2012年6月6日水曜日

天慶3年(940)1月14日 藤原秀郷、平貞盛、橘遠保らが押領使に任命される

東京 江戸城(皇居)東御苑 2012-05-30
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天慶3年(940)
1月13日
・伊勢・石清水・賀茂社など12社に奉幣が行われた(『師守記』、『北山抄』巻6)。
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1月14日
押領使の任命
この日の臨時除目で将門に荷担していない坂東武士たち8人を坂東8ヶ国の掾に任じ、押領使を兼帯させた(『貞信公記』正月14日条、『園太暦』同前条)。

上総掾 平公雅
下総権少掾 平公連
常陸掾 平貞盛
下野掾 藤原秀郷
相模掾? 橘遠保

国司の掾には、国内を取り締まるべき任務があるから(職員令=しきいんりよう大国=たいこく条)、武力に長じ、それぞれの地域に精通した人物を掾に任命した。また、その任務を速やかに遂行させるために、彼らは押領使も兼帯した。

既に前年6月に、東国の牧別当(まきべつとう)を務めた者などを東国の権介に任命し、ついで押領使となったが、それでは不十分と考え、武勇に優れた人物を国ごとに任じて鎮圧を命じ、兵士や兵粮米の徴発を許可した。

押領使とは、追捕使と同義に用いられる場合もあるが(『日本紀略』正月14日条)、国ごとに置かれ、追捕官符を受けて犯人を追捕する役職のことである。
その前例は、すでに元慶の乱などにもみられるが、制度として整備されたのは、9世紀末から10世紀はじめに坂東を席巻した群盗を鎮圧した際であった。後世には、東国の受領自体が兼任する例も多くなる。

政府は、坂東諸国で将門に対抗している勢力(貞盛・公雅ら)、静観している延喜勲功者子孫(秀郷・遠保ら)に、政府軍に参加するよう呼びかけたのである。破格の恩賞の約束に彼らは俄然、将門打倒に意欲を燃やした

平公雅・公連:
平良兼の子供(将門の妻の兄弟)。
2人とも、良兼・源護・貞盛たちとともに、一度は追捕官符の対象になったが(『将門記』)、公雅は上総掾となり(『貞信公記』正月14日条)、興世王を上総国で殺害することになる(『日本紀略」3月18日条。藤原公雅とあるが平公雅の誤り)。公連は、下総権少掾で(『扶桑略記』2月8日条)、4月8日に坂東に入った(『将門記』)。

橘遠保:
将門の乱鎮圧後、伊予警固使に任命され、藤原純友およびその子重太丸(じゆうたまる)を討つことになる(『本朝世紀』天慶4年11月5日条、『師守記』)。
家系は不詳。近親者と推定される橘近保(おそらく兄弟)は、天慶元年5月、武蔵国の申請によって、当国および隣国に追捕官符が下された(『貞信公記』)。また、天慶5年6月、駿河掾として史料に現れる。それによれば、彼は駿河国が進上していた調物を奪い取り逃走したが、内通者があり、大納言藤原扶幹(すけもと)の家に隠れているとのことで、検非違使がその家を取り囲んで調査をしたが、見つけることができなかった(『本朝世紀』『日本紀略』)。どうやら、この一族は相模・駿河国あたりに本拠を持った豪族らしい。
いったんは追捕官符を受けながら、駿河掾に任命され、その後も略奪を行うという姿は、藤原秀郷にも通じるものがある。

藤原秀郷:
将門を殺害した人物。近江国三上山の大ムカデを退治したという伝説で知られている。
魚名流藤原氏の流れを汲み、父は下野少掾で押領使も兼ねた豊沢(とよさわ)で、母は鳥取鹿島女(ととりのかしまめ)であったという(『尊卑分脈』、『吾妻鏡』元暦元年(1184)3月27日条)。豊沢は、9世紀末から10世紀初め、坂東を跋扈した群盗を鎮圧するために、下向した可能性がある。

延喜16年(916)8月、下野国の言上に基づいて、罪人藤原秀郷・兼有・高郷・与貞(ともさだ)ら18人を、その罪に応じて配流すべきことを重ねて下野国司に命じたの(『日本紀略』)のが秀郷の初見。「高郷」という「郷」を連字に持つ人物の存在から、近親者の存在が窺われ、秀郷が血縁集団を中心とした党を形成していたことがわかる。

ついで延長7年(929)5月、下野国が藤原秀郷の乱行を取り締まることを申請した結果、周辺の国々に人兵を差し向かわせるのを命じた太政官符5通が下された(『扶桑略記』)。官符5通は、下野国および上野・陸奥・武蔵・下総・常陸国の内、4ヶ国に向けて出された追捕官符であると考えられる。

秀郷もまた土着国司の子孫であり、常陸国で追捕官符を受けた藤原玄明、橘近保・将門と近い立場にあった。状況さえ異なれば、大規模な反乱に立ち上がった可能性さえ考えられる。秀郷が将門を殺害することは、国家の立場に立てば、「毒をもって毒を征する」ということである。
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