東京 江戸城(皇居)東御苑 2012-06-05
*川本三郎『荷風と東京 「断腸亭日乗」私註』を読む(23)
「十七 煙突の見える新開地 - 砂町」(その二)
煙突は、〝悪役〞ではなく、プラスのシンボル、新しい都市のランドマークであり、豊かさへの希望の塔だった。
東京電灯(東京電力の前身)が大正15年1月に建造した千住火力発電所の4本の煙突は、下町の人々に「お化け煙突」として親しまれていた。
「日乗」昭和11年3月17日
「獨り浅草に往き東武電車に乗り西新井に向ふ。途上放水路の鉄橋を渡り、小菅を過るや、壟圃(ロウホ)水田相つらなり、野水また潺々(センセン)たるを見る。処々生垣を結ひかこむ回らしたる農家あり。水田には水満ち畠には青き菜をつくる。未菜の花を見ざれど田園の風景甚佳なり。乗客は僅に十二三人のみ。二三の停留場を過ぎ西新井大師堂の門前に着す。境内を一覧す。老松二三株を見るのみにて殊に目を喜ばすものなし。南千住行の乗合自働車あるを知り、これに乗る。南側にこざと陋屋立ちつゞきたる細き道を行き放水路にかゝりたる西新井橋を渡る。橋の北詰に高く三四本の烟突を聳したる建物あり。人に問へば發電所なりと云ふ」
昭和15年11月26日
「西新井橋お化烟突の事 西新井橋南側の堤外に發電所ありて大なる烟突四本高く雲表に聳えたり。この近邊に住む者この烟突をお化烟突と呼べり。遠くより之を見る時場処と時間とによりて二本にも見え三本にも見ゆることあり。近きところに来らざれば四本には見えず。それ故お化烟突と云ふ由なり」
荷風は、「日和下駄」で書いたように基本的には煙突を江戸情趣を壊す野暮なものと否定していたが、同時に、その新しい都市美にも惹かれるところがあった。
「夢の女」のなかには、東京湾岸の煙突の風景が美しく描写されているし、「日乗」昭和6年12月2日には、荒川放水路に架かる葛西橋の上に立って、夕暮れどき、砂町のほうを眺めやり、そこに工場の煙突を見たとき、心を動かされたとある。
「工場の烟突遠く乱立するさまを望めば、亦一種悲壮の思あり」
煙突など本当は否定したい。しかし、夕暮れ、遠くに見える工場の煙突を見ると、近代の否定者荷風も、思わず情感を覚えてしまう。けなげだと思ってしまう。その気持が「悲壮の思あり」という言葉にこめられている。
昭和6年~7年、荒川放水路、砂町を歩いたころ、荷風はよくその茫漠とした風景をスケッチしているが、その絵には必ずといっていいほど煙突が描かれている。
昭和7年1月23日のスケッチは、堀切橋から四ツ木橋方面を望んだ放水路の風景だが、遠く四ツ木橋の西詰に煙をたなびかせる三本の煙突が描かれている。
同年1月30日のスケッチは、荒川放水路東岸から砂町を望んだ風景で、遠くに煙を出す二本煙突が見える。
昭和9年2月3日のスケッチは、千住大橋から遠く富士を眺めた風景だが、ここでは煙突が五本も描かれている。
深川の風景だが、昭和7年4月4日のスケッチで、仙台堀沿いの工場の煙突が大きく描かれている。
「荷風は実に煙突が好きなのだ。江戸の絵師が江戸の町を措くときに必ず遠くに富士山を描いたように、荷風は江東の風景を描くときに必ず煙突を入れている。荷風にとって煙突は、新しい工場風景のなかのよきランドマークになっている。」(川本)
ガスタンクにも心惹かれる。
昭和6年12月2日
荒川放水路を歩き、夕暮れ、放水路にかかる葛西橋の橋上に立って、西の城東地区を眺める。「橋上に立ちて暮烟蒼茫たる空のはづれに小名木川邊の瓦斯タンク塔の如く、工場の烟突遠く乱立するさまを望めば、亦一種悲壮の思あり」
昭和7年2月2日
砂町を歩いて荒川放水路に至り、堤防に立って人っ子ひとりいない寒々とした風景を眺める。そこにもガスタンクが見える。
「短き冬の日は深川洲崎あたりの空にかゝり、わが立つ影を長く枯草の上に描きたり、首を回して陸の方を顧るに、蒹葭の間に葛西楕横り、暮靄蒼茫たる中に小名木川の瓦斯タンク塔の如くに聳えるのみ」
