2012年6月2日土曜日

昭和17年(1942)6月11日 「客の中に萩の餅を持來る人あり、食麵麭を持來る人あり、少しづゝ知る人にわかち與るなり。」(永井荷風「断腸亭日乗」)

東京 江戸城(皇居)東御苑 2012-05-31
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昭和17年(1942)
6月1日
六月初一。晴又陰。夜淺草散歩。富士詣にて賑なり。
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6月2日
六月初二。晴。怙寂子來書。夜金兵衛に飰す。高橋邦太郎氏に逢ふ。
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6月3日
六月初三。晴。西銀座岡崎より梅びしほそら豆を貰ふ。
二三月前より市中に石鹸品切なりしが此頃に至り洗濯石鹸もなくなりしと云。
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6月4日
六月初四。細雨烟の如し。午後土州橋の医院に至り脚気注射例の如し。
空あかるくなりで雨歇むぺく思はれし故淺草に行き來合す京成バスに乗換へ立石に至る。
雨中奥戸橋の眺望画の如し。橋際に地蔵尊と道しるべの石あり。右江戸みち、左おくと渡し塲道、まかりかね道、寶暦五□□霜月吉日と刻したり。流の西岸には旅亭らしき二階建の家二三軒と林の彼方に神社らしき屋根見ゆ。東岸には蘆荻しげりたる間に一條の堤迂曲し葭雀鳴きしきりたり。
雨また降り來りし故バスにて玉の井に至り七丁目の知れる家を訪ふ。四年前この家にて働き居たる女かへり來れるを見たり。一昨年の暮石鹸製造工場の職人の妻となりしが浮気商賣の面白さ忘れられず今年の春より二度の勤をするやうになりしと語れり。
灯ともし頃地下鐡にて芝口に至り金兵衛に夕飯を喫す。川尻清潭子に逢ふ。空霽れ星影明なり。
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6月5日
・六月初五。陰晴定りなし。扇子二三十本揮毫。晡下淺草より寺嶋町を歩す。白鬚明神の祭禮なり。
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6月6日
六月初六。くもりて風冷なり。椎の落葉を焚く。日暮金兵衛に飰す。
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6月7日
六月七日 日曜日 梅雨空濛。終日門を出でず。
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6月8日
六月八日。雨霽る。銀座を歩む。
巷の噂に朝日新聞記者中にはその後も間諜の疑あるもの多きがため同新聞は近き中廃刊を命ぜらるぺし。又其事より引つゞきて近衛前総理の身邊も奇險(ママ)になるべし。開戦當時英米政府より莫大なる金を貰ひしこと露見せし為なりと云。
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6月9日
・六月九日。晴雨定りなし。夜淺草に徃く。
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6月10日
六月十日。晴。午後土州橋。脚気注射。淺草オペラ館立見。芝口金兵衛に至り夕飯を喫す。高橋邦太郎杉野昌甫二子の來るに逢ふ。歸途電車にて偶然日高氏 池平食堂主人 に逢ふ。
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6月11日
六月十一日。晴。鄰組の人豆腐を持來る。一丁六銭なりと云。
牛乳配達夫來り医師の診断書なき人には牛乳を賣らぬことになりたれば何卒その手続なされたしと言へり。
夜金兵衛に行く。客の中に萩の餅を持來る人あり、食麵麭を持來る人あり、少しづゝ知る人にわかち與るなり
日英開戦以來食料品の欠乏日を追うて甚しくなれるなり。
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6月5日はミッドウェーで日本海軍が大敗北。
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この月の出版本では

保田與重郎『万葉集の精神』
中野重治の単行本『斎藤茂吉ノート』(筑摩書房)。
初版第1刷3千、再刷2千、新版3千、計8千部。定価3円50銭。大成功。昭和15初~16年11月「日本短歌」「中央公論」「臨床文化」に発表したものにいくらか加筆したもの。

「『斎藤茂吉ノオト』を一度ひもとくと、寝る時間も惜しいやうな気持で一気に読了してしまった」
「文学の混乱時代が来たかの如く見える今日、徹頭徹尾はっきりと明確な自信をもって文学を追求してゐるかういふ書物の現れる事は大いに意を強うするに足りると云って好い」
(広津和郎「豪徳寺雑記」二、『東京新聞』43年1月20日号)。


他に、
小林秀雄(40)「無常といふ事」(「文学界」)。
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6月4日の風景描写、
6月11日の食料をお互いに分け合うという記述、
が印象に残る。
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