」と見え、金沢柵陥落にさいし、敵の手に渡ることをおしみ、自ら射殺したとある。そうした逸話が見えるほど、奥州は名馬の産地であった。
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12月17日
・関白藤原師実の50歳の賀。法成寺で法会。越前守源清実が左楽行事を務める。
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