新開地の荒涼とした風景のなかで、遠くにガスタンクが「塔の如く」そびえている。荷風はその寂しい詩情を愛している。孤然として立つガスタンクに、自らの孤影を重ね合わせたのかもしれない。
昭和7年4月25日
ガスタンクの近くまで足を運ぶ。
「三時過中洲病院に往く。清洲橋際より乗合自働車に乗り砂町瓦斯タンクの門前に至る。十間川と小名木川との二流十字をなす処にて十間川には三島橋といふ橋かけられたり。橋をわたりて小名木川の南岸を歩む。瓦斯会社の裏手に貨物列車の停車場あり。入堀に眞砂橋かゝりたり。橋の欄干にさまざまなる張紙あり。瓦斯電燈料三割値下げの事を説きたるビラあり」
このガスタンクは、戦前まで、城東区北砂町一丁目(現在の江東区北砂一丁目)、国鉄貨物線の小名木川貨物駅と横十間川のあいだ、「四谷怪談」で知られる岩井橋のたもとにあった東京瓦斯砂町製造所の二基のガスタンクである。
『東京瓦斯五十年史』(昭和10年)によれば、明治43年6月に、当地にあった古河鑛業会社深川骸炭所を買収して、これを砂町製造所とした。骸炭とはコークスのこと。当時はコークスを燃やして都市ガスを作ったので、ガス製造所はコークスの運搬に便利な水辺に作られた。
昭和10年ころ、東京には千住(明治26年)、深川(明治31年)、大森(明治43年)、砂町(明治43年)、芝(明治45年)と五カ所のガス製造所があった。大森、砂町、芝の三製造所が明治末年に出来ているのは、このころからガスが光から熱へ、つまり、都市ガスとして急速に普及していったため。
漱石の家にガスが引かれたのは明治42年7月20日。
その日、「陰。大いに涼しくなる。台所へ瓦斯を引く」(「漱石日記」)
森鴎外の家にガスが引かれたのは、明治44年12月26日。
「少しく温かなり。・・・瓦斯を家に引く」(「鴎外日記」)
明治43年頃、東京市内のガス普及率は約20%。
野田宇太郎は『瓦斯燈文藝考』(東峰書院、昭和36年)のエピソード。
明治40年7月東京勧業博覧会が上野で開かれたとき、明治天皇の行幸があった。東京瓦斯会社の「瓦斯館」は悪臭がするので瓦斯排出中止を命じられた。ところが天皇が瓦斯器具などを見たいといったので、東京瓦斯会社は「瓦斯館」に天皇を迎え、瓦斯で焼いた風月堂の菓子などを天皇に献上した。こうしたことが契機となって都市ガスが普及していき、明治末年には大森、砂町、芝と相ついでガスタンクを持ったガス製造所が作られた。そして大きな円型のガスタンクが新しい都市風景、ランドマークになった。
画家石井相亭は明治43年、深川のガスタンクを題材に「瓦斯槽」という画を描いている。
昭和7年3月18日
砂町火葬場の二本の煙突を描く。
「見捨てられたもの、忘れられたものへの荷風の共感は徹底している。・・・荷風の下町の細部へのこだわりはただごとではない。ディテイルの確かさ、各論のこだわりが総論の不備を凌駕してしまう。東京散策者としての荷風のすごさはここにある。」(川本)
この日、荷風は砂町を歩き、「砂村茶毘所」(砂町火葬場)に行きあたる。荷風はその風景に心惹かれ火葬場とその煙突を克明にスケッチした。
「昭和七年三月十八日の日記は、町歩きの白眉である。実際に自分の足で、砂町のような辺鄙な町まで歩いていなければこの偶然は生まれない。また、砂町に火葬場があるという知識がなければ、霊柩車のあとを追う必然は生まれない。町歩きとは、この偶然と必然が結びあうところにはじめて生きる。一種、名人芸の世界である。」(川本)
「この昭和七年は、一月に第一次上海事変が起り、三月一日には、「満州国」の建国が宣言されたばかりである。
昭和の軍国主義にあらがうように荷風は、誰も見向きもしない砂町の工場地帯を歩く。そして、偶然と必然がぶつかりあうところで発見した砂町の火葬場を克明にスケッチする。
荷風にとって、江東への町歩きは単なる「漫歩」ではなく、時代との緊張関係から生まれた作家の表現行為だったといえる。」(川本)
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