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1787年、鬱病と、より高い社会的地位を得ようとする意図の挫折、妻の病気、子供、女中などの難儀
「ゴヤが一七八七年に、幸福の絶頂とも言える時期に、どう考えても鬱病としか考えられぬ病気を患っていた・・・、暗い雲がちらりほらりと姿を見せはじめる。
この年の正月には、妻までが病気になってしまう。
僕はもう気も転倒せんばかりだ。妻が病気で倒れ、子供はもっと悪くなった。おまけに下女までが熱病になるという始末だ。
・・・
また同じ一七八七年の六月には、アカデミイの絵画部長職に立候補、名乗り出てみはしたものの、ただの一票も得られなかった。
こうして自分自身の鬱病と、より高い社会的地位を得ようとする意図の挫折、妻の病気、子供、女中などの難儀が一時的に彼の戦闘能力を奪い、仕事の量は、比較的に減るのであるが、彼の妻の『ホセーファ・バイユー像』はこの一時期の終りに描かれたものであった。・・・彼の眼が、家庭内を向いていたことを明し立てるものであろう。」
1988年12月14日、スペイン王カルロス3世の死、そして翌年がフランス革命開始の年、近代の開始である
「王、カルロス三世が、(一七八八年)一二月一四日に死んだ。
・・・
死の翌年、一七八九年はバスティーユ監獄襲撃、フランス革命開始の年である。ヨーロッパの諸王室が、いまだかつて見たことのなかった、真に新しい時代が開始される。諸王室が見たことがなかっただけではなく、それは、同時に、諸人民もがいまだかつて経験したことのない、真に新しい時代が開始される。
・・・それは、まがいもなく近代の開始である。」
近代とは何か
「近代とは何か。」
「Satan sum et nihil humanum a me alienum puto.
我は悪魔なれば、すべて人間的なるもの、我に無縁ならず。」
「Je pense, donc je suis. (我思う故に、我在り。)・・・、僕の周園にあるその他のすべては、つまり、この世界全体も、神も、大魔王さえも、・・・こういうものがみんな果して実在しているのか、それとも単に僕自身の発散物で、無限の過去から唯ひとり存在している『自我』の漸次発展したものかということは、僕に証明されえない・・・。」
近代とは、つまりはわれわれ自身なのである
「近代とは、つまりはわれわれ自身なのである。
万人が、この世界全体も、神も、大魔王も、政治や経済さえがわれに関係なしとしては生きられぬ時代の開始である。
われわれが、われわれ自身の原型の、その顔貌に直面する、それが突きつけられることを、しかし、いましばらく猶予してもらいたいのである。
一八世紀末は、近代の執行猶予期間の如きものであった。」
カルロス3世の死因は、どうやら肺炎のようである
「カルロス三世の死因は、どうやら肺炎のようである。
・・・カルロス三世は、年がら年中、時計の針のように正確に、離宮から離宮へと移動をしてあるいたものであった。
年が明けて一月中旬にはマドリードの王宮を出て、マドリード郊外のパルド離宮に移り、復活祭の前週までそこで暮し、ついでマドリードに戻って宗教上の祭儀に臨席する。これが終ると、今度はマドリード南方四〇キロのアランホエースの離宮に移る。ここで六月中旬までをすごし、ついで三週間か一カ月をマドリードの王宮にいて、次にはマドリード北方八〇キロのラ・グランハ離宮に移り、ここに一〇月までいて、その次にはエル・エスコリアールの離宮に一二月までいる。ついでマドリードに移り、一月中旬には・・・。
これが毎年毎年、印で捺したようにきまって続いた。」"
"「・・・カルロス三世は、宮廷の誰彼が病気をしていようが、気候がどうあろうが、時計の針のようにきまった月のきまった日に移動をした。そうして秋から冬にかけてのエル・エスコリアール離宮のあるあたりは、雪も降るし、外気は大抵零度以下のところであった。石に漆喰を塗っただけの壁では、いくらタピスリーをぶら下げても暖房をしても、冷え切った石はそうそうあたたかくなるものではない。
老王が肺炎になったとしても不思議はない。」
幸運な生涯を送った最後のスペイン王、カルロス3世
「カルロス三世は、ともあれ、王としては幸運な生涯を送ったと言えるであろう。生涯のある時期には、エスキラーチェ暴動事件、イエズス会追放などの危機はあったとしても、彼はこれをどうにかおさめた。
そうして彼の死後、スペインには安泰な生涯をおくり得る王は一人もいなくなる。・・・
彼の王位継承者であるカルロス四世は、在位一九年にして退位を強いられ、その間に一九三六年から開始されたスペイン内戦の種子をさえ播くことになり・・・。
後世、外国の歴史家から彼は次のように評価される。
「一五九八年のフェリーペ二世の死以後、本当に統治能力のあるスペイン王は、たった一人しかいなかった。一七五九年から一七八八年まで在位のカルロス三世である。さりながら、この王の偉大な建設的事業も、また彼が注意深く選んだ大臣たちの事業も、彼の後継ぎの反応によってまたたく間に帳消しとなってしまった。カルロス四世は、わずかに偉大な画家ゴヤの、大成功をした - しかも愚劣な・・・モデルとして記憶されているだけである。」
カルロス3世の葬儀と近衛騎兵将校マヌエル・ゴドイ
「王の遺体は一日だけマドリードの王宮に安置され、ここでは葬儀のようなものはなく、翌一五日には、王が生前に大好きであった大規模な引越し騒ぎを再現して、エル・エスコリアール離宮へと向った。・・・
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葬列の主役は、近衛騎兵隊である。黒い羽飾りを頭につけ、黒い馬衣に蔽われた馬にひかれた葬儀車を中心に、二日がかり、徹夜で行進し、一二月一七日暁闇、エル・エスコリアール宮殿に到着した。
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数百人の聖職者が、ちらちらと焔のゆらめく松明の光りに照らし出された、諸王の広場と呼ばれる前庭で読経をしながら待っている。」"
"「そこへ白馬にうちまたがった近衛騎兵隊の若い将校が指揮官として立ちあらわれ、葬儀車から近衛兵がお棺をとり出す儀式を監督し、ついで抜剣をして居並ぶ近衛兵及び擲弾兵に武器の点検を命令する。三発の葬送用の射撃のためである。
銃声が終わると、今度は馬の向きを変えて別の命令を下す。
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金髪、碧眼のこの若い指揮官は、お棺が地下の腐らせ場に落着いたことを見届けてから、馬をかえして、即位式後にカルロス四世及び王妃となる、肥満した中年男と背丈ばかり高くて醜い中年女のところへ戻り、すべてが終った旨を報告して剣を鞘におさめる。すべて馬上である。
そこではじめて下馬をして、新王と新女王となる二人と、きわめて親しげに何かを話しはじめる。
この若い近衛騎兵将校こそが、マヌエル・ゴドイ(Manuel Godoy)その人であった。もうすでに三年来新女王の恋人である。」
カルロス四世、王妃マリア・ルイーサ、マヌエル・ゴドイ。この三人は地上の三位一体のようなものであった
「カルロス四世、王妃マリア・ルイーサ、マヌエル・ゴドイ・・・。
この三人は、いわば地上の三位一体のようなものであった。カルロス四世は、いかに低能であったとしても、そのことを知らなかった筈はない。スキャンダルはすでにマドリードで知らぬ者はなかったのであるから。・・・
おそらくカルロス四世は知っていた。けれども、それでもなんでも彼と彼女はマヌエル・ゴドイを必要とした。朝から晩まで、殊に王妃は夜中から朝まで彼を必要とした。
異様な三位一体である。・・・いかに父のカルロス三世が、子に向って、カルロス、お前はなんてバカなんだ、と口癖のように言っていたとしても、夫の方が妻の恋人を必要とする、つねに彼が身近かにいてくれることを必要とするとなれば、これはもうどう仕様もないであろう。どの一人が欠けてもならない。まことに、繰りかえして言いたいが、異様な、地上の三位一体である。
王及び王妃、従ってゴドイも一二月一九日の朝、マドリードに戻って来た。・・・
こういう三位一体は、稀には可能であったとしても長続きはしないものである。けれどもこの三位一体は、二〇年もつづき、ゴドイはラスティニャック(バルザック『人間喜劇』の主人公格のい一人)さながらに、マドリードのみならず全スペインをものにしてしまった。・・・しかもカルロス四世が王位を追われ、国外へ追放された後も、この三人はいつも一緒にいなければならなかった。」
マヌエル・ゴドイとは何者か
「・・・このマヌエル・ゴドイとは何者か。ゴヤもまたこの自信満々かつ徹底的に自己滞足をしている男を大画面に描かねばならなくなるのであったが、彼はほんの小貴族の小倅にすぎなかった。それも、スペインでの辺境中の辺境、貧しいなかでも貧しい、ポルトガルとの国境に接したエストレマドゥーラ県のバダホス市で、一七六七年に生れた。父は士官で、母はポルトガル人である。
先にスペイン人が彼につけた仇名が〝腸詰め屋″というものであったことに触れたが、それはマドリードに来ていたエストレマドゥーラ出身者の多くが屠殺屋や腸詰め職人などの職業に従事していたからであった。チョリセロ=腸詰め職人=エストレマドゥーラ人、ということにきまっていた。・・・
王妃マリア・ルイーサ、当時としての皇太子妃マリア・ルイーサがこの腸詰め屋ゴドイを見初めたのは、一七八五年のことであったとされている。場所はもう一つの離宮アランホエースの馬場であった・・・一七八五年、ゴドイはわずかに一八歳、ただの騎兵であるにすぎない。
ところが、王と王妃との即位式がすんだ一七九〇年、二三歳にして大佐となり、その翌年にはや将官である。二四歳の中将・・・。
そうして一七九二年、二五歳、ついに宰相となる。・・・
無茶苦茶のはじまりである。」
